宇宙人の独り言

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縄文文化と江戸文化

2010年08月30日 | 日記
 私は、常日頃お世話いただいているH氏への返信メールとして、5月26日に次の内容のメールを送りました。

 
 「日本は太平洋戦争に敗れ、アメリカに占領され、すっかりアメリカナイズされてしまった。
 今でもそれは変わっていませんね(間接統治)。
 日本民族の大和魂はどこへいったのでしょうか。

 日本文化の原型は、縄文時代にあるのではないでしょうか。
 近くは、徳川300年、江戸時代です。天下泰平で民衆の文化芸術学問
 が花開きました。

 Hさんの言われる、いわゆる「東洋型の共生社会」の良さに目覚める
というのは、江戸時代のような社会に回帰することのようにも思えます。
 いかがでしょうか。

 いずれにせよ次代を担うリーダーは日本だというのは、私もまったく同感です」
                                    


 今振り返って見ると、日本文化の原型は縄文時代にある、というのは私の直感から出た言葉でした。
 今朝、船井幸雄さんのHP中の「船井幸雄のいま知らせたいこと」を読んでびっくりしました。
 同趣旨のことが書かれていたからです。
 例えば、「・・・いま、縄文時代というか縄文文化が、特殊な時代と言えるすばらしい時代だったことが分ってきました。・・・
 日本の縄文時代が今世界中から、注目を集めています。
 それは主として、考古学のジャンルから始まったものといえそうです。
 日本から出土する縄文土器が、どうやら世界最古のものであることが確定的になったようです。
 また日本の縄文の木造建築物も世界最古、しかも非常に優れたものであったことが証明されつつあるということです。
 人たちの生き方も遺跡から判断しますと、平和で互助を中心としたものだったようです。・・・・・」といったことが書かれています。

 そして、近々、ヒカルランド社から中矢伸一さんの新著『日月神示、宇宙縄文神とのまじわり』という本が今月中に出るようです。
 また、もう故人となられた太田龍さんの『縄文日本文明一万五千年史序論』(成甲書房刊)という著書があります。日本縄文文明の意義と特質が書かれています。


 日本文化の原型は、縄文時代にあるようですし、近くは、徳川300年の江戸時代だと思います。戦争はなく、しかも天下泰平で民衆の文化芸術学問が花開きました。
 池田整治さんが書かれた『マインドコントロール』という本の中に、素晴らしい江戸時代を描いた箇所がありますので、以下転載ご紹介します。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
●江戸は人類史上、最初で最後の「共生都市」だった

歴史は繰り返される。
政権を獲ったものは、自己の正当性を強調するために、必ず前政権を否定する。
第二次世界大戦後はGHQの統治成功のために、戦前の日本のほぼすべてが悪とされた。
同じように、明治維新政府の正当化のために、それ以前の「江戸」は否定された。
では日本という国と「初めて」遭遇した外国人は、当時の江戸をどのように見たのであろうか? その記録があれば、もっとも客観的な評価を知ることができると思う。

実は幕末から明治初期にかけて、約4000人もの欧米知識人たちが日本近代化の教師として招かれた。最も有名な人が、帰国に際し「少年よ大志を抱け(Boys,be ambitious)」との明言を残した、札幌農学校(現在の北海道大学)創設者のクラーク博士である。
彼らの言葉中に、当時の江戸のすべてが表現されていると言っても過言ではない。
渡辺京二著『逝きし世の面影』(平凡社)からそれを、一部抜粋・転載させていたただく。

         *

「地上で天国(パラダイス)あるいは極楽にもっとも近づいている国だ。」
「その景色は、妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙虚であるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることはない。これこそ日本を、人生を、生き甲斐あらしめる。
ほとんど全てのことにおいてあらゆる他国より一段と高い地位に置くものである。」
             (英国詩人エドウィン・アーノルド。明治二年来日時の歓迎晩餐会スピーチにて)


「日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感の持てる国民で、日本は貧しさや物乞いの全くない唯一の国です。私はどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます。」
 (オリファント。1858年英修好通商条約締結のためのエルギン卿使節団の一員。母国の母への手紙)


「海岸の住民も、みんな善良な人たちで私に出会う度に親愛の情を込めた挨拶をし、子供達は真珠色の貝をもってきてくれ…根の親切と真心は、日本社会の下層階級全体の特徴である。」
「江戸庶民の特徴:社交好きな本能、上機嫌な素質、当意即妙の才」
「日本人の働く階級の人達の著しい特徴:陽気なこと、気質がさっぱりして、物に拘泥しないこと、子供のようにいかにも天真爛漫であること。」
                    (アンベール。1863年、スイス遣日使節団団長)



「世界のいかなる地方においても労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っている
ところはあるまい。」
「肥沃な土壌と良い気候と勤勉な国民」
「平野は肥沃で耕され、山には素晴らしい手入れの行き届いた森林があり、杉が驚くほどの高さまで伸びている。住民は健康で、裕福で、働き者で、元気が良く、そして温和である。」(オールック)


「誰彼となく互いに挨拶を交わし、深々と身をかがめながら口元にほほえみを絶やさない」
「その住民全ての丁重さと愛想のよさにどんなに驚かされたか。…地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ。」(ボーヴォワル)


「挙動の礼儀正しさ、他人への感情につての思いやりは、日本人の生まれながらの美徳」(モース)


「良き立ち居振る舞いを愛するものにとって、この「日出ずる国」ほど、やすらぎに満ち、命をよみがえらせてくれ、古風な優雅があふれ、和やかで美しい礼儀が守られている国は、どこにもほかにありはしない…」(アーノルド)


「世界で一番かわいい子供」(ムンツインガー)

「彼らの無邪気・素直な親切、むきだしだが不愉快でない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は我々を気持ちよくした。一方、婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。更に通りがかりに休もうとする外国人には、ほとんど例外なく歓待され「おはよう」という気持ちのよい挨拶を受けた。この挨拶は、道で出会う人、野良で働く人、あるいは村民から絶えず受けるものだった」                           (英国人ブック。1880年)


「日本人の性格中、異彩を放つのが、不幸や廃墟を前にして発揮される勇気と沈着さである。」(スエンソン)


「ここには詩がある。ここでは叙情詩も牧歌ロマンスも、人が望むありとあらゆるもが渾然一体となって調和していた。平和、底抜けの歓喜、さわやかな安らぎの光景が展開されていた。」

「横浜から東北、北海道の陸路を4ヶ月かけて旅したが、一度も危険を感じた事は無かった。武士道の倫理で成り立っている素晴らしい国。『籠かき』は、はじめ裸同然で醜いと思ったが、彼らが醜くないことを知る。極めて彼らはジェントルマンである。私は神にこれ程高潔・誠実で明るい男達の事を忘れないでくれと祈った」          (イザラマ・バード:英国20歳の女性英語教師)

        
           ※


良書からのほんの一部の抜粋だが、いかがだろうか。
これらのメッセージをまとめた著者の渡辺京二氏は、この本の中で次のような所見を述べている。
「自然に対して意識を開き、万物との照応を自覚することによって生まれる生の充溢は、社会の次元においても、人々の間に強い親和と共感の感情を育てたのである。そしてその親和と共感は、単に人間同士の間にとどまるものではなかった。それは生きとし生けるものに対して拡張されたのである」

幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、一つの完成の域に達した文明だった。
それは成員の親和と幸福感、与えられた生を無欲に楽しむ気楽と諦念、自然環境と日月の運行を年中行事として生活する「仕組み」において、異邦人を賛嘆へと誘わずにはいられない文明だった。
では江戸の町の何が、異邦人たちをこのように賛嘆させたのか。それを見てみよう。

●都市全体が循環する「リサイクル」国家

日本に来た外国人は、そのほとんどが中国・上海を経由した。
上海という街は、見た目は石造りの高層ビルもあるが、ほとんどの住民は彼らの目から見ると、まるで物乞い同然の汚いものだった。そこからさらに船で東端の島国である日本を目指した。インド、中国の次である。彼らは相当な汚さを予期していた。
ところが日本に上陸すると、その美しさに絶句した。
黒潮・親潮の海洋エネルギーの恩恵に積み重ねられた「春夏秋冬」の、まるで絵画のような大自然に圧倒された。都市生活に慣れた人が、太古からの自然が唯一残る北海道・知床にいきなり上陸するようなものと考えて欲しい。

寒村の横浜でも、小道に至るまで綺麗に手入れが行き届いている。マッチ箱のような農家でさえ、庭には小奇麗な盆栽がある。欧州における農奴の生活ではあり得ない風景だ。
それまでの国々で「give me money」とまとわりつく子供がいないばかりか、逆に礼儀正しい住民と目を輝かせた好奇心あふれる子供たちがいる。彼らは異邦人を家に案内し、食事を賄い、風呂まで入れて、しかも帰りには土産までくれる。御礼に手持ちのペンなどを差し出すが受け取らない。寝る時は家に鍵をかけないで寝ている。

さらに江戸に行くと、そこはまるでパラダイスだった。
それもそのはずである。現存する後楽園や六義園クラスの大規模な公園が300~400ほどある。中規模の公園は3000~4000ほどもある。小さな個人の家にも必ず庭があり、盆栽などが植え込まれている。言うまでもなく、大規模な公園は大名屋敷であり、中規模な公園は旗本屋敷や神社境内である。
しかも非常に衛生的だ。トイレが完備されていて、汚物は有機肥料として使われている。完全な循環型有機農法で、リサイクルにより人口100万人を賄っている。とても清潔で、掃除の行き届いた町並みだった。

行き交う人々は礼儀正しく、温かい人間性にあふれている。必ず笑顔で挨拶をしてくる。子供の天真爛漫な無邪気さは他国では見られない。市民が本屋の前で立ち読みする姿など世界で始めて目にした。絵画や彫刻、陶磁器等の芸術も、これまで見たことのないほど繊細で大胆な構図である。目に触れる物、人、そのすべてに彼らは感動した。
これらを上空から見れば、まさに緑あふれた史上最大、最高の公園都市・パラダイスだろう。列島文明の特性である「自然との共生」が、大都市・江戸で結実したのである。

●悪臭漂うパリやロンドン、物乞いのない江戸

では、彼ら異邦人の都市はどうだったのか。
当時、パリやロンドンは人口が約50~60万人ほどで江戸のほぼ半分だった。
江戸との大きな違いは、緯度が高く、生物を養う豊潤な海洋エネルギーが乏しく、地質もやせていることにあった。その結果、自然との共生ではなく、自然を克服し、唯一の建設資材となる「石」を使って人口的で幾何学的な街を作るほかなかった。

石の建造物なので、高層ビルも建てられ確かに見栄えはする。しかし生活は決して快適とは言えない。トイレは各階のしかるべき部屋に「壺」が置かれた。壺に坐って用を足すのである。このため、女性のドレスの裾に鉄線が入れられ花びらのように開かれた。一見華やかなドレスのデザインには、実はこういう事情があったのである。
壺が一杯になると、汚物が窓から捨てられた。江戸と違って上下水道が完備されておらず、生ゴミ等は放し飼いの豚に処理させるお粗末さである。それゆえ、ぬかるみの路地では夏ともなると虫が湧き、不衛生極まりない。だからコレラが流行した。そして臭い消しとして香水が多用された。欧州で香水が発達したのは、こういう理由であることを忘れないで欲しい。
貴族階級以外は、ほとんどが彼らの使用人か農奴である。彼らは麦わらの中で雑魚寝生活である。読み書きのできる市民などほとんどいなかった。
こういう都市生活をしていた異邦人たちが、生まれて初めて味わったのが江戸という自然公園都市だった。彼らがパラダイスと感じ、賞賛した所以である。・・・
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