マローさんの覚え書き

日記、感想、進化退化の記録。

きみが悪い・1(芦沢~柄里)

2008年01月27日 | 小説?
 杉並区在住のOL、芦沢くるみはシャツ一枚の姿で冷蔵庫を開けた。
 1Kとはいえほぼワンルームの部屋だ。『王様のブランチ』を見ながら食事
を待っている彼からは、くるみのギリギリショットがちょうど見えるだろう。
 視線が裾のあたりに集中するのを心地よく感じながら、背中が丸まらないよ
うにそっと上体を倒し、低い庫内から卵を3つ取り出す。
「リョウジ、オムレツでいいよね?」
デザートはアタシねっ!と言外に匂わせたくるみスマイルで、彼女は髪から振
り向いた。が、
 見ちゃいねぇ。
 まこと視線とは受け手側で感じるものである。
 すでに彼女を愛撫していたはずの彼の瞳は、液晶画面のはしのえみから微動
だにしていなかったのだ。あまつさえ、口半開きである。姫様のどこがそんな
にリョウジを惹きつけるのか。
 くるみは苦りきった顔で舌打ちを一つすると、すでに煙を出しているフライ
パンにバターのかたまりを放りこんであおった。熱しすぎたのかバターは溶け
た側から褐色に焦げていく。不味いかなぁ、と頭の隅でちらりと考えたくるみ
だったが、ためらいなくそのまま卵を割入れることにした。
 どうせ、食べるのはリョウジなのだ。
 流しの角でコ、コッと打って、指を入れて。
「ほんげぇぇぇ!!!」
もはや可愛く振舞うことを放棄したくるみからは、ブッサイクな悲鳴しか出て
こなかった。しかし素でただならぬ雄叫びは倦怠期の恋人の関心をひいたらし
く、リョウジが笑いながらキッチンにやってくる。
「おい、何だよ今の『ほげぇぇ』って・・・う、わ、何だ、これ、何!」
 フライパンの上には薄く広がった水様の白身。
 盛り上がりに欠けるのは鮮度が低い証拠だ。
 そしてその同心円の中心で熱に暴れているのは・・・
 小指ほどの大きさの、人間の肘から先、である。
すでにそれを包んでいた白身は固まっており、逃げることもかなわないままバ
タバタと悶えていた。
「どうしよう、リョウジどうしよう!」
「ひ、火消そう。とにかく。な。」
 パニックを起こして縋るくるみのベアーハグは強烈だ。リョウジは何とか片
腕を抜き、コンロの火を止めた。しかし、時すでに遅し。卵から出てきた小さ
な人間の下腕は、掌を1、2度軽く握り、そして動かなくなった。
「死んじゃった・・・。」
「右手、だな。」
テレビで、谷原章介が笑っているのが聞こえた。

「はぁ!?小人?またか。」
 柄里慎一はスーパーの店長をもう12年やっている。一度は区の支店で一番
の売上を記録し社長から表彰された。商店街の自治会長にも選ばれた。
しかし万引常習犯を捕まえてみたら自分が選挙で入れた都議の奥さんだったこ
ともある。
それなりに幸不幸はあったが、食中毒や大きな不祥事もない、つつましく幸せ
な12年間だった。なのに。
 さっきの女でもう5件目だ。自分が何をしたというのだ。
「またですよ。今度は右手です。あのオネエチャン、現物置いて行きましたよ。
見ます?」
「いや・・・いい。」
 店員が持ってきたものには一瞥もくれず、柄里は頭を抱えた。
 横から気密服の男が店員の手からラップのかかった皿をひったくる。
「うわぁ、手だ。ホントに手ですよ。右手ですねぇ。」
「でしょでしょ。しかも焼けてますよ。キモイっすねぇ。」
「キモイねぇ。」
 保健所の職員だ。突然の異常事態に嬉しくてたまらないようで、さっきから
店員とはしゃいだり、仲間と話してばかりで一向に情報が集まらない。
 柄里は今日2回目の胃薬を噛み潰した。
 まったくもって不条理極まりない。だいたい卵から小人とはどういう了見だ。
しかも生きてる小人が全身出てくるならまだいい、ファンタジーじゃないか。
でも、今日受けた報告はすべて、ばらばらの部品ばかりだ。頭1つ、手が2本、
脚2本。
「誰が小人バラバラにして、卵に入れたんだろうなぁ。あと胴体入れば一人じ
ゃねぇか。」
漏れたぼやきに、店員がさらりと答えた。
「いえ、一人じゃないっすよ。」
「はぁ?」
「え、だから一人じゃないっす。」
「どういうことだよ、頭1つに手足が2本ずつだろうがよ。」
 頭は最悪だった。実は柄里が朝2階の自宅で見てしまったのだ。
飯にかけようと卵を割ったら、小鉢の中で透明の白身にくるまれた生首がニヤ
ニヤしていたのである。
 恐怖のあまり思わずレンジにかけてしまった。
 しかもラップを忘れていた。
 妻に掃除させたがもう、あのレンジは使いたくない。
「いや、あの、手は両方右手なんす。」
「・・・カンベンしてくれ。」
 保健所は最初、柄里の必死の調査依頼も全く本気にしてくれなかった。
 土曜日で人も少ないのに冗談に付き合ってる暇は無かったのだろう、自分が
職員だったとしてもそうだろうと思う。
 しかし、脚を見つけた客が直接保健所に持って行き、柄里のスーパーで買っ
たと言ったところから保健所職員の公徳精神に火がついた。マイクロバスで乗
りつけた気密服の職員が来たのは昼過ぎ。
 店を閉めて待っていた彼はその物々しさに、自分の小さな世界の終わりを痛
感したのだ。
 今、彼らは巨大なボウルに店中の卵を割り入れている。微かに濁った白身の
中に、淡いオレンジの黄身が無数に浮かんでいるのはなかなか壮観だった。
「なかなか出てきませんね。普通の卵は全部シロです。」
 気密服では割りづらいのだろう、卵でべたべたの職員が柄里に報告しに来た。
「そうか。」
 眼だけをどろりと動かして、柄里は職員に返事した。そもそも、何をそんな
に嬉しそうな顔をしているのかが柄里には理解できない。メガネ曇ってんぞ。
「うちの店からしか出てないんなら、オリジナルから割ってくれれば良かった
ろうよ。いくら卵が物価の王様だからって、原価があんだよ。」
 思わずそんな嫌味が口をついて出てしまう。
 ・・・待てよ。
 今朝柄里が食べようとした卵は『佐々木さんちのこだわり卵』だった。
緑のパッケージに赤い地鶏を抱いた写真のついてるやつだ。
柄里は立ち上がり、机を漁った。
「店長、なにしてるんすか。」
 ついに気でも違ったかと店員が呆れ顔で訊く。
「馬鹿野郎、ぼさっと突っ立ってないでレシート探せよ。今日客が持ってきた
だろう。2枚、あったはずだ!」
 そう言っている間に1枚は見つけた。間違いない『ササキ』と書かれている。
 もう1枚はゴミ箱の中にあった。店員が捨てたらしい。返金レシートを捨て
るとは良い度胸だ。こいつはクビ、と柄里を頭の中で書類を作る。まあ、もし
店が保てば、の話だが。
ともあれ、これにも『ササキ』と打ってあった。
 柄里が決然と振り返ると、職員達は嬉々としておがくずを探っている。
「おい、あんたら何してんだよ、烏骨鶏じゃねぇよ。緑のやつだ。『佐々木さ
んのこだわり卵』だよ!」
 柄里の剣幕に職員達はビッ!と撃たれた様になり、慌てて緑のパッケージを
持ち出した。一杯になってしまたボウルの中身はビニールに空け、銘々1個づ
つ卵を持つと、奇妙な緊張感が生まれる。
「何やってんだ、早く割ってくれ。」
「や、なんか重いんですよ、この卵・・・。」
「いいから、あんたたちこれをやりに来たんだろうが!」
 促されて、一人が意を決したように頷くとボウルの端に卵を打ちつけた。他
の職員達もそれに倣って卵にヒビを入れる。

 この後の光景は酸鼻を極めた。

 只一つ言える事は、柄里の当面の敵が決まった、ということである。
「佐々木め、恩を仇で返しやがって・・・。」
 胃液の酸で荒れた喉を絞り、柄里は呪詛の言葉を吐いた。
 佐々木鶏卵の社長は柄里の後輩だった。佐々木の卵を見出したのは彼だし、
鮮度の高いおいしい卵として『佐々木さんちのこだわり卵』は彼のスーパーの
定番商品だったのだ。
「刺し違えてでも賠償させてやるからな。」
 不幸にも気密服のフードを上げるのが間に合わなかった職員が後ろでばたり、
と倒れた。
もう誰も、ボウルの中を見ようとはしなかった。


 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。