makoto's daily handmades

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コウジさんに思いを馳せる

2017-07-17 21:20:57 | 忘れ得ぬ人々
72年前の今日、午後11時過ぎのことです。
私の大叔父、コウジさんが亡くなりました。
私が生まれるずっと前に亡くなったので、私は会ったことがありません。
でも、コウジさんのことが忘れられないのです。
だって、コウジさんはまだ20歳で未婚でしたから、彼を供養してくれる人は数が少ないのです。
私も結婚はしていても子なしなので、コウジさんと同じ道を歩みます。
だから、せめて私だけでもコウジさんのことは忘れないようにしたいのです。

コウジさんは、茨城県日立市の軍需工場(日立製作所)で働いていました。
軍属だったそうで、戦闘機の開発に関わっていたと聞きました。
ちなみに亡くなる直前に召集令状が届いていたそうで、8月には福島県の部隊に入営する予定だったと言います。

昭和20年6月に空襲があったとき、コウジさんは防空壕に逃げ込んで助かったそうです。
72年前の今日は、日立艦砲射撃がありました。
コウジさんは防空壕に逃げ込んだら、そこに艦砲射撃が直撃したそうです。

コウジさんの墓標には「7月18日」と記載されていますが、本当は17日だったのです。

じつはこの7月17日、私の祖父(コウジさんの兄)の誕生日です。
当時祖父は徴兵でソ連と満州国の国境警備についていました。
満州にいた祖父たち兵士の間で「お狐さん」という占いが流行ったことがあったそうです。
今で言う「コックリさん」と同じようなもので、お狐さんは伏見稲荷の神使である狐を呼び込むため、油揚げを用意するとか。

そのお狐さんの結果、祖父は「家族が1人減った」と言われました。
祖父は「高齢の祖母が死んだのだろう」と思い当たったそうです。
自分を可愛がってくれた祖母が死んだかと思い落ち込んだそうですが、今のように電話なんてないし、戦況厳しく手紙が届くかもよく分からない状態なので仕方がないと思っていたそうです。

祖父は昭和20年8月、広島に新型爆弾が落ちたことをラジオで知ったそうです。
広島が一発の新型爆弾で消滅したとの報道で、最前線の兵士達は騒然としていたところへソ連侵攻の情報が飛び込みます。
祖父たちは武器を持って逃げて逃げて…。
とにかく合い言葉は「朝鮮を目指せ」。
なにせ祖父たちの世代は生まれる前から、朝鮮は日本だった訳ですから、まさか終戦で朝鮮が日本では無くなるとは考えなかったそうです。
その大混乱の逃避行で祖父は、生死を分ける戦闘も経験したそうですが結局ソ連軍に捕まり、シベリア抑留を経験することになりました。

祖父は復員するまで、一度たりとも弟が死んだとは考えてもいなかったそうです。
長男の自分がもしも死んだら、弟のコウジさんが農家を継いでくれるだろうと考えていたからです。
だから祖父は生前「コウジはオレの身代わりで死んだんだ」と言っていたそうです。

コウジさんは甘い和菓子が好きで、ぼた餅が好物だったそうです。
だからコウジさんの命日には、いつもぼた餅がお供えされていました。
祖父の兄弟たちは今も「コウジさんが兄弟の中で1番優秀だった」と言います。
若くして亡くなった兄弟なのでとくにそう言った印象なのかもしれません。

なによりも、コウジさんの遺骨はいまだよく分からないのです。
コウジさんの亡くなった後、曾祖父が日立市に向かいましたが、7月19日にも空襲があって、たくさんの死者が出ました。
だから、軍需工場で働いていた方の死体は野積みにして一度に焼いたそうです。
曾祖父が必死に探し当てたのは、地元の人が「あそこで死んだ人はここで焼いた」という証言から、その場の灰や細かな骨を持ち帰っただけなのです。
それを骨壺に詰めてお墓に納めています。

ただそれだけのこと。
私は、コウジさんに会ったこともないし、何一つ経験したことではありません。
ただ数年前、日立市の成沢霊園にある日立製作所の戦災慰霊碑を訪れる機会に恵まれ、コウジさんに思いを馳せる日として7月17日を迎えることにしているのです。
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2 コメント

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こんにちは(^^) (jun-sweets)
2017-07-18 10:29:23
合うこともなかった大叔父様を、
時を超えて思いを馳せるってなかなかできないと思います。
大叔父様もmakotoさんを空から見ているかもしれませんね。
jun-sweetsさんへ (makoto)
2017-07-18 12:54:21
気が付いたら、私は大叔父のコウジさんの倍以上も生きていました。
農家の次男坊だったコウジさんは、手に職を付けようと工業の勉強をしたために、軍需工場で働くことになりました。
どうしても戦地に行きたくなかったから研究の道に進んだ結果だったとも聞きました。
コウジさんのように夢と希望を持った若者が亡くなるような時代を思うと、今の時代に生きられることを本当にありがたく思います。

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