makoto's daily handmades

暮らしのこと、時々ハンドメイド、散歩、読書
セキセイインコたちを眺めながらのティータイムが至福の時

先輩Yさんの思い出

2017-08-24 13:17:50 | 忘れ得ぬ人々
以前勤務していた職場の先輩Yさん。
私と同い年でしたが、2年先輩で30歳で退職をされた。
とてもミステリアスな雰囲気の方だったが、私が自動二輪車の免許を取得するきっかけを作ってくださった方でもありました。

じつは彼女、8年前に亡くなりました。
退職後だったのですが、たまたま当時同じ部署だった方とご親戚だったことで教えていただいたのですが、密葬だったこともあってお線香をあげることもできませんでした。
就職したての私にいろいろと親切にしていただいた方なので、当時とてもショックを受けました。
ただ、退職後は交流がなく、私の思いの押しつけでは、ご遺族の方にご迷惑をかけることになるので、寂しさとともにモヤモヤした気持ちを抱くことになりました。

今日、たまたまある広報紙で、文字は違いますが、先輩Yさんと同じ名前の方が掲載されていました。
そのため突然、彼女のことを思い出しました。
もう2度と会えない彼女ですが、ふと思い出すにことたびにお世話になった日々とその感謝の気持ちをちゃんと伝えていただろうか?という反省です。

先輩Yさんにとって私はたくさんの後輩達の中の一人でしかなかったのでしょうけれど、私には影響を与えてくださった一人でした。
ふと思い出すにつけ、周囲の方への感謝を伝えることや、その気持ちを態度に表すことをキチンと持ち続けたいと感じています。
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おーいお茶 新俳句のこと

2017-07-30 18:53:48 | 忘れ得ぬ人々
そう言えば、先週の法事の席で親戚を方が伊藤園「おーいお茶」の新俳句大賞で入選したと聞きました。
おーいお茶のパッケージにある、あの俳句のことです。

それはスゴいね!と伝えると「たくさん入賞するから、たいしたことないみたい」とのことです。
ちなみに厳密には俳句ではありません、新俳句です。

その方の作品をネットで拝見したら、季語がありません。
思わず私が「これは川柳では?」と言ってしまいました。
新俳句は季語がなく、その時の心情を言葉に込めるそうです。
そうなると、私には短歌を思い起こしますが、短歌よりも短い字数で心情を表現することになります。
短歌独特の心情の移ろい、込めた気持ちの余韻は?とますます分からなくなります。
だから、新俳句は私が知らないジャンルの文芸だと言うことです。

続けて聞いてみると「自分の作品が載ったおーいお茶をもらえる」とのことです。
その本数は1本らしいです。
また入賞者がたくさんいるので、市販のおーいお茶から自分の作品が掲載された製品を見つけるのは至難の業らしいです。
本来なら自分の作品が掲載された製品を親戚に配りたいところらしいですが、それはムリらしいとのことでした。

おーいお茶の新俳句大賞の内情を少し知って、面白いお話が聞けたなぁ、と思った次第です。
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F叔母さんとの電話

2017-07-28 21:26:00 | 忘れ得ぬ人々
先日の実家の法事ではゆっくり話ができなかったF叔母さん。
彼女は四国に住んでいるので、年1度くらいしか会えません。
電話やメールはやりとりしているが、先日から叔母とは行き違いになることが多く、やっと今夜叔母と電話で話しました。

叔母は1か月くらい前から腰痛で、やっと大学病院での診察が決まったそうです。
しかも鎮痛剤の飲み過ぎでしょっちゅう口内炎ができているので、話すのも億劫そうです。

10年前の叔母なら「うちの子たちはもう四国に帰ってこないって諦めている」と言っていました。
ところが2~3年くらい前から「娘は四国に帰ってきてほしい」と願うようになってきました。
叔母の娘、つまり私の従妹は四国に帰るつもりはなく東京で生活しています。
家族の問題なので私は口出ししませんが、従妹を四国に帰らせようと思うのはちょっとかわいそうな気になります。
なによりも実家と同じ市内に住む私には、上京や田舎に残した両親など、理解しきれないキーワードなので、叔母の話に耳を傾けるだけです。

また叔母の体調が不調なので、気持ちが弱っているのかな?とも感じられます。
そして叔母のお姑さんも、不調なので(いわゆる後期高齢者特有の気持ちの落ち込み)気持ちが塞がりがちなのだとか。

たぶん叔母にとって今は人生の中でも、体調の不調と気持ちの塞ぎ込みが重なっている時期なのでしょう。
叔母の息子が住む沖縄県で、暑い陽射しと開放的な南国の気分でも味わえば気晴らしにもなるのでしょうけれど…。

叔母宅は自営業なので、夫婦揃って出かけることができません。
ご主人は来月沖縄県に行くそうですが、叔母はお留守番。
叔母の悶々とした気持ちが、少しでも吹き飛ばされますように!
今は腰痛のため阿波踊りの音色さえも恨めしくなってしまう叔母が、早く元気になりますように!
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マー姐さんとアッキーに会う

2017-07-25 15:53:20 | 忘れ得ぬ人々
元同僚マー姐さんとそのご子息アッキーに会って来ました。
アッキーはこの世に誕生してまだ4か月。
写真では何度も拝見していても、ホンモノとは初めてのご対面です。

待ち合わせより15分ほど早く着いたので周辺を散歩してみました。

平瀬川という多摩川の支流の近くで待ち合わせです。
この川の下流は何度か歩いたことがありますが、中流域は殆ど来たことがありません。


とりあえず平瀬川と待ち合わせ場所を確認しました。
なにせ全然土地勘がないので、待ち合わせ時間までの15分で待ち合わせ場所に着く必要があります。
迷っていたらしゃれになりません。


和菓子屋の隣の路地から平瀬川に向かいます。


この辺りは桜の木があります。
幹や枝ぶりからソメイヨシノではなさそうだと判断しました。


上流に向かって歩いてみます。


平瀬川沿いには水防団があるようです。
私の自宅付近ではこういった表示板を見かけたことがないです。


嶋田人道橋の近くでネムノキの花が咲いていました。


下流方面を望みました。


平瀬川には川面に降りる階段がありました。


この風景は写真では見たことがありましたが、実際に見るとこんなに親水空間が近くに感じられるとは思ってもみなかったです。


禅寺丸柿でしょうか?私が住む地域ではなかなか見られない柿の木です。
ちなみに禅寺丸柿は、川崎市麻生区原産で日本最古の甘柿と言われています。


そういえば平瀬川の源流はどの辺りだろうか?と思っていたところ、蔵敷交差点の少し手前で二手から合流している地点を見つけました。
ああ、そうか、ここで合流なんだと一人納得しました。

ここから郵便局に立ち寄ってから、待ち合わせ場所に向かいました。

さて初めて会うアッキーは大変機嫌がよかったようです。
4か月の赤ちゃんと言えば、泣いているかミルクを飲んでいるか、だと思ってのですが、かなりニコニコしていました。
マー姐さんは、出産以降なかなかメールのやりとりもできなく、子育てが忙しいのかと思っていました。
ところが実情は、ご親族が亡くなったり、ペットのワンコが体調を崩したり、出産以降多忙すぎたようです。

久々に会えて色々お話した中で、やはりマー姐さんはママになったなぁ、と感心しきりです。
仲は良くても、やはり違う人生だな、と感じました。
マー姐さんのは、アッキーという未来にわたり責任を持って育てていく対象があり、子どもの幸せを願う家族愛を感じました。
私にはない輝きある未来を感じさせてもらいました。
それを思うと、私は未来を考えることなく、日々淡々と過ごしていると感じてしまいました。
そして久々に、赤ちゃんってカワイイな、とも。
ただし自分が親になるのはムリだなぁ、と同時に感じてもいるのですが。

アッキーの成長を楽しみにしている彼女。
折々に私もアッキーの成長を楽しみにしています。
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F夫妻

2017-07-24 19:04:46 | 忘れ得ぬ人々
昨日、実家で執り行われた法事で久しぶりにF夫妻にお会いした。
F夫妻は、私の大叔母夫婦で2人合わせて181歳。
大叔母は足が悪く、病気のために手の震える等がありますが、頭はしっかりしている。
ご主人は高齢で耳は遠いが足取りはしっかり、そしていまだ現役喫煙者。

昨日大叔母は歩くのもままならないので、法事の最中にお焼香が最後になりました。
ご主人がお焼香を終えた後、スッとお焼香台を持って大叔母の元に持って行きました。
座ったままお焼香をできるようにです。

私はご主人の優しさを実感し、そして私の至らなさを感じることとなりました。
こういったとき、大叔母にお焼香台を持っていって差しあげることを私は思いつきもしませんでした。

大叔母夫婦の家族は40年ほど前に仮住まいのために、私の実家の隣に住んでいたことがありました。
その頃私は幼稚園児くらいです。
大叔母は口うるさい親戚で、幼稚園児の私には「Fおばさんってすく怒るんだから」と思っていました。
当時ご主人はまだ会社員でした。
休日くらいしか顔を合わせませんでしたが、白い新聞をにらめっこしながらラジオを聞いて、耳に赤ペンを挟んでいた姿が懐かしいです。
そう、私が初めて競馬に夢中になる人を見かけたのは、この時です。
ご主人はいまもたまに競馬場に向かうというので、本当にお好きなんだな、と。

あの頃の姿を思い出すと、こんなにF夫妻が長生きで助け合っている姿を見せていただき、本当に美しく神々しいな、と思いました。

さてこんなに感動させていただいたのに、私は長生きに興味がありません。
F夫妻のような生き方ができるとは思っていないからでしょう。
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秋田豪雨 大丈夫だろうか

2017-07-24 18:37:01 | 忘れ得ぬ人々
先月まで働いていた職場で同僚だったSさん。
彼女は先週までの契約のアルバイト従業員でした。
契約終了の2日後に生まれ故郷の秋田市に引っ越すとおっしゃっていた。

ところが、引越直後に秋田県で豪雨が発生しています。
彼女、大丈夫だろうか?と心配しましたが、私、彼女の連絡先を知らないのです。
彼女と私の最寄り駅は二駅しか離れていなかったので、帰り道が一緒でした。
本当はこのまま都会で暮らしたかったそうですが、ご実家のご家族の健康問題でどうしても近くに住みたくなったそうです。
ご主人のご理解のもと秋田市に帰ることは楽しみな反面、都会に後ろ髪引かれる思いもあり、またいつか都会に住みたいとも。

田舎を持たない私にはその葛藤を十分に理解することは難しいです。
でも家族の健康問題となると、その心配さはやはり家族関係に起因していて、彼女の母を思う心は美しいな、と感じたモノです。

彼女は「引越の見積もりをしたら、夏休み期間直前の方がお安かったから」と、この時期の引越にしたそうです。
もう彼女とは会うことはないのだろうな、と思いつつ、その無事を祈らずには居られません。
Sさん、どうぞご無事で。

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コウジさんに思いを馳せる

2017-07-17 21:20:57 | 忘れ得ぬ人々
72年前の今日、午後11時過ぎのことです。
私の大叔父、コウジさんが亡くなりました。
私が生まれるずっと前に亡くなったので、私は会ったことがありません。
でも、コウジさんのことが忘れられないのです。
だって、コウジさんはまだ20歳で未婚でしたから、彼を供養してくれる人は数が少ないのです。
私も結婚はしていても子なしなので、コウジさんと同じ道を歩みます。
だから、せめて私だけでもコウジさんのことは忘れないようにしたいのです。

コウジさんは、茨城県日立市の軍需工場(日立製作所)で働いていました。
軍属だったそうで、戦闘機の開発に関わっていたと聞きました。
ちなみに亡くなる直前に召集令状が届いていたそうで、8月には福島県の部隊に入営する予定だったと言います。

昭和20年6月に空襲があったとき、コウジさんは防空壕に逃げ込んで助かったそうです。
72年前の今日は、日立艦砲射撃がありました。
コウジさんは防空壕に逃げ込んだら、そこに艦砲射撃が直撃したそうです。

コウジさんの墓標には「7月18日」と記載されていますが、本当は17日だったのです。

じつはこの7月17日、私の祖父(コウジさんの兄)の誕生日です。
当時祖父は徴兵でソ連と満州国の国境警備についていました。
満州にいた祖父たち兵士の間で「お狐さん」という占いが流行ったことがあったそうです。
今で言う「コックリさん」と同じようなもので、お狐さんは伏見稲荷の神使である狐を呼び込むため、油揚げを用意するとか。

そのお狐さんの結果、祖父は「家族が1人減った」と言われました。
祖父は「高齢の祖母が死んだのだろう」と思い当たったそうです。
自分を可愛がってくれた祖母が死んだかと思い落ち込んだそうですが、今のように電話なんてないし、戦況厳しく手紙が届くかもよく分からない状態なので仕方がないと思っていたそうです。

祖父は昭和20年8月、広島に新型爆弾が落ちたことをラジオで知ったそうです。
広島が一発の新型爆弾で消滅したとの報道で、最前線の兵士達は騒然としていたところへソ連侵攻の情報が飛び込みます。
祖父たちは武器を持って逃げて逃げて…。
とにかく合い言葉は「朝鮮を目指せ」。
なにせ祖父たちの世代は生まれる前から、朝鮮は日本だった訳ですから、まさか終戦で朝鮮が日本では無くなるとは考えなかったそうです。
その大混乱の逃避行で祖父は、生死を分ける戦闘も経験したそうですが結局ソ連軍に捕まり、シベリア抑留を経験することになりました。

祖父は復員するまで、一度たりとも弟が死んだとは考えてもいなかったそうです。
長男の自分がもしも死んだら、弟のコウジさんが農家を継いでくれるだろうと考えていたからです。
だから祖父は生前「コウジはオレの身代わりで死んだんだ」と言っていたそうです。

コウジさんは甘い和菓子が好きで、ぼた餅が好物だったそうです。
だからコウジさんの命日には、いつもぼた餅がお供えされていました。
祖父の兄弟たちは今も「コウジさんが兄弟の中で1番優秀だった」と言います。
若くして亡くなった兄弟なのでとくにそう言った印象なのかもしれません。

なによりも、コウジさんの遺骨はいまだよく分からないのです。
コウジさんの亡くなった後、曾祖父が日立市に向かいましたが、7月19日にも空襲があって、たくさんの死者が出ました。
だから、軍需工場で働いていた方の死体は野積みにして一度に焼いたそうです。
曾祖父が必死に探し当てたのは、地元の人が「あそこで死んだ人はここで焼いた」という証言から、その場の灰や細かな骨を持ち帰っただけなのです。
それを骨壺に詰めてお墓に納めています。

ただそれだけのこと。
私は、コウジさんに会ったこともないし、何一つ経験したことではありません。
ただ数年前、日立市の成沢霊園にある日立製作所の戦災慰霊碑を訪れる機会に恵まれ、コウジさんに思いを馳せる日として7月17日を迎えることにしているのです。
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サクラKさんからのメール

2017-06-27 15:40:48 | 忘れ得ぬ人々
サクラKさんからメールが来た。
彼女も私と同じく扶養内パートなのだが、彼女の職場はなにかともめ事が多いのか、その愚痴メールになっていることが多い。
パワフルな性格ではあるけれど、その分周りからメンタルが強いと思われているであろうサクラKさん。
じつはそのスッコーンと突き抜けた性格と同時にとても繊細な性格でもある。

○○さんからこんなことを言われたとか、私からしたら、それは自分で解決しなければならないことを誰かに伝えずにはいられないのだろう。
彼女のコミュニケーション力はスゴいな、といつも感心してしまうのだが、トラブルを避けて生きられないところもスゴいなと。
私の場合、すぐに相手に謝って、許して貰ってから先に進もうとする。
結局、仕事上の繋がりがある人たちなんて、誰が強いのかというマウンティングをし続けていて、そのカーストの中で自分の立ち位置を決めようとしている。
私はその点では「そのカーストに巻き込まれたくない」としか思っていないので、カーストを重んじる人たちから見れば、いつまでも最下層である。
私から見れば、カーストのピラミッドの蚊帳の外にいるつもりなので、いつも飄々としていられる。
その飄々さを毛嫌いする人たちもいるのだけれど。

サクラKさんも落ち着いてみれば、そんなイチイチ突っかかる人たちにガップリ四つで取っ組み合う必要がないと気が付くだろう。
人生も折り返し地点を過ぎているのに、なぜそんなに人間関係で悩む必要があるのか?と感じる私。
残された時間は来し方よりも短い。
そう思ったら、人間関係なんて断捨離対象にしてしまえばいいのに。
それは私だからそう思うのか?彼女にはそう思えないだけなのか?

それでも私はサクラKさんとは友達だ。
私にはない情熱とコミュニケーション力と考え方が魅力的な彼女。
彼女には「あなたが繊細な一面があることを相手が気づいていないだけ。言いやすいから強く当たるだけよ」と伝える。
彼女の仕事は、辛くて苦しい場面が多いのだ。
それでも彼女はその仕事が好きだし、続けたいと思っている。
だから私には、応援につながるメッセージしか伝えられない。
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Yさんの思い出

2017-06-23 15:38:53 | 忘れ得ぬ人々
小林麻央さんの訃報を知り、涙がこぼれてしまった。
知り合いでもないのに。

私の友人Yさんのことを思い出したからだ。
学生時代の友人で、仲間内では1番最初に結婚した。
そして1番最初に出産も経験し、鬼籍になった方でもある。
彼女も乳がんだった。
32歳で病気が見つかって、6年闘病して、38歳で亡くなった。
彼女にとって、私は結婚しても仕事を続けていたことで少しひけめがあったように感じた。
だから、私は「私は子供を産むつもりがないのだから、そもそも二人も子育てしているあなたがスゴい」と言ったこともあったっけ。
最後に会ったとき、まさかそれが最後になるだなんて想像も出来なかった。

ただヘアスタイルがなんか、らしくないなって。
後からそれはウィッグだったのかな?と思い返したのだが、彼女は深刻な状況になっても、学生時代の友人達に連絡をしてこなかった。

亡くなってからご主人が友人の一人であるサクラKさんに連絡をしてきた。
「妻が、自分が死んだらあなたに連絡すれば、親しい同級生たちに連絡してくれるはずと言っていた」と話していたそうだ。
サクラKさん、激怒でご主人に「なんでまだ息があるときに連絡をくださらなかったの!お別れも言えなかった同級生たちの気持ちも考えてくださいよ!」と言ったそう。

私も呑気なモノで、Yさんが亡くなるだなんて思っていなかったから連絡を貰って絶句した。
だって次が無いだなんて想像出来なかったんだ。
最後に会ったとき、「このままだと、子どもたちは『病気のママ』しか記憶に残らなくなっちゃう。だから元気に一緒に遊んだりしたいんだ」と言っていたから。
年賀状でも「息子が中学生になります、だんだん難しい年頃になってきた」って。
一人っ子で、その生育過程でたくさん悩むことがあった彼女が子育てに奮闘しているんだな、って。

このYさんとの思い出は自分で昇華するしかない。
共通の友人サクラKさんは、じつはYさんとはあまり仲良くなかった。
だからサクラKさんとYさんについて語ることは無いし、他の同級生たちともほぼ話題にならない。

小林麻央さんも無念だったろう。
麻央さんの訃報を聞いて、Yさんのことを思い出し、私は気持ちが沈んでいる。
なぜ若くして病で亡くなってしまったのか。
残念でならない。
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ビワの思い出

2017-06-17 20:11:08 | 忘れ得ぬ人々
空梅雨気味だからスッカリ忘れていたが、ビワにまつわる思い出をふと思い出した。
私はビワが好きな子どもだった。
うちの実家にもビワの木があったのだが、あまり美味しくなかった。
親戚の家にもビワの木があって、H家(私の大叔母の嫁ぎ先)とM家(私の叔母嫁ぎ先)が二大人気ビワだった。
私がH家のビワを霧中で食べていたとき「種を蒔いたら、もっとたくさん食べられるよ」と言われて、16個の種を蒔いたんだ。
後からそれは大人のからかい半分の話だったと気が付いたが、子どもだった私は本気にしてしまった。
そしてせっせと水やりをしていたら、全部芽が出て成長していった。
小学生になる頃には、家族から「16本全部は育てられないから、この中から生長のいい2本だけ移植して、他は切るよ」と言われる。
ここは、副業で植木関連の仕事をしていただけあって、親も私も合理的だ。

亡くなった祖父は「H家のビワよりも、M家のビワの方が甘いから、この木を土台に接ぎ木しよう」と言う。
そして「makotoが嫁に行くときに、このビワの木を持って行けるようにしてやる」と付け足した。
そして私が高校生になる頃には、祖父が「嫁に持っていくビワ」として丁寧に手入れをしてくれていたんだ。

ところが私が大学1年生のとき、父が鳥除けの編みをビワの木に掛けたら、拍子で脚立から落ちてしまった。
ケガはしていなかったが、頭を打ってしまったらしく、軽い記憶障害が出てしまった。
その様子は今も覚えているが、父の様子があまりにもおかしくて、母が脳神経外科に連れていっている間中、不安が増大。
私はあまりの不安で、一浪の末に進学した跡取り息子である兄に「私の学校の方が学費が高いから、いざとなったら中退するから。私なんて女なんだから、テキトーに働いて結婚すればいいんだし。にーちゃんは絶対中退しちゃダメだよ。せっかく大学に入ったんだから」こんなことを言い出す始末。
さすがこういう時は跡取り息子、動じない姿を見た私は、オトコだな、って思ったモノだ。

さて大学生にもなると分かってきたことがある。
私、庭付き一戸建ての家に住むような人生は送らないだろうな、と。
ちょうど遠縁のS家の一人息子(当時30歳くらい)が、私のビワの木を気に入って譲ってほしいと言い出したらしい。

家族から何度も念を押されたが、私はアッサリと「S家にビワの木を譲る」と言った。
父が記憶障害になるような事態を招いたビワの木を、将来戸建て住宅に住めるとも限らないのに持っていても仕方がない。
そして祖父が存命中にビワの木は実家から去って行った。
その時の祖父の気持ちを思うと、少し心苦しかったが、今では淡々と過ぎていった日々の思い出だ。
結果として私は戸建て住宅に住んでいない。

でも、それはビワの話題がのぼる季節になれば、毎年のように思い出すんだ。
今はビワを食べることは滅多にない。
子どもの頃にあれほどむさぼり食べたせいか、ビワを食べたいと思うこともない。
一生分を食べちゃったのだろうな。
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