部族地帯 〜アッサラーム・アレイクム〜

牧良太 日常雑感、取材報告・・・etc.

放送命令

2006-10-16 01:35:50 | その他ニュース
 14日の朝日新聞によると「総務省は13日、NHKの短波国際放送で、拉致問題を重点的に扱うよう、NHKに対する命令書に明記する方針を固めた。」とある。これはとても重大なことなのではないかと思うのだが、どうも扱いは小さい。これはどういうことなのかと同日同新聞の説明を抄訳すれば「放送番組は編集の自由を認められているが、例外を設けることはできる。命令放送はその例外の一つで、国費負担によりNHKに放送事項を定めて国際放送を命じることができる、ということであるそうだ。NHK短波ラジオ国際放送は国から交付金を受けているために、その「範囲内」で国は命令できるのだそうだ。
 今は短波放送のみ、しかも昨今核実験を実施したらしい北朝鮮に対する拉致問題解決のためという「大義名分」も立つ。まったく、安部晋三と金正日とは、ジョージ・ブッシュとビン・ラーディンとの関係同様に、似たもの同士、持ちつ持たれつの取り決めでもあるかのようだ。「敵」なくして自らの存在基盤は成り立たない。そしてその手法は益々「敵」と近似してゆく。
 そのうちに「短波放送のみ」から、「みなさまのNHK」が政府のNHKへ、「拉致問題」からその他の事項へと拡大する危険性は見ておいたほうがいい。NHKは政府に予算を握られているけれども民放がある、といえるような「自由」な民放報道も我々は持っていないのだから。
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効果的な制裁とは

2006-10-12 23:54:25 | その他ニュース
 北朝鮮核実験(なのか?)に関して、当然のように新たな制裁が論じられている。以下、ふと思いついたこんな制裁はいかがだろう。

 韓国、中国、日本で協力し、一ヶ月間北朝鮮に無条件で門戸開放する。具体的には渡航にあたりビザは免除。希望者には無審査で永住権も与える。移住希望者には6ヶ月間の住宅資金と職業訓練を無償で施す。等々。

 もちろん冗談でしかないのだが、案外「封鎖」を強化するよりよほど体制をビビらせ、あわよくば崩壊に導くためのいい手段のような気がしてきた。

 湾岸戦争後のイラクでも言われていたように「経済制裁」が一体誰を害する制裁であるのかはもっと考慮されていい。「国家」の連合を前提としている現代世界は否応なく個人を国家に帰属させる。その「国家(体制)」に犠牲を強いられている「個人」も国際政治の文脈ではその「国民」と見做される。北朝鮮を敵視し、危機を煽りたがる日本の現政権の唱える「美しい国」なるものはその実、北朝鮮型の国家主義、国家賛美体制なのではないかと奇妙な類似も感じてしまう。
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小泉政治

2006-06-17 21:26:30 | その他ニュース
<イラク陸自>7月中にも撤退完了か ということらしい。
ともかく現在まで自衛隊員の誰一人殺されず、さらにもっと重要なのは、誰も殺さなかった、という事実は大きい。そもそも派遣する必要性とその意義、憲法解釈と様々な問題を孕み、かつ「戦闘地域」「非戦闘地域」を巡っても議論ともいえない討議ではあったが問題にはなった。思い返せば、1992年の陸自カンボジア派遣の際には事態はもっと慎重に議論されていたように思う。それこそがまさに「前例」の強みなのだろうが、それ以降、災害時の自衛隊海外派遣はもはや当たり前となり、そしてイラクへの派遣とつながっている。今回このまま、誰にも殺されず誰も殺さず、任期を全うしたら、これも一つの前例となるのだろう。結果オーライ、サマーワは少なくとも自衛隊にとって「非戦闘地域」であったことが実証されるわけだ。
 そういえばすっかり報道が無いが、海自はまだインド洋で「海のガソリンスタンド」を行なっているのだろうか? 91年の「湾岸戦争」の時には機雷除去という任務があった。とにかく海自を米軍に協力させたかったと言う以外に、この原油高にあって非産油国の日本がなぜガソリンの無料配給を行なわなければならないのか、継続しているのか理由が思いつかない。

国会総括 重要法案、軒並み先送り 臨時国会は波乱含み
 憲法改正、教育基本法、共謀罪、そういえば一時盛んに取り上げられていた皇室典範改正も、全ては先送り。まぁ数を頼みにごり押し強行採決されるよりましだとは思うが、こうなると小泉という首相とは一体何がやりたかったのか、とその神経を疑う。「まる投げ」というより「投げやり」。それでも先鞭をつけた、という事実は残り、結果として「改革者」というイメージは維持したまま退陣できる。それこそが目的だったのかという気もする。だとしたら、サッカー・ワールドカップではないが「短期決戦の戦い方をよく知っている」と思えないでもない。対中国・韓国外交も、アメリカとの本当の外交も、全ては後任者に委ねられる。既に一部で言われていることだが、米軍再編問題や牛肉輸入問題をはじめ、環境、エネルギー問題や現在の日銀総裁ファンド疑惑の報道(アメリカメディアの)を見ても、小泉首相がブッシュ大統領に擦り寄って「個人間の緊密な関係」をアピールしてみたところで、現実政治としての二国間の関係はそれほど緊密とは思われない。
 ともかく個人的にはブッシュへの従属姿勢を貫いた小泉首相はこの後アメリカへ行き、プレスリーの墓所を訪問するのだという。小泉政治の5年間が積み上げたツケは見かけ以上に大きいのではないかと思う。もちろんメディアのあり方も含めて、だ。
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ピープル・パワー

2006-02-26 20:26:12 | その他ニュース
 フィリピン非常事態宣言のニュースを見ていて、昨年夏に出会ったあるフィリピン人が語っていたことを思い出した。

 場所はアフガニスタン、カーブルのゲストハウス。男は国連職員のフィリピン人男性。前にも書いたように、私がよく利用するそのゲストハウスは国連のスタッフハウスに入りきれなかった外国人国連職員もよく利用している。そんな夕食時の雑談での話だ。

 「ピーピル・パワーなんて言うけれども、あんなインチキで非民主的なことはない。フィリピン人は8000万人もいるのに、マニラにいるたった5000人がマラカニアン宮殿に集まってデモをやれば政権がひっくり返るんだ。選挙をやる必要もないし、一体彼らは誰を代表しているというんだ? こりゃ民衆革命なんかじゃなくてただのクーデターだよ。
 でもアロヨはそうやって大統領になったからね。状況がよくわかっている。同じようにして倒されるのが恐いものだから、反アロヨ・デモがあると親アロヨ・デモを動員して封じるんだ。」

 とまぁ大体こんな内容で、「ピープル・パワーなんてこんなもんさ」と彼は笑っていたけれども、なるほど、そんなものなのかもしれない。デモ、クーデター(未遂)、政権交代(崩壊)、よくあるこの政変サイクルのどこに「民衆」がいるのか、そもそも「民衆」と一括りにして語ってしまうことの危うさをも併せて考え直さねばなるまい。
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ブッシュ発言

2006-01-24 23:38:37 | その他ニュース
 1月24日朝日新聞夕刊2面、「日本の牛肉禁輸 『早期再開へ努力』米大統領が強調」との記事によると、ブッシュ米大統領、「たまたま短期の問題が生じても、市場開放の恩恵を牧場主が受けられるようにすることが必要だ」と述べたらしい。原文をチェックしていないのでこの通りの発言だったのかどうかは確認していないが、カンザスにて、またその後のテレビ映像によると、畜産業者を前にした演説だったらしいことを考慮しても、「市場開放」の恩恵を「牧場主」が受けられるように、という発言は、アメリカが推し進める「市場開放」が、その正当性の根拠としてあるのは建前として言われるような「公平」や「民主主義」とは関係なく、アメリカ産業の利益であることを赤裸々に示しているという点で興味深い。こういう発言をするようでは、中南米をはじめ途上国諸国がいわゆる「反グローバリゼーション」の流れのなかでWTOやIMFの介入を「アメリカの経済支配」として退ける理論に反証できないだろう。

 上記記事の横には同じくブッシュ関連で「令状なしの通信傍受 『テロとの戦い』米大統領正当化」として例の議会承認なしの通信傍受に関して「国内のだれかと国外のだれかとの間の連絡であり、どちらかは(国際テロ組織)アルカイダのメンバーが関係者だ」と述べたと言う。

 日米共に、理屈も理論も論理も理解できない人間がトップに立っている現実を思うと、頭が痛くなってくる。
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ヤマハ・ヘリの軍事転用

2006-01-24 00:16:05 | その他ニュース
ヤマハ発動機を捜索 無人ヘリ、中国に不正輸出 (産経)
不正輸出事件でヤマハ発動機を捜索、中国向けヘリ押収 (読売)

 イラン・イラク戦争時、革命後の経済封鎖によって軍事物資の補給に支障をきたしていたイラン軍の沼沢地の戦場において、日本製の農業機械やモーターボートは大いに活躍したそうだ。

 アフガニスタン内戦において、ターリバーンの快進撃を支えた大きな要因のひとつは、日本製の四輪駆動車の機動力だと言われている。

 等々思い起こしてみると、「軍事転用の危険性」とはどう定義したものか、という疑問も浮かんでくる。かつての対共産圏輸出禁止措置と同様、「仮想敵国」だから、ということになるのだろうが、一方で米軍と共同開発を進めている、或いは米軍兵器に部品として使われている日本製品の「使用」レベルにおける責任はどうなっているのだろうか、と不安になる。
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ライブドア批判にみる経済の風評性

2006-01-19 17:51:46 | その他ニュース
 違法行為があったのならばそれは法に照らして罰せられなければならない。それはそれとして、「証券市場の信頼を損ねた」「景気回復に水を差す行為」といった批判には何か違和感を感じる。この問題に対する批判としては全くその通りだと思うから、違うのは、この件をどういう枠組みで捉えて、そこから何を見出すか、という点においてなのだと思う。

 昨年頃から政府からは「景気は回復基調にある」だの「好景気」だのといった判断も聞かれた。そこで「景気」の指標として大きな役割を果たしていたのが株価ではなかっただろうか。そして株式市場の活性化(新規参入者の増加にも支えられている)と一部で「ミニ・バブル」と危惧されるまでの株価上昇を牽引した、少なくともその一角を担ったのはライブドアであったと思われる。単純化して言えば、持ち上げたのも彼、梯子を外したのも彼、ということであったのだとしたら、現在の心理的不安感を脱した後には、株価は本来あるべき姿に収まるだろう。とはいえ、最近市場において大きな層を成しつつある個人投資家が急激に株式市場から手を引くとも思われないから、その意味では株式の投機化、流動化はこれからも加速するかもしれない。
 二日間でライブドア損失は3千億円だという。この「数字」はいったいなんなのか、と思う。少なくともこの数字が表象しているものが札束とは思われない。それが「ある」時には「ある」ものとしてコンピューター画面上の市場を循環し、「ない」となれば「ない」、この幻のような数字。この数字が経済や景気のバロメーターとして利用されているのだ。

 景気とはそもそも個別的なものではないだろうか。もちろん、経済は相互に関連しているから無関係ではないが、不景気と言われる時代でも儲ける人は儲けている。好景気と言われる時代でもその恩恵にあずかれない人はいる。とすると、様々な経済指標によって「好景気だからみんなハッピー」などと考えるのは、それ自体「風評」だと思えなくもない。

 政府は景気は回復したという。一方では所得水準の「二極化」が言われている。諸所のデータによると、確かに昨今、全体としては企業の求人や高校・大学生の就職率も上がって来ているらしい(そこでの地域差も指摘されてはいるが)。一国における経済、景気の良し悪しとは一体なんなのだろう。今後のことは分からないが、日本は総じて貯蓄率が高いと言われてきた。不況といわれる時期においてもそれは当てはまるらしい。だいたい「ニート」が平穏に存在可能なのは、親世代にそれを支えられる余裕があるからだろう。今言われている「好況」が事実だとしたら、それは、これまで貯蓄されてきた資金が株式市場なり消費なりに流れ始めたことによるのかもしれない。そうして循環し始めた資金がつまりは実体経済を形成してゆくのだとしたら、そのようなムードを盛り上げたライブドアの為したる役割は大きい。「砂上の楼閣」とはいえそれがある限りはあるものとして社会は動く。幻想も皆で見ればそれは既に現実となる。

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宮崎勤事件

2006-01-17 22:25:04 | その他ニュース
 この手の「異常」犯罪が起こると常に「精神鑑定」が問題になる。「精神状態」とその「異常性」(或いは「正常性」)、一方で求められる「責任能力」。両者の間には溝があるし、さらにそれを「裁く」という行為との乖離を感じてしまう。

 「精神異常」にも色々あるだろう。文字通りの「狂人」と思想や世界観の「異常」とは異なるはずだし、してみるとそこで「責任能力」の有無を問える基準となるのは、自己を自己として認識できること、といったあたりになるのだろうか。「自己」を認識するには「他者」が必要となる。「他者」との関係に社会は存する。その「社会」をどのように捉え、組み立て、理論付けているか、ということの正常性・異常性を問うことは不可能なように思われる。通常、個々人の「私的な世界」はそれが社会の「規範」に合致している限り、というより「規範」を逸脱した行為とならない限り保証されるべきだとされている。その、社会の規範、基準が端的には法であり、個人をその社会へ規格化するための装置として機能し動員されるのが、教育をはじめとした諸所の社会システムだ。それにも関わらず「われわれの」社会から逸脱した世界観に生きる人間が育ってしまったのだとしたら、「社会」はどう対処すればよいのだろうか。

 「責任能力」を問うという、その「責任」とは何なのか。「われわれ」が「彼」に感じて欲しいと望む責任と「彼」の世界の責任とは同じものではあるまい。革命家や政治犯が現行秩序を拒否し、抗って独自の世界秩序に生きるのとは異なり、「われわれ」の世界にありながら、独自の世界を生きる「彼」。「彼」とはそういった意味で「われわれ」の内に生じた異質者・エイリアンなのではないだろうか。それゆえに彼は「異常者」ではあっても精神的には「正常」であり、「われわれ」は彼に「責任」を問える、ということになっている。

 問題は、文化・世界の異なる「彼」に「われわれ」の責任を問うたところで「彼」は「われわれ」の望むようには反応してくれないのだ。「彼」は、反省の弁も、後悔の念も語ってはくれない。それを望むこと自体が見当違いなのだという気がしてくる。おそらく、「彼」の為した行為の意味は「われわれ」と「彼」とでは異なるのだ。

 そして死刑判決。ここには通常の死刑廃止賛成・反対論議とは別の意味合いで居心地の悪いものを感じてしまう。この死刑(死刑ではないようなケースなら刑罰)は「彼」にとってどのような意味があるのだろうか。「われわれ」の側にとって、反省・後悔のない者の処罰の意義とはなんだろうか。「社会」からの排除、そのことによる秩序維持、そして幾分かは復讐心を慰撫することができるだろう。では逆に、反省・後悔したものを処罰(とりわけ「殺す」場合)するというのはどのような意味を持つのだろうか。そう考えたときに「裁く」ことの抱える根本的な収まりの悪さのようなものを感じてしまうのだ。

 もちろん上記は単なる感想であって、私は宮崎被告の意志も意図も目的も精神状態も何も知らない。彼はなぜ「彼」になったのか。「裁く」とことは別に、究明されるべきはそのことだと思う。
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ライブドア騒動

2006-01-17 20:03:05 | その他ニュース
 まず、その報道陣の多さに驚いた。伝えるキャスター、レポーターにはどこか言外に「ほれ、みたことか」「ざまぁみろ」とでも言いたげな気持ちが感じ取れる気もするが、それは私の考えすぎ、というより私自身がそういう気持ちでいるということなのかもしれない。
 当然のようにライブドア関連株は軒並み値下がりし、株価全体にも多少は影響しているらしい。これもまた「風評」と言えなくもない。株式市場と企業とはもはや出資者と事業主体との関係というよりは別々の事業体、市場に分化している。株式購入は事業への賛同としての出資ではなく投資へ、投機へとその意味合いが転じている。株式投機がブームとなって「素人」が参入すればするほど株式市場はますます「風説」によって左右されるだろう。そして、生産や労働が直接関わらないところでその「価値」が決定され、売買される。
 そういう社会なのだ、そういう時代なのだ、と言われてしまえばそれまでで、現実は現実であって抗いようもない。ただ、私自身はそんな社会にいびつさを感じてしまう。技術者よりも、生産者よりも、投機家が豊かになるというのは、「豊かさ」の価値基準が貨幣だけでないのは承知した上で、どこかおかしい。当たり前のことだが、世界の巨大な分業システムのどこかでは、必ず生産(農業にせよ工業にせよ)が行なわれていなければならない。しかしながら、本来は社会の、世界の「生」の根幹を成しているはずの「生産」の位置づけは総じて低く留め置かれている。
 今や当事者のあずかり知らぬところでその国の通貨価値が定められ、その企業が転売される。非生産社会が豊かさを享受できることの意味とその根源にはもう少し目が向けられてもよいのではないだろうか。
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「反米」の南アメリカ

2005-12-21 00:02:14 | その他ニュース
 ボリビアでモラリス氏が「先住民の初の大統領」になった。

「市場優先の新自由主義を批判する反米的なリーダー」
「強硬な反米主義者」
「ブラジルのルラ大統領、ベネズエラのチャベス大統領に続く中南米地域の反米大統領になる」
yahoo!ニュースの毎日新聞、産経新聞記事から抜粋すると、そういうことになるそうだ。

 ボリビアといえば、チェ・ゲバラ最期の地。地図を眺めていると、コチャバンバ、ラパスといった、各種のゲバラ伝や彼の著書に出てきた地名がでてきて懐かしい。

 ゲバラは「冷戦」というイデオロギー対立の時代に、搾取からの解放(自由)と社会正義(平等)の為に戦ったのだ、と私は看做しているのだが、冷戦終結後の自由主義経済拡大、グローバリゼーションが叫ばれる現代の世界の状況は、表記のニュース関連記事を読む限り、彼の時代と大して変わっていないのかもしれない。「自由競争」を掲げる市場主義は新たなイデオロギーとなって軍事的な後ろ盾を露わに恫喝的に世界を席巻しつつある。その市場主義経済用語として使用される「自由」が、途上国住民の生活や権利としての「自由」を奪う。言い換えれば、「自由」主義経済体制の奴隷状態から個人としての「自由」を獲得しようという意志が、人々を昨今の反グローバリゼーション、反WTO、反IMF運動へと駆り立てているように見える。そこに掲げられるスローガンは当然、「公正」や「平等」に近いものとなる。「自由」と「平等」はある時点から乖離し始める。

 その足跡が明示しているように、ゲバラはアルゼンチンという「ナショナル」な枠を超え、「ラテン・アメリカ」を一つの単位として捉えていたと考えていいだろう。最近になって、「ヤンキー」に対抗する「ラテン・アメリカ」という図式が復活しているかのように見えるのはなんとも面白い。そして、「小さな政府」を標榜しているはずの市場主義経済率先派が実際には強大な「国家」としての権力を増長させ、一方で反自由主義経済派の政府は少なくとも「国際的」な意味での国家権力は縮小させているように思われる。従来想定されていた対立や親和の構図、関係性が、さまざまなねじれを表出してきている。
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