音の向こうの景色

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ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番 第2楽章

2011-02-18 00:16:37 | 協奏曲
 数日前、私は長い手紙を受け取った。なめらかに整った文字と、人となりが表れた丁寧な語り口の手紙。まるでひとつの文学のようだ。それは私宛のものではなく、20年前の差出人自身、33歳の彼自身に宛てて綴られた告白であり、問いかけだった。私はベートーヴェンのピアノ協奏曲5番の2楽章をBGMにかけて、始めから何度も読み直した。
 「皇帝」の愛称を持つ有名なピアノ協奏曲。私は大学1年生のとき「不滅の恋・ベートーヴェン」という映画を見て、あっさりこの曲の魅力にはまってしまった。映画音楽に負けないほど映画的で驚いたものだ。映画の最後に、2楽章のアダージョを背景にして、ベートーヴェンの手紙が再度読まれる。ままならぬ人生を、なんとか精一杯、大切な人間と共に生きて行こうとする想いにあふれた恋文だった。
 その頃から13年間、私は長い夢を見ていた。この曲と共に。ある「理想の場面」を私が心秘かに描くとき、いつもこの曲が耳の奥に流れていた。長い間、この「理想の場面」こそが私を支え、すべての原動力となり、行動の指針となっていた。そして、自分でも気づかぬうちに、私は自分の作り上げた夢想の世界の外へと出られずにいた。ひとつの価値観の体系を築き上げ、それが表面的に問題なく、心地よく機能しているとき、それを壊すのは容易ではなかった。
 ベートーヴェンを主人公のモデルにしたという「ジャン・クリストフ」の中で、ロマン・ロランは、かなりきついことを言う。「多くの人は、二十歳から三十歳で死ぬものである。その年齢を過ぎると、もはや自分自身の反映にすぎなくなる。彼らの残りの生涯は、自己真似をすることのうちに過ぎてゆき、昔生存していたころに言い為し考えあるいは愛したところのことを、日ごとにますます機械的な渋滞的なやり方でくり返してゆくことのうちに、流れ去ってゆくのである。」
 私が自分自身の価値観を壊し、再考するきっかけは、30歳を過ぎて大切な人間と離れたときにおとずれた。その人はそこに変わらず生きているのに、もう自分と共に生きることはない。相手と共有していると妄信していたものは、とうに消え去っていた。言いようのない喪失感の中で、鋭い怒りと共に自分自身を振り返った。そのとき私は初めて、我が身を支えてきたものを見つめ直し、その大部分が幻想に過ぎないことに唖然とした。日々が過去の「自己真似」に過ぎないという現実に愕然とした。ロランの言葉を借りれば、もはや私は「生存」していなかった。
 しかし、それはもう一度、自分を築き直す最大の転機だった。固執しているものを手放し、「卒業」するタイミングだった。私はあえてここで「卒業」という言葉を使いたい。過去の自分を否定するのではなく、信じてきたもの、培ってきたもの、大事にしてきたものに感謝して、「卒業」する。離れたのが大切な人であればこそ、感謝したい。ある必要な期間が終わったのだ。この際「こうあるべきだ」という思い込みを、手放せるだけ手放して、それでもまだ残る信念があるとすれば、それでいい。そう思った。
 ―大切な人間と離れたとき、人はいかにしてそれを乗り越えるのか―。届いた便箋の束の問いかけを何度も読み返しながら、本当に久しぶりに、「皇帝」の2楽章を聴いた。手紙の差出人が30数年にわたって育んできた想いには比ぶべくもないが、2年半の歳月をかけて、私は自分の13年を昇華させた気がした。長い間、幻と共にあったこの曲の美しさが、今ではずっと手触りのあるものに感じられる。
 聴いていると、「ジャン・クリストフ」のシーンがいくつか思い出される。クリストフの叔父ゴットフリートが言う。「そんなことはこんどきりじゃないよ。人は望むとおりのことができるものではない。望む、また生きる、それは別々だ。くよくよするもんじゃない。肝腎なことは、ねえ、望んだり生きたりすることに飽きないことだ。」3楽章のロンドが明ける。
 人生の転機は、何かを「卒業」する時だと思う。そんなとき私はベートーヴェンを聴く。彼の音楽は、今がどんな状況であっても、それに対してどんな答えを出したとしても、「それでも生きていく」というテーゼを、当たり前のように明快に差し出してくれるからだ。クリストフは言う。「奮起したまえ。生きなくてはいけない。もしくは、死ななければならないとすれば、立ちながら死ぬべきである。」

かしこ

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