仏教と 他の宗教の違い

仏教と他の宗教の違い とういう点でのブログです

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お盆とはどういうことか、何をすべきときか

2010-06-18 21:50:16 | 日記
 五七 お盆とはどういうことか、何をすべきときか

問 やがて、お盆が来ますが、お盆とはどんないわれがあるのでしょうか。

答 俗に、お盆といゝますが、正しくは盂蘭盆といゝます。『仏説盂蘭盆経』から起こ    ったものです。
 この経には、お釈迦さまの十大弟子の一人に目連尊者という人がありました。この人は神通力第一と称され、特に孝心の深い人でありました。その目連尊者が神通自在を得て三世を観ました時に、いたましいことには、尊者の亡き母が餓鬼道に堕ちて苦しんでいることが判りました。目連は深く悲しんで直に鉢に飯を盛って母に捧げましたが、母が喜んでそれを食べようとすると、忽ちその飯は火焔と燃え上り、どうしても食べることが出来ないのです。鉢を投げて泣きくずれる母を尊者は悲しみ、「どうしたら母を救うことが出来ましょうか」と釈尊にお尋ね致しました。その時、釈尊は「それは、そなた一人の力ではどうにもならぬ。この七月十五日に、飯、百味、五果等の珍味を十方の大徳衆僧に供養しなさい。供養の功徳は大きいから、亡き母は餓鬼道の苦難からまぬがれるであろう」と仰せられました。
 目蓮が、釈尊の仰せに順ったところ、母は、たちどころに餓鬼道から天上界に浮ぶことが出来た。この喜びの余り踊ったのが盆踊りの始まりだと言う人もあります。
 盂蘭盆は、この目連尊者の故事から祖先供養の日となって今日に相続しているのですが、一体これは私達に何を教えているのか、味わってみましょう。
 ウラボンという梵語は倒懸ということです。即ち「倒さに懸れる者」ということです。ですから『盂蘭盆経』とは「倒さに懸れる者を救う方法を教えた経」ということです。果して、倒さまに懸って苦しんでいるのは目連の亡き母だけでしょうか。死後にだけ餓鬼道があるのではありません。
 腹だけが馬鹿に大きく皮骨連立の奇形動物だけを餓鬼だと思っていたら大間違いなのです。
 迷いを迷いと思われず、真実を真実と信じられず、迷いを真実と誤解して苦しみ悩     んでいる者は、仏眼からごらんになると、皆倒さに懸って苦しんでいる餓鬼なのです。     親鸞聖人は
「世の中のこと、みなもって、そらごと、たわごと、まことあることなし、たゞ念仏のみぞ、まことにておわします」
 と仰言っています。キリのある身命を持ちながら、キリのない欲を充たしてから仏法を聞こうと考えている大馬鹿者の、如何に多いことでしょう。みな倒さに懸っているものばかりです。
 だから、地位あり、財産あり、妻子ある者は、それらによって増々苦しみ、それらの無いものは、これらを求めて増々悩んでいるのです。
 有るも苦なら、無いのも苦であります。無ければほしい、あってもほしい、ほしいほしいと飢え続け、渇き続け、ウラミ続け、呪い続け、満足ということを知らず苦しんでいる餓鬼ばかりではありませんか。一体、どこに真実の幸せを喜んでいる人がありましょうか。
 一切の人々が真実の弥陀の本願を知らず、総ての考えが顛倒していますから四方八方たゞ愁嘆の声のみが満ち満ちているではありませんか。これがまさしく餓鬼道の相です。物を求め、物を惜しみ、闘争諍乱の世界。この深刻な現実の自己を凝視する時餓鬼こそ自己の実相であることに驚くのです。亡き祖先の後生ばかりを案じて、我身が餓鬼であることを忘れています。
 お盆は、亡き祖先を救う日ではなく、今、現に倒さに懸って飢え、渇き、苦しみ続けて、未来永劫、流転せんとしている、我身自身を救う聞法精進の日であることを忘れてはなりません。
                                                                                         
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神の力で病気が治ったという人があるが本当か

2010-06-18 21:36:07 | 日記
  九 神の力で病気が治ったという人があるが本当か 問 私の知人が或る新興宗教によって医者で治らなかった病気がよくなった、神さまの 力によっていろいろの御利益があったといって「論より証拠」だからと、しきりに入 信を勧めますが、本当に神さまの力で、そんな奇蹟的なことがあるものでしょうか。 お尋ね致します。 答 日本は世界一の教育国家といわれながら恥しい程、現世利益や祈祷がはんらんして います。 『平均的にっぽん人』(村島健一著)によれば、 日本には占師が五万人、一人の扱う客数が月に五百人平均になるとあります。  とすると、これらの世話になっている者は月に二千五百万人、年に延べ三億人。 我国の人口の三倍もの人がご厄介になっていることになります。  そういえば、方位や日の善悪、運勢などを記載した暦がかくれたベストセラーの地 位を保ち、 「友引だから葬式は出せない」 とか 「結婚式はやはり大安吉日に」 というものが、あの人がと思われる知識人にも多くみうけられます。  現代の象徴の高層ビルの屋上に赤い鳥居を作り、御利益を祈っているのですから呆 れてしまいます。  ここらに新興宗教のバッコする素地があるのでしょうが、何かに頼らなければ生き てゆけない人間の弱さを、まざまざと見せつけられる思いが致します。  親鸞聖人が、 「かなしきかなや道俗の、良時吉日えらばしめ、天神地祇をあがめつつ、卜占祭祀つ とめとす」 と悲歎なされていますように、真実の仏教は病気治しや御利益の祈祷などとはおよそ 次元が違い、後生の一大事を解決して永遠の生命を体得し絶対の幸福、無碍の一道に 導くものであることを開顕しなければなりません。  ではお尋ねの 「論より証拠」 といわれている現象はどうなのか、ということについてお答え致しましょう。  昔から 「病は気から」 といわれますように、心理作用は肉体に大きな影響を与えます。  一例をあげれば、なんの薬効もない澱粉や乳糖で形や色や香りを本物の薬と同じよ うに作った、いわゆる偽薬と、本物の薬とを同時に用いて夫々の効果を比べると、偽 薬にも相当な効果のあることが実証されています。  ある医大教授の実験によれば、頭痛に対し偽薬は使用者の五〇%に有効な結果を現 し、乗り物酔いには五〇%を超える有効率が出ています。 この外、傷の痛み、咳止め、かゆさなどには三〇%の治療効果があると発表されてい ます。  戦争中日本兵が南洋の原住民に歯みがき粉を腹痛の特効薬だと飲ませて、ケロリと 腹痛が止まって、大変感謝されたという話を聞きますが、心理作用が如何に肉体に影 響を及ぼすか、おどろかされます。  ある心理現象研究者の実験によれば、水を酒だと暗示を与えて飲ませると、本当に 酔って顔も赤くなり、反対にウイスキーを酒嫌いの婦人に水だと暗示してコップ一杯 飲ませたが、顔も赤くならないし平気でいたといっています。  また、か弱い婦女子にお前は横綱大鵬になったのだと暗示して、二十貫もある大男 に力一杯ぶつからせたが、びくともしなかった。 つり出そうとしたがつり出すことも出来なかったといわれています。  勿論、病気なども暗示や催眠術などによって、よく治るし、てんかんのような脳に 障害のあるものまで治ることがあると報告されています。  キリスト教のイエスが初の奇蹟(御利益)としてガリラヤのカナで 「水をブドウ酒にした」 という『福音書』の話も、天理教祖の中山みきが晩年、力自慢の若者を相手に力だめ しを好んでやったのもこの類です。  たとえば、梅谷四郎兵衛を相手に 「お前、ワシの手を持って力の限り引っぱってみなはれ」 といって引っぱらせ、相手が逆に引き上げられてしまうということをしばしば行い、 その度に、 「このワシに力がある筈はない、神の力やで……」 と、うそぶいています。  暗示や催眠現象などに無智な者は、実際このような事実を見せつけられると、誰で もこれは神様のお力に違いないと思うでしょう。  しかし、新興宗教などの宣伝するこれらの奇蹟や御利益は、総てこの暗示や催眠現 象から生まれたもので、それ意外の何ものでもありません。  怪しい証拠は 「証拠より論」 で真相を見極めなければなりません。    
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仏教は独尊的な教えではないのか

2010-06-18 21:24:14 | 日記
七 仏教は独尊的な教えではないのか 問 お釈迦さまは誕生なされた時に「天上天下、唯我独尊」と言われたそうですが、 仏教はそのような独尊的な教えなのでしょうか。 答 大変世間一般に誤解されている仏教の言葉です。  確かに、釈尊が誕生された時に、天と地を指さされて、 「天上天下、唯我独尊」1-47 と叫ばれたと記録されています。  これを多くの人々は、 「この世で一番偉くて尊いものは、自分一人である」 と、釈尊が威張られたことのように思って、大変うぬぼれた言葉のようにあつかっています。  しかし、この 「天下天上、唯我独尊」 という心は、決してそのような思い上がった心で仰言ったものではないのです。  この 「我」 というのは、決して釈尊だけのことを仰言ったものではなく、人間一人一人のことなのです。  だから、人間誰しも釈尊と同じように、 「天上天下、唯我独尊」 なのであり、またそう言えるのです。  では、 「独尊」 とはどういうことかといいますと、たった一つの尊い使命ということで、決して自分一人が偉いのだということではありません。  ですから、 「天上天下、唯我独尊」 ということは、我々人間には、天上天下広しと雖もたった一つしかない聖なる使命を果すべく、この世へ生まれて来たのだということなのです。  釈尊のこの世へ生まれられた、たった一つの使命は『正信偈』に、 「如来、世に興出したまう所以は、唯、弥陀の本願海を説かんが為なり」2-04 と、親鸞聖人が道破されているように、総ての人々を絶対の幸福に必ずしてみせると誓われた、無上殊勝の阿弥陀仏の本願一つを説くことにありました。 この世界広しと雖も、唯一無二の阿弥陀仏の本願を説くという、たった一つの尊い使命を担って、我は生まれて来たのだという、釈尊の使命感が、 「天上天下、唯我独尊」 という格調高き宣言となったのです。 釈尊はこのように、弥陀の本願を説くという、たった一つの聖使命を唯我独尊と仰言いましたが、一切の人々は、人生の目的を何と心得ているのでしょうか。 これが明らかに自覚されていない人は、決して、 「天上天下、唯我独尊」 ということは出来ません。  その資格がないからです。 「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く、この身今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし」1-50 の、法語の示す如く一切の人々の唯一の使命は、阿弥陀仏の本願を聞信して、人生究極の目的である、絶対の幸福を獲得(体験)することにあることは、明らかであります。 この使命を知り、この使命に向かって全力をあげ、この使命を成就した時にこそ総ての人々が、天と地に向かって、 「天上天下、唯我独尊」 と絶叫せずにおれなくなるのです。 これを機縁に、仏教の教えで説かれる我々の生きる聖なる目的について、深く考えてみようではありませんか。
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五 家運は墓の建て方と関係あるのか

2010-06-18 21:20:11 | 日記
五 家運は墓の建て方と関係あるのか 問 先日新聞のチラシの中に「世にも不思議なお墓の物語、お墓の建て方による家運」という広告がありましたが、墓と私達の間に何かあるのでしょうか。私宅も墓がありませんので、そのうちに造らねばと思っていた矢先です。どうかその天明快に御教示下さいませ。 答 結論から申しますと、親鸞聖人はこれらのことは迷信として徹底的に排斥なされています。 私達の幸、不幸と墓は何の関係もありません。墓の建て方による家運なんぞは狂人の寝言です。 チラシは墓の石材を売るのが目的ですが、社会を大変毒する迷信ですから私達は黙視することは出来ません。 因みに一千年の伝統を誇る墓相家、鹿島大賢の『墓相と開運』を読んでみますと、 「如何なる人の運命も墓の吉凶によって左右されるもので、墓が吉相であれば自己の運命はもち論のこと、その人相、手相まで変化し子供の運命までも決せられるのである。 自分の御都合主義で作られた家屋が、偶然にも家相にかなった設計であった為盛運の家となり、姓名判断を研究せずにつけた名前が、福徳長寿の吉数が得られて健康であり、或は、先天的とさえ思われている人相、骨相、手相などが大吉運であることはすべて墓相の吉兆、祖霊の加護の賜物に外ならないのである。 世の中には姓名も家相もよくしたのに、なお悪運を繰返している人の多いのは、実に墓相を等閑に付し、祖霊を忘却した結果である。 墓相学こそ百相の根本となり、百相の吉凶を支配するものであるといってよいのである。 従って墓相学こそ諸運命学上の王座にして、転禍為福の唯一の大秘宝なのである」 とまでぶち上げています。 そして凶相の墓はその家族に大災難が起こり、不幸が続出するから直ちに墓を造り変えよ、と迷信深い人達を嚇し、金儲けに狂奔しています。 真実の仏法を知らず、後生の一大事を知らない大衆は、古来より墓は死者の霊が安息する処だと信じ込んでいます。 ですから墓を建てることが先祖に対する厚い孝養だと思い、その墓にいる祖霊に対して種々の祭りや仏事を行なって、これを慰め追善となし、祖先の加護を祈ったりしているのです。 このような一般大衆の迷信に便乗して、人間の一切の不幸や災難は、生霊や死霊の影響だから、それらの集まっている墓を改善することによって、救われるのだと大衆を惑わせているのが、墓相家といわれているものの実態です。 彼らは墓の吉凶が家庭の吉凶だといいますが、そこには何らの因果関係もありません。 また信心決定して亡くなった人は還相の大活躍をしていられるであろうし、信心決定せずに死んだ人は、無間の火城で大苦悩を受けているから、墓の下なんかにおれるものは一人もありません。 仏教では墓などに存在する霊などは一切認めませんから、その吉凶を論ずるなどは後生の一大事を知らない者のたわごとにすぎません。 特に親鸞聖人は、墓相云々なんかに対しては、無間地獄の業だと断言なされています。 『教行信証』には、 「占相を離れ、正見を修習し、決定して深く罪福の因縁を信ずべし」(化土巻) 「三宝を帰敬して天神を信ぜず、正見を得て、歳次や日月の吉凶を擇ばず」(同巻) 「余道に事うることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ」(同巻) 占相を離れよ、鬼神を信ずるな、歳次や日月の吉凶を信じてはならない、と諸経典を引用して重ねて強く教誨なされています。 墓相や家相、印相などに迷っているのは占相を離れず、鬼神を信じているのです。 「ひのえうま」歳の人を嫌って結婚しないなどは歳次の吉凶を信じているのです。 ネコもシャクシも結婚は大安吉日を選び、仏滅、三隣亡、友引を凶日として避けるのは日月の吉凶を信じているのです。 「或は種々に若は少、若は多、吉凶の相に執じ鬼神を祭れば極重の大罪悪業にして、近く無間罪を生ず」(教行信証化土巻) 親鸞聖人は墓相や家相、印相、人相、手相などの吉凶の占いは、みな迷信であり邪信であって、死んだら無間地獄に落ちる無間地獄の業であるとまで厳誡なされていますから私達も、これらの迷信打破に断固立ち上がらなければなりません。
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名前が悪いから不幸がおきるのか

2010-06-18 20:54:08 | 日記
四 名前が悪いから不幸がおきるのか 問 最近、私の家庭に不幸が続き、ある人の熱心な勧めで姓名判断をして貰ったところあなたの名前が悪いから改めなさいと言われましたが、そんなことあるものでしょうか。 答  親は子供の誕生に、まず考えるのは名前でありましょう。 最近ある保険会社の調査では、殆どの人は出産前から考え始め、 「出産してから」 という人は30・3%。 「届け出の日が迫ってから」 というのは、わずかに4・3%にすぎません。 殆どの親は、子供の生まれる前から男ならこれがよい、女ならばこれにしようと、辞書をひいたり、字画を数えたり無い智恵をしぼります。 先の調査でも、名前を考える時に、 「姓名判断や字画を基準にした」 と答えたものが、実に34・7%もあります。 健康であってほしいの健一、 善い人になってくれよの善太郎、男らしい正男、一家和楽の和子、幸福になってくれよの幸子、花のように美しい華子など、どれ一つとりあげても、私達の名前にはかくあれかしという両親の願いがこもっていることは、事実でありましょう。 しかし人間の願いは通りません。 仏教の教えには名体不二という言葉もあり、 名は体をあらわすともいわれていますが、世間では必ずしもそうとは限りません。 万年筆といっても万年も使用出来るものではありませんし、 白墨といっても赤いものもあれば黄色いものもあります。 奥さんといっても何時も奥にいる訳ではありません。 刑務所の受刑者の名前をみても、なんと立派な名前が多いことでしょうか。 善太郎が善太郎ではなく窃盗前科三犯、秀一が寸借サギの前科五犯、聖吉が収賄したり贈賄したり、正義が婦女暴行魔であったり散々です。 和子が三角関係のもつれから殺人未遂に問われ、智恵子が馬鹿な男にだまされて淪落し、幸子が不幸続きで投身自殺をしています。 まことにままならぬのが浮世の常であります。 このように名前は単なる人間の符牒にすぎません。 自分と他人とを仮に区別する目じるしにすぎません。 だから人間の幸、不幸の原因をそんな符牒で判断しようとしているのは、 馬鹿げた迷信です。 合理主義が叫ばれながら、今日さかり場の裏街の怪しげな灯かげで、 姓名判断が依然として繁昌しているのは、不安な世相を反映しているのでありましょう。 人間は調子のよい時は、なんのかのと理屈をいっていても、 一度思わぬ不幸や災難に遭うと青菜に塩で、 たわいのないしろものでくだらん姓名判断や、迷信邪教に一ころです。 これは全く、人間の幸、不幸は何によって生ずるのか、その解決はどうすればよいのかということを明示なされた、真実の仏教を知らないところに原因があるのです。 早く親鸞聖人に、その真実の仏法を教えて頂きましょう。
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