牧石九条の会(まきいしきゅうじょうのかい)

この会は、「九条の会アピール」に共感した、岡山市北区の牧石学区に関係する人たちの会です(2016年1月結成)。

「戦時中の暮らしって?体験者のお話を聞く会」ひらく

2016-12-19 | 記事
 牧石九条の会は2016年11月20日、牧石コミュニティハウスで「戦時中の暮らしって?体験者のお話を聞く会」をひらき、小学6年生を含めて18人が参加しました。

 小学5年のとき県内の田舎で敗戦を迎えた男性は、「集落ごとに集合し『歩兵の本領』などの軍歌を唄いながら登校した」、「学校で、男は桜のようにきれいなときに散る(=死ぬ)ものと教えられた」、「神風が吹かずに敗戦したので神様を信じなくなった」などと話しました。

 小学3年のとき朝鮮で敗戦を迎えた男性は、「朝鮮人の女中さんは食卓の下の畳の上で食事をするのが常識だった」、「敗戦後、38度線以北ではソ連軍が進駐して、持ち物はすべて没収された」、「南側にいた我々は、小型の貨物船を借りて朝鮮半島の港に寄りながら南下し、島根県の浜田港に上陸した」などと話しました。

 その後、参加者は意見や感想などを語り合いました。


(詳細)

 「聞く会」は、澤山さんのギター伴奏で「大きな歌」を合唱して始まりました。


和気町で敗戦を迎えた原田さんのお話し

 岡山市北区玉柏に住む原田さん(81)は、次のように話しました。

 原田といいます。昭和9年12月26日生まれ、81歳です。
 岡山市山崎町8番地、今の野田屋町で生まれました。
 昭和16年4月に弘西国民学校に入学、その年の12月8日に太平洋戦争が始まりました。
 祖父と父の仲が悪く、3年生になったときに実家を出て苫田温泉の近くに転居して野谷国民学校に転校、4年生になったとき父が和気の地方事務所の勤務となり和気郡和気町益原に転居し和気国民学校に転校、5年生の8月15日に日本が敗戦しました。10歳でした。
  軍歌を唄いながら集団登校
 和気国民学校のころの話をしますと・・・
 登校するときは、集落ごとに集合場所が決まっていて、集落の生徒全員がそこに集合します。そして、みんなで軍歌を唄いながら登校します。
―「万朶(ばんだ)の桜か襟の色 花は隅田に嵐吹く 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば 散兵綫(さんぺいせん)の花と散れ」(『歩兵の本領』)
―「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲が湧く」(『若鷲の歌』)
 校門のところに高等1年、2年の方が銃剣をまねた棒をもって立っていて、上級生が「歩調を取れ!」という号令をかけ、「右向け右!」の号令で頭を右に向けてそこを通り、「直れ!」の号令で元に直り、校門の近くの奉安殿に行き、その前で2列に整列し最敬礼をしてから各教室に入ります。
 はきものはわら草履でした。雨の日は下駄ばきで登校、雪の日は、はだしで走って登校し、学校に着くと足を雑巾で拭きます。草履だと濡れるし、下駄だと歯に雪がどんどんくっついて歩けないからです。足の裏は感覚がなくなっているのですが、次第にぽかぽかしてきました。
  学校では、男は綺麗なときに死ぬものと教えられた
 日本の歴史について教えられたことは・・・
 「空の神様が雲に乗って降りてきて、持っていた槍で海をかき混ぜ、持ち上げたときそのしずくが落ちる瞬間に陸地ができた、それが日本の国だ」と教えられ、日本は神がつくった国「神の国」だ、だから負けることはないと教えられました。「天皇の祖先は神様だ、天皇も神様だ」と教えられ、「神様だったら何も食べないのだろう、空気を吸って生きているのだろう」と思っていました。
 そして、「人は桜の花のように生きよ。みんなから綺麗だと言われているうちに散っていく(死ぬ)こと、これが男の生き方だ」と教えられました。男女別のクラスだったので、女子がどんなことをしていたのかは分かりません。
 体操の時間には剣道の練習がありました。廊下に竹刀が掛けてあり、それをもって運動場に出て振る練習をしました。赤と白の旗をもって、手旗信号の練習もしました。2人が離れて立ち、交互に手旗で言葉を伝える練習をしました。
 行進の練習もよくしました。進む方向を変えるときは、内側の者は足踏みし、外側の者は早く進んで、ちゃんと角をつくって曲がらなくてはなりませんでしたが、うまく角をつくって曲がれないときは、何度も曲がる行進をさせられました。
  B29、ロッキード、グラマンが上空を飛んだ
 アメリカの飛行機が学校の上を飛ぶようになりました。B29、ロッキード、グラマンの各戦闘機でした。それらはプロペラの数などが違うので爆音に違いがあり、遠くから爆音が聞こえてくると、機種を当てる遊びをしていました。
 ご飯は、米がないので麦飯で、麦の中に少しのコメがあるという状態でした。出征兵士の家に麦刈りや稲刈りの手伝いに行くと、麦の入っていない米だけのにぎりめしが出て、「こんなおいしいものがあるのか」と感激して食べました。
  神風が吹かず敗戦したので神様を信じなくなった
 8月15日の敗戦の放送は、聞いてもよくわからなかったのですが、大人の様子から、日本が負けたことだけは分かりました。負けそうになっても神風が吹くと信じさせられていましたが、これ以後、私は無神論者になりました。
 敗戦後の授業では、少しの間でしたが、新しい教科書ができるまで、古い教科書を持って登校し、勉強はせずに言われたところに墨を塗って消す作業だけをしました。



朝鮮で敗戦を迎えた澤山さんのお話し

 北区原に住む澤山さん(79)は、次のように話しました。

 澤山と申します。来月(12月)には80歳を迎えます。
 私は朝鮮で生まれ、9歳(小学3年)まで朝鮮で育ち、敗戦後に引き揚げました。生まれたところは朝鮮の南部の蔚山(うるさん)です。当時の朝鮮は日本の支配下にあり、朝鮮には630万人の日本人がいたと言われています。
 父は、朝鮮の木材会社の支店長でした。私は長男で、4つ下に弟、その2つ下に妹、さらに1つ下に妹がいて、母を入れて6人もの家族でした。
  女中さんは食卓の下で食事しようとしたが・・・
 家には女中さんが2人(若い子と年配の人)いて、いつの間にか朝鮮語を覚えました。父から「お前はいつそんなに朝鮮語が上手になったんじゃ?!」と何度も言われました。今ではほとんど忘れてしまいましたが。
 若い10代の女中さんが初めて我が家に来た日だと思います。みんなが食卓に着いたとき、若い女中さんは、自分の食べるご飯やおかずを食卓下の畳の上に置きました。それが当時の常識だったのでしょう。すると父は、「いっしょに食べようと言ったろう。食卓の上に上げなさい。」と言いました。その子は感激したのでしょう。大粒の涙を流しました。その後、その子はガラリと明るくなりました。生き生きとして、任された弟の面倒をよく見ていました。
 敗戦後、小型の貨物船を借りて引き揚げた
 父の転勤で38度線北の襄陽(やんやん)に転居し、敗戦の前年に南の江陵(かんぬん)に転居しました。敗戦を迎えると、38度線より北にはソ連軍が進駐してきて、日本人たちは持ち物を没収されて着の身着のままで、鉄道を使って南下して引き揚げていました。私たち南側にいた日本人は、布団や最小限の家具を持って引き揚げることができました。役人の検査のとき、母が布団袋の中に隠していた高価な陶器のような物が転がり出てしまい、それは没収されてしまいました。
 父は小型の貨物船を借り、私たちは貨物室に入り、港に立ち寄りながら朝鮮の東岸を南下しました。日本海を渡って島根県の浜田港に着いたのは11月の半ばでした。
  日本では芋ばかりの食事
 帰国してからの福山での生活は貧しく、食事はいつもさつま芋でした。私が「また、芋か」と言うと、母は「がたがた言うんじゃないよ。芋でも食べられん人が大勢居るんじゃから」と𠮟られました。芋だけの食事は胸やけが起きました。
 海岸にアサリ貝掘りによく行き、砂の詰まったアサリも分からず持って帰っていました。アサリだけは美味しかったことを覚えています。


参加者の発言
・憲法を守ることが大切だと思う。
・当時は4歳であまり覚えていないけど、岡山城が焼けるのを見て「きれいだなあ」と思った。今は教育の怖さを感じる(元教員の女性)。
・難しかったけど、戦争について少しわかった(小学6年)。
・今回のビラを見て九条の会が近くにあるのを知った。(女性)
・授業で戦争について教える機会があり、参考になればと思い参加した(女性)。
・戦時中のことについて、いろいろ聞けてよかった。ありがとう。
・県北から旧満州に渡った満蒙開拓青少年義勇軍の慰霊碑が笠井山公園展望台へ行く途中にあり「友よ安らかに」と刻れている(男性)。
・その他、戦時中の動きについての詳しい話などいろいとな発言がありました。
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