うめちゃんのグダグダな日

希望はないけど、不安がある。
面倒くさいで、自己完結。
眠ったままで、目覚めないことを希望する。

「短歌」に頂いたコメントに答えて

2015-02-24 09:54:38 | 日記

すっかり語彙が乏しくなって思いつくままの短歌です。


しかし、その時の気持ちが、甦るので正直は確かです。

 

土曜日の夜のことだったので、それに「あれよあれよ」と言う早さで、

事が進みましたので、看護師さんも慌てていて、病室には二人取り残され

(娘はどうにも間に合わず)しかし、二人っきりのとき逝ってしまいましたので、

邪魔もなく静寂のなかで、見送ることが出来ました。

結果的には良かったことでした。

人が居れば気を使いますしね。

もうお終いだ~という、慌てる気もなく、息を窺いながら、

彼の最後をしっかり目に焼き付けました。

 

そして、思ったのは自分の死に様でした。

どういう最後を迎えるのか…

誰も知り得ないことを、私が知ることはないながら、

80歳まで生きてきて、がんも乗り越えて、オットも見送りこれ以上の事はない…と。

 

私の食欲が衰えて、萎えてきた時は、胃ろうや経鼻管による栄養補給は断固拒否するということ。

食べなくなっても2ヶ月は生きることもあるそうなのでそれを受け入れてくれる

ところがあれば、始末は素人では出来ないかも知れないので、施設にお願いしたい。

 

子どもや孫に時々来てもらって、バカ話や失敗話をしてもらいながら

笑う気力があれば笑い、笑えなくなっても耳には入るそうだから、

話を聞きながら旅立ちたい…

そんなことをウスボンヤリと考えています。

 

え、え。

まだまだ生きると思います。死の兆候は感じませんし

栄誉面も考えようと張り切っていますし

残るボケが心配ですが、いろいろケアしつつ

あとちょっと生かさせてくださいませ。

 

 

 

 


 


短歌?気持ちのままです。

2015-02-22 12:15:23 | 日記

 ド素人の気持ちのままです。

「もっと推敲しなさい」との声がきこえますが…

考えるより投稿しちゃう。

「こここうしたらいいよ」のコメント大歓迎でございます。

 

・帰りたい 言わぬ日もあり病人の 言い出さぬ内帰り仕度す

 

・痩せ細り 動かぬ指をまさぐれば かすかに応える気配感じる

 

・細く遠く 消えゆく息と向かい合い 二度と帰らぬ日々はまぼろし

 

・病院の 夜はしんとして静かなり 消えゆく息も我が耳に響く

 

・看護師も 居ぬままふたり病室に これで逝くのか永遠の別れか

 

・六十年 連れ添いしのち夫逝く 別れは寝息のままに途絶えり

 

・終の息は三十五分と思えども医者は告げたり三十九分

 

・六十年 連れ添う冬に夫逝く これでいいのか我が胸に問う

 

 

 


少し落ち着きました

2015-02-21 10:38:24 | 日記

昨日で二七日、2週間が過ぎました。

 

毎日がのったりのったり過ぎていた以前と比べると

格段のスピード。しかもイヤじゃない時間(笑)

 

まだ、事務的な仕事が残っています。

娘、孫の手を煩わせながらボチボチやっております。

お役所もかなり優しくなって、聞けば親切に教えてくれます。

そして「ありがとうございます」も…

公僕という言葉を思い出させました。

 

さて、遺族年金と名前が変り、いくら貰えるのか~

これからの生活が掛かるだけに、最大の関心事。

オットと私の二口が一口になりますので。

 

ほんの少し私の分に上乗せがきて、食べるだけは確保のようです。

まだ正式書類が来ていないので、取らぬ狸の皮算用なり~

贅沢はできません。

一人なので栄養面を考えながら、少しの量を作り食べることにいたしましょう。

おひとり様の友人に聞いても、「もう欲しい物はない」そうです。

私はまだ季節の着る物など欲しいので、修業が足りぬと。

まだ、お一人様になり立てですので、五里霧中というところです。

 

オットが病体になってから5年以上、入院生活も1年ありましたので

おひとり様の助走は長かったように思いますが

実際は、手探りも多いです。 

 

まだ健康体(ガタは来ていますが)のうちに開放されて、オットに感謝です。

これからは自分の健康管理に集中出来ますので、

病気をしないようにピンピンコロリを目指します。

 

 


喪主あいさつ

2015-02-14 11:16:44 | 日記

 

本日は、お忙しい中そしてお寒い中を故岩田義襲のために、

お参りを頂き厚くお礼を申し上げます。

岩田義襲は、平成27年2月7日午後9時39分、84歳の生涯を終え

お浄土へと旅立ちました。来月7日で85歳になるところでした。

 

病歴を申しますと、40代で十二指腸潰瘍で胃を切除したことから始まって、

近年では胆石症で胆嚢切除、肺がんで肺の一部切除、大腿骨の骨折手術や、

腰椎圧迫骨折など続き、その以前にも軽かったとはいえ脳血栓や心房細動とか

パーキンソン症候群と病気の問屋のようでございました。

機能病院に入退院のあとその後、昨年3月まで家で過ごしていましたが、

肺炎を起こし国立病院から竜山病院病院へとお世話になりました。

 

ほとんど身動きも取れなくなり、鼻から栄養を摂りながらの

入院生活でしたが、良く頑張りました。

 

最後に、駆けつけたとき眠たいような半眼開きの目でした。

「おとうさん、雅代が来たよ、わかるね」呼びかけたら、かすかな身動きで

眠たいのに起こされた…そんな感じで受け取ってもらえました。

それから、1時間じっと彼の息を数えながら見守りました。

ゆっくりと静かに最後の息を終えました。

 

義襲の本籍は大分県の中津でございます。

両親とともに、戦前の朝鮮で生活しておりましたので、終戦後、家財道具一切を捨てて

命だけを大事に一家で引き揚げて参りました。

義襲15歳の夏の終わりのことで、その前後の苦労は多かったと聞いております。

 

生涯、真面目な性格でありました。真っ正直で損を選ぶ人でした。

仕事もタクシー乗務という大変な業務が長かったのですが、

管理職も定年まで全うして呉れました。

不器用な生き方しか出来ない性格でヤキモキさせられましたが、

もう一度生まれ変わっても、同じ道を歩くのではないでしょうか。

 

私どもは、25年前に息子を亡くすという不幸はありましたが、

気持ちは前向きに生きてきたつもりです。

定年後は、シンビジュームを育て花を咲かせ、庭仕事を中心に

樹木の世話とともに、3人の孫の成長を楽しみに見守らせて貰い

穏やかな生活を送れたことは、幸せなことであったと思っております。

朝鮮時代の同級生と連絡を取り合い、国内の旅行を楽しんだ10年もありましたし

故郷ともいえる、韓国の統営という街へ行き、幼いころの思い出を辿った喜びもありました。

 

今は、やっと病気の苦しみから逃れて、「楽になったね」と言ってやりたいです。

私も今年80になります。夫を先に見送ってからという願いをひとつ叶えさせて貰いました。

私の余生とともに、娘夫婦、孫たち、まだまだ皆様にお付き合いを頂きながら

世話になって参ります。

今後ともよろしくお願いいたしますとともに拙いご挨拶を申し上げました。

本日は誠にありがとうございました。

 


飛び出した一部のもの

2015-02-05 10:13:46 | 日記

 

海の底でシンと静まるわたし

悲しみも喜びも暑いも寒いもなくシンと静まるわたし

何も聞こえない…声も出せない…

まるで死んでいるよう

が、息はしています。

歌いたくもなく、笑いたくもなく、手仕事もしたくなく

ただ、面倒くさく、横たわって時間が過ぎる…

 

文字にするとこんな気分で毎日が過ぎています。

老人うつ?

きっとそういうものでしょうね。

出来るならオットと替わりたい…

 

あれこれとやること満載で張り切っていたあの頃

時間が足りないからAをやめてBにしようと

くるっ、くるっと自在に目的を変え、

目いっぱいに体を動かしていたあの頃

 

やりたいことがあっても、今はただもう…

面倒で、面倒で、どうともなれ~と。

 

また暫くしたら、元気もでるでしょう。

買物もしたくなるでしょう。

美味しいものを食べたくなるでしょう。

じっとこの時間をやり過ごしましょう。

 

あんまりご無沙汰なので、何か書こうとしたら

こんな言葉がならびました。

胸の中にあることを一部取り出しただけですから…

まだ、いっぱい違うものも詰まっていますから… 

 

ご心配なく読み流してください…