確かSFCのBLOGの取り組みについては、「ソーシャルネットワーキングでゼミの名簿作り」という記事で紹介されていたはず。
さすがSFCおそるべし。。
村井純の話は個人的には結構興味深かった。
敬意も表して、雑感など。う〜ん、整理できるかな。
「三人集まれば文殊の知恵」というわけではないが、「知」とは「1+1=2」というものではなくてその結びつきによって等比数列的に増大していくものである。
それは同質化されたメンバー同士の会議が合意の容易性に反して必ずしも最適解を導くわけではなく、むしろ異質性あるいは他者性を抱え込むことで多様で柔軟な可能性を生み出すように、「知」とは他者との「交通」によって価値を増すものである。
テッド・ネルソンの図書館をネットワークに結びつけるというザナドゥ計画にあるように、ネットワークを通じて「知」を結びつけるという想いはコンピュータの初期から夢想されていたし、MSがインターネットを閲覧するIEとローカル・ネットワーク内の階層を表示するエクスプローラーを統合されているのも
「知」を同一の地平で結びつけるということに他ならない。
「知」とはネットワークの中にこそ存在するものなのだ。
blogが自律分散型の知として可能性を秘めているとしたら、トラックバックやコメントといった機能でそのネットワーク性をサポートしているからに他ならない。
ではメディア性はどうなのだろうか。
発信者としては全ての人が対等の立場である。しかしそこにはblogとは別に付随する発信者自身の権威や知名度といった差が存在し、結果、集客力の差となってあらわれる。それは既存メディアがそうであるように、それを閲覧する人(=視聴者、読者)にとっては影響力や正しさの基準として捉えられる。内容の「質」ではなく集客力の差こそが「メディア」としての「力」であることついては既存メディアと何ら差はない。
また放送や新聞といったように新規参入が困難な限定された存在(=集客力)であれば、その代償としての「質」や内容に対する「責任」が付随するが、BLOGのような個人発のメディア−特に「匿名性」によって成り立っているメディアでは、偶然的な個々の「知」同士のネットワークとして結びついたにすぎず、内容の「質」同士でトラックバックが行われるわけではない。
つまり「BLOGとは分散された「知」を結びつけるものである」といった大枠についてはその通りであるが、本来的な意味で分散化された「知」を結びつけるためには(トラックバック以外の)別の装置が必要となる。結局は「検索エンジン」のようなものが必要なのだ。
しかし、上記のような観点からするとBLOGにとって必要な検索エンジンとは「Google」のような評価型の検索エンジンではなく、つまり集客力の差であったり、多くの人がリンクをはっているからという理由で、ランキングの格差をより広げる傾向にある検索エンジンではなく、検索者の要望に応じて、BLOGの「質」「内容」を把握し最適化するエンジンが求められていくのだろう。
結局、BLOGといってもインターネットという「鵺」のようなメディアの制約からは逃れられるものではない。
[参考]思想としてのパソコン(西垣通)

さすがSFCおそるべし。。
村井純の話は個人的には結構興味深かった。
敬意も表して、雑感など。う〜ん、整理できるかな。
「三人集まれば文殊の知恵」というわけではないが、「知」とは「1+1=2」というものではなくてその結びつきによって等比数列的に増大していくものである。
それは同質化されたメンバー同士の会議が合意の容易性に反して必ずしも最適解を導くわけではなく、むしろ異質性あるいは他者性を抱え込むことで多様で柔軟な可能性を生み出すように、「知」とは他者との「交通」によって価値を増すものである。
テッド・ネルソンの図書館をネットワークに結びつけるというザナドゥ計画にあるように、ネットワークを通じて「知」を結びつけるという想いはコンピュータの初期から夢想されていたし、MSがインターネットを閲覧するIEとローカル・ネットワーク内の階層を表示するエクスプローラーを統合されているのも
「知」を同一の地平で結びつけるということに他ならない。
「知」とはネットワークの中にこそ存在するものなのだ。
blogが自律分散型の知として可能性を秘めているとしたら、トラックバックやコメントといった機能でそのネットワーク性をサポートしているからに他ならない。
ではメディア性はどうなのだろうか。
発信者としては全ての人が対等の立場である。しかしそこにはblogとは別に付随する発信者自身の権威や知名度といった差が存在し、結果、集客力の差となってあらわれる。それは既存メディアがそうであるように、それを閲覧する人(=視聴者、読者)にとっては影響力や正しさの基準として捉えられる。内容の「質」ではなく集客力の差こそが「メディア」としての「力」であることついては既存メディアと何ら差はない。
また放送や新聞といったように新規参入が困難な限定された存在(=集客力)であれば、その代償としての「質」や内容に対する「責任」が付随するが、BLOGのような個人発のメディア−特に「匿名性」によって成り立っているメディアでは、偶然的な個々の「知」同士のネットワークとして結びついたにすぎず、内容の「質」同士でトラックバックが行われるわけではない。
つまり「BLOGとは分散された「知」を結びつけるものである」といった大枠についてはその通りであるが、本来的な意味で分散化された「知」を結びつけるためには(トラックバック以外の)別の装置が必要となる。結局は「検索エンジン」のようなものが必要なのだ。
しかし、上記のような観点からするとBLOGにとって必要な検索エンジンとは「Google」のような評価型の検索エンジンではなく、つまり集客力の差であったり、多くの人がリンクをはっているからという理由で、ランキングの格差をより広げる傾向にある検索エンジンではなく、検索者の要望に応じて、BLOGの「質」「内容」を把握し最適化するエンジンが求められていくのだろう。
結局、BLOGといってもインターネットという「鵺」のようなメディアの制約からは逃れられるものではない。
[参考]思想としてのパソコン(西垣通)













mailtotaroさんのコラムも同じく興味深い!
blog&ソーシャル両方の発展に期待します!
また来ますね。