七ヶ浜町では仮設住宅の建設も着々と進んでいて。
そんな仮設住宅にある集会場ではそこに住む人たちの憩いの場となるようお茶飲みスペースがあって、そこのお手伝いもさせてもらいました。
お茶やコーヒーを出しながら、東北弁に悪戦苦闘しつつおじいちゃんやおばあちゃんといろいろなお話をしてきましたよ
他愛もない天気の話や町自慢や自分の生い立ち、進んで自分から3月11日の様子を詳しく話す方もみえて。
チリ津波を教訓に家を高く建てていたこと。
予想をはるかに超えた津波だったということ。
窓の外から車や船を押し流してくる波を見たということ。
デイサービスの帰り道で少しでも時間がずれたら波にのまれていたかもしれないということ。
地区の殆どの家が流され自治体として機能しないということ。
避難所を転々として近所の人びとや友人がどこでどうしているのかわからないということ。
炊き出しの食事が洋食ばかりで口に合わず8キロも痩せたということ。
避難所や仮設住宅で何もやることがないということ。
車が流されてどこにも行けない人が大勢いるということ。
それでも暗い話しばかりではなく、もしかしたら無理になのかもしれないけれど賑やかに笑顔もこぼれつつ楽しくお話しさせてもらいました。
『物なんかね、ぜーんぶ流されちゃったの。なーんにも無くなっちゃったの』
って一人のおばあちゃんがつぶやくと、
『そうそう、物も無い・お金も無い』
そう他のおばさんが返して、また他のおばさんが、
『お金は最初から無かったけどね』
って言って、みんなで大笑い
『でも、命はあったから』
『そうそう、命はあったから』
ってみんなでうなずきあっていて。
私はただその言葉の重みに涙が出そうになりつつ、笑顔を浮かべながらうなずいていました。
お茶のみスペースも終了に近づいてきた頃、一人のおばあさんが「少しここで待たせてもらってもいいですか」と入ってきて。
どうぞどうぞ、とお茶を出しながら私がどこかにお出かけですか?と聞いたら「これからお通夜に行くんです。」と返事が返ってきて。
津波にのまれた中学生と高校生の子のお通夜にこれから行くのだと。
その日の夜、寝袋の中で震災から二ヶ月以上たってからお葬式なのか。
と一人考えてしまって。
棺が足りなかったのか、火葬場が一杯だったのか、それとも行方不明のままでやっと身元が確認されたのか・・・
推測しかできないけれどそのどれも、やりきなない
私は普段子どもと係わっているので亡くなった子たちの同級生のことを考えると本当にやりきれなくて。
何でどこかにお出かけですか。なんて聞いてしまったんだろう、って自分を責めて。
思い返してみて気づきました。
そのおばあさんは確かに黒い服を着ていたけれど、礼服を着ていたわけじゃなかった。
真珠のネックレスをしていたわけじゃなかった。
そんなものは全部流されちゃったんだ。
そう思って少し泣いた。
おそらく幾度となく黒い服に身を包まなきゃいけなかった人たちを思って、私はその時だけ泣きました。
それでも、その日の宮城の空はとても、きれいでした。
自然の力は大きすぎて、時に私たちにはどうすることも出来ない。
それでも、東北の空はとてもきれいでした。