赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴🔹 富山県高岡市関町 「衆徳山総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音像」と「後鳥羽上皇」!!

2017-09-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「後鳥羽上皇」と高岡市関町「総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」!!











■元越中吉岡庄(赤丸村)に創建された「総持寺」の千手観音像の胎内には「後鳥羽上皇の法名」の「金剛位理乗 本願聖人」が墨書されている。
後鳥羽上皇はこよなく菊花を愛でられ、作刀を好まれた。全ての持ち物に菊花紋を入れ、作刀された刀には菊紋を打ち込まれてこれ等は「菊一文字」と呼ばれた。総持寺の千手観音像の台座には「菊花」が全面に施されている。
(※例年、11月15日に一日だけ特別御開帳が行われる)




■「延喜式内社赤丸浅井神社」を中核施設として栄えた「越中吉岡庄」は「後白河上皇」より「後鳥羽上皇」に伝領された上皇の庄園の「後院領」と呼ばれ、「後院庁」の「後院司」が政務を司った。
「宮内庁」には「後鳥羽上皇」の「鳳凰図」が残る。



【詩教の一節】
鳳凰于飛、翽翽其羽、亦集爰止。
藹藹王多吉士、維君子使、媚於天子。

鳳凰于飛、翽翽其羽、亦傅于天。
藹藹王多吉人、維君子命、媚于庶人。

鳳凰鳴矣、于彼高岡。
梧桐生矣、于彼朝陽。
菶菶萋萋、雝雝喈喈。



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🌄「越中五位庄赤丸村」の【赤丸浅井神社48坊】と史跡位置図 !!

2017-09-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
『赤丸浅井神社』(赤丸古屋5324)


「延喜式内社赤丸浅井神社」
延喜式神名帳に「国幣小社」(国司が幣帛を捧げる神社 )として記載され、延喜式兵部には川人の駅に駅馬の配置が定められ、社僧寺坊の総号を「川人山鞍馬寺」と称えられた。一条天皇の御世、蝗害除去祈願の勅使参向あり、石黒氏は浅井城の鎮守と崇め、後醍醐天皇の皇子宗良親王は清水社、愛宕社、八幡社、山王社、北野社、加茂社、熊野社の七社を末社として勧請し、知識米の制を定めて、48坊の社人、社僧の勤王を励まされた。
(※「富山県神社誌」富山県神社庁編)

「赤丸浅井神社」には一条天皇が蝗害防止の祈願の為に勅使川原左京(河原町の左京大夫=藤原道長)を遣わされて、左右1対の桜をお手植えされた。これは「勅使桜」「遅桜」と呼ばれ、昭和初期迄、五位庄の田植えの時期を決める目安になっていた。

宗良親王の「李花集」には
『かそふれば七とせもへぬ 頼みこし 七の社のかけをはなれて』 と御詠歌された。
又、建武二年、赤丸城ケ平山に御殿を築かれ、御遷殿の御歌に
『城かきをきつき 八重の垣平らかに このうへなきや 乗り合ひの里』 と歌われて、この御殿の建つ場所を「城ケ平」と名付けられられた。



●赤丸に在ったという赤丸浅井神社48坊と呼ばれた寺院(花尾村含む)では以下のお寺の名前が判っている。
総持寺、西大寺、聖安寺、性宗寺(浄光寺)、長善寺、宗泉寺(明見寺)、長安寺、善宗寺、法筵寺、天景寺、長光寺、西宝院(東坊)、永賢寺、超願寺 

●中心寺院の「川人山鞍馬寺7坊」の玉蔵坊、観念坊、寶仙坊、宥坎坊、玄皆坊、寶池坊が何れかは不明。明治維新迄浅井神社にはこの7坊の内の「西宝院」が奉仕しており、明治2年、廃仏毀釈の時に還俗して川人他治馬と名乗り神職になった。

●宗良親王開基の「極楽寺」も元赤丸に在ったと伝わる。(※「越中宮極楽寺由緒」)

●明治に建立された霊寿寺は中山妙心尼が奉仕していた。(※「福岡町史」)

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🔲「和名類聚抄」(元和3年、1617年版 写本、二十巻本)に見る「越中国 川合郷」!!

2017-09-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










「和名類聚抄」は平安時代中期の辞書で承平年間(931年~938年)の間に勤子内親王の要請で源順が編纂した。
古代道の北陸道は富山県の西山の麓を流れていた小矢部川沿いに小矢部市の桜町遺跡から赤丸浅井神社前に向かっていたが、「赤丸浅井神社」前では往古、小矢部川と庄川が合流して大きな潟(阿光ケ淵・阿古ケ淵・吾子ケ淵)となっていた為に交通の難所となっており、「川人の駅」(※川合郷)には駅馬、弓矢が備えられ、宿場を形成していたと伝えられる。(※延喜式)
この「川合郷」は記録上は、白河天皇の時に上賀茂神社の庄園と成り「吉岡庄」として見え、その後は摂関家藤原氏長者「藤原頼長」の個人庄園となったが、「保元の乱」で勝利した「後白河上皇」はこれを没官して「後院領」と為し、自らが創建した「蓮華王院領」(※三十三間堂)に庄園として寄進された。この「吉岡庄」はこの後も後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄皇室庄園として存続したが、後醍醐天皇の第八皇子の「宗良親王」が「吉岡庄」の「浅井城」に入られた時に、元々天台座主をされた親王が「吉岡庄」を「五位庄」と改名されたと加賀藩記録「宝永誌」は語り継いでいる。
(※古書には川合駅或は川人駅として登場するが、元々、川合から崩し字で川人となったと云う見解も有るが、確定的では無い。又、川合郷は福光町辺りに在ったとする見解も有るが、大河が合流した地域は何ヵ所も在り、幾つかの川合郷が在っても不思議では無い。延喜式による「駅の記載順番」からして赤丸村辺りを「川合郷」と読んだとする方に合理性が在る。延喜式では「駅」には「伝馬」が配置されて、都から鈴を鳴らした使いが伝令を伝えたのが「駅」で在り、伏木の国府の反対方向に「駅」が在る理由が無い。)
(※「赤丸浅井神社」はその昔は『川人山鞍馬寺』の持ち宮で、「両部神道聖護院派山伏」が奉仕した。「越中吉岡庄」や富山県境の「石動山天平寺」も『後白河上皇』の勅願社と成り、長く皇室、貴族庄園として続いた。)

「和名類聚抄」(全二十巻)
天部=天文・気象、地部=土石、水部=水、歳時部=暦、鬼神部=神霊、人倫部=人間、親戚部=家族、形體部=身体の各部、術藝部=武芸・武具、音樂部=音楽・楽器、軄官部=官庁・官職名、
⚫國郡部=国名・郡名・郷名(第二巻 北陸国 第55 越中国第百)⇒『砺波郡』「川合郷」
居處部=住居・道路、舩部=船、車部=車、牛馬部=牛・馬、寳貨部=金銀・玉石、香藥部=香、燈火部=燈火、布帛部=布、装束部=衣類、調度部=日用品、器皿部=器・皿、飮食部=食物、稻穀部=稲・穀類、果蓏部=果物、菜蔬部=野菜、羽族部=鳥類、毛群部=獣一般、鱗介部=爬虫類・両生類・魚類・海棲動物、蟲豸部=虫、草木部=草木

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🔘🌸🏯「延喜式内赤丸浅井神社 社殿」に残る「皇室の紋」!! ⇒「養老年間 元正天皇」の時に「文武天皇の二宮」が創建された「延喜式内社赤丸浅井神社」

2017-09-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
◎「養老年間(※717年~724年)、元正天皇の時代に再建された延喜式内社赤丸浅井神社」

「文武天皇」は若くして亡くなられた為に、その母の「元明天皇」、姉の「元正天皇」はその皇子が成長する迄、親代わりに成り天皇に即位された。「延喜式内社赤丸浅井神社」は「聖武天皇」の弟の「文武天皇二宮 石川朝臣広成」が創建されたと伝わる。
(※「由緒」では母代わりの「元正天皇の二宮」とされる。)

・神社の各所には皇室の紋の「桐紋」、「十六菊紋」が遺されている。




歴代、天皇の皇子が門跡に為られた「門跡寺院 聖護院」の末寺の「別当寺 川人山鞍馬寺」と「赤丸浅井神社」は 、「白河上皇」の時に「上賀茂社」の庄園と成り、その後、藤原摂関家、後白河上皇~後醍醐天皇庄園、下鴨神社庄園と成った「越中吉岡庄」の中核施設で在り、室町時代に入ると「五位庄」と成り、足利義満が相国寺にこの庄園を寄進した時に「五位庄」は高岡市二上山の麓から福野町の野尻迄、幅も西山から庄川迄の広範囲な庄園に成った。この時に砺波郡は足利義満の側近の蜷川新右エ門親当が統治したと伝わる。(※「蜷川の郷土史」、「蜷川家文書」、「東寺百合文書」、「万山編年精要」、「蔭寮軒日録」)
「延喜式内社赤丸浅井神社」はこの広大な「五位庄」の郷社で在り、室町時代には「越中蜷川氏」が創建した富山市の最勝寺の住職の「亀阜豊寿 」が能登畠山氏の法要を「赤丸浅井神社」、「川人山鞍馬寺」で二度に亘り盛大に行っている。(※「富山県史」)





































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📚📖「妙法院」・「三十三間堂」と後白河上皇 ⇒「越中吉岡庄」、「越中五位庄」の「川人山鞍馬寺」・「赤丸浅井神社」!!

2017-09-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
古地図に見る「妙法院」・「三十三間堂」・「方広寺大仏」






『妙法院』は平安時代末期に後白河法王の帰依を受けた僧「昌雲」が法王の御所の「法住寺殿」に隣接して住坊を構えた事から始まった。又、『三十三間堂』は後白河法王の御所の「法住寺殿」に付属する御堂として創建され、法王が愛された絵巻等を所蔵した。又、豊臣秀吉が方広寺の大仏殿を造営した時に妙法院はその経堂と定められ、近世になると妙法院は三十三間堂を管理する様になった。『妙法院』は天台の僧「昌雲」が比叡山西塔に在った本覚院を分かち、一院を建立した。初代門主は『最澄』で、第十五代門主には『後白河法王(行真)』が就任され、南北朝時代には後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が第二十四代門主(尊澄法親王)に就任(正中二年、1325年)され1330年には座主に就任された。しかし、父の後醍醐天皇が足利幕府との戦いに身を投じられ「元弘の乱」が起こると、座主就任からわずか半年後に親王は還俗して将軍と成り全国を駆け巡られ、興国三年には越中に入られ赤丸浅井城に入られたと伝える。その後継は弟子で北朝の後伏見天皇皇子(亮性法親王)が第二十五代に就任されている。しかし、後醍醐天皇の「建武の中興」が成ると尊澄法親王は再び座主に返り咲き、その後更に内乱が激しくなると再び還俗して諸国を転戦されている。後醍醐天皇は倒幕の戦力として延暦寺や妙法院の兵力を便りにされた。

・「妙法院」は元々比叡山の一院で在ったが、何故、京都に移されたかははっきりしないと云う。保元元年(1156年)に、保元の乱を避けて方違えとして法住寺に行幸された後白河天皇はここがお気に召したのか保元三年に二条天皇に譲位して応保元年(1161年)にはここに移り住まれここを御所にされた。これが法住寺殿で現在の妙法院から蓮華王院等を含む広大な敷地で在ったと云う。上皇は御所の守りとして比叡山延暦寺の鎮守の日吉社を勘請して今日吉社とされた。その別当には妙法院昌雲が任じられている。
・「蓮華王院」は元々、別の寺院で在ったが、後白河天皇が譲位後法住寺を御所とされ、その仏堂として上皇が発願され、平清盛が造営して長寛三年(1164年)に落慶している。その内陣の柱間が三十三間在る事から三十三間堂と呼ばれ、その堂内には一千一体の千手観音像を祀られた。千手観音は蓮華王とも呼ばれる所から別名「蓮華王院」と呼ばれた。

・豊臣秀吉と妙法院
豊臣秀吉の「文禄の役」の終局に当たり万暦二十三年(1595年)に明朝の皇帝が秀吉に贈った装束が保管されている。又、豊臣秀吉は京都に大仏を造営する事を発願して、三十三間堂隣の旧仏光寺の跡地に天正十六年(1588年)から着工した。文禄四年(1595年)に大仏寺住持に聖護院の道澄が任ぜられた。しかし、大仏殿は慶長七年(1602年)に火災で焼失した。
慶長十九年(1614年)、徳川家康は方広寺の鐘の銘文の「国家安康」に意義を唱える。翌、元和元年(1615年)妙法院門主が方広寺住持を兼務した。聖護院住持は家康に呼び出されて暗殺されたと云う。

●富山県高岡市福岡町赤丸の『赤丸浅井神社』の別当「川人山鞍馬寺」は聖護院派本山派(天台宗)だった為に、江戸時代には聖護院派は豊臣恩顧の寺院として激しく圧迫されたと云う。
又、赤丸浅井神社を郷社とした「越中吉岡庄」、「越中五位庄」は後白河上皇以来、上皇の庄園「後院領」として後醍醐天皇迄伝領した。その為に「越中五位庄」は妙法院、聖護院等の運命と密接で有り、歴史的にも度重なる動乱に巻き込まれている。













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🔷🏯「越中守山城城主神保安藝守氏張 室 織田信長妹」(※「お市の方」の妹)の記載⇒ 上杉謙信との駆け引き!!

2017-09-30 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「富山県高岡市」と「織田信長」

柴田勝家と信長の妹の「お市の方」の粗末な墓は福井県福井市の足羽山の麓の西光寺境内にある。「お市の方」(天文16年-天正11年4月24日)(※「於市」、「市姫」)の父は織田信秀で、五女と云われ、浅井長政の正室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の後妻となった。神保氏張の妻は、系図ではその妹とされる事から六女になる。












加賀藩の御抱え医師をしていた「草鹿家所蔵」とされる「本朝武家系図」を入手した。
その中には、「平氏織田系図」、「世良田徳川系図」、「能登畠山系図」等、越中に関係の深い武家の系図が記載されており、富山県では余り知られて居なかった高岡市の二上山に在った「守山城」の城主「神保氏張」の妻が「織田信長の妹」で在った事が系図に記されている。神保氏張は能登畠山家から神保家に養子として入ったが、兄は上杉謙信の姪の婿になって上杉を名乗った。織田信長は上杉謙信との駆け引きの中で自分の妹を謙信の身内に嫁がせたが、謙信の信長に対する疑いは晴れず、軍勢を率いて「木舟城」を攻めた事が「北越太平記」に記載されている。神保氏張が謙信の能登攻めの結果、上杉謙信の家臣に成り「上杉謙信家臣名簿」にも記載されると、「織田信長」は「神保氏張」に妹との離婚を申し渡し、妹を兼ねてからの織田家縁者の「稲葉貞通」に嫁がせたと云う。

(※この系図では、「織田家」は小松内大臣 平重盛→資盛の系統の子孫とされているが、もう1つ、福井県織田町の剣神社の神官の末裔とする系図が在り、平家系図でも織田家は「小松」→「津田」→「織田」と姓を変えている。)


「北越太平記」には上杉謙信と織田信長の駆け引きで信長の妹が神保氏張に嫁いだ事が記載されている。(※この中での「神保長純」は「神保氏張」の間違い)









「神保氏張系図」(※静岡県立図書館 蔵)









●「上杉謙信」と「神保氏張」⇒能登畠山氏「畠山義隆」の暗殺とその家族のその後!!
天正五年の「上杉家家中名字尽手本」は上杉謙信が越中、能登を攻略した時の家臣名簿である。
神保長職は永禄3年(1560年)上杉謙信により富山城を追われた。天正元年(1573年)に、越中の一向衆や越中の武将達が盟友とした武田信玄が病死すると、謙信は七月、一向一揆と組んだ富山城、松倉城(魚津市)城主椎名康胤を制圧し、次いで一向衆の朝日山城(石川県金沢市)を攻略した。天正二年十二月、謙信は剃髪して法印大和尚に任じらる。天正三年、本願寺光佐が大阪石山城に籠城して織田信長と戦い、謙信に援助を求める。天正四年(1576年)二月、能登七尾城の畠山義隆が家臣の長続連に殺される。三月、越中日の宮城(小杉町)の神保長職の要請を受けて越中に出陣し、高岡市の守山城、氷見の湯山城を攻める。九月、大沢野町の栂尾城、砺波市の増山城を攻略、七尾城を包囲して能登石動城を築き、直江景綱に守備を命ずる。天正五年(1577年)、越中守山城城主神保氏張(毒殺された七尾城主畠山義隆の二男 )が謙信の傘下に入る。三月、能登富来町富来城、中島町熊木城を押さえ、七月には長続連が織田信長に支援を要請する。九月に七尾城、能登末森城を攻略。加賀国に入り、湊川(手取川)で織田信長軍と戦うが、信長軍は湊川の増水の為に退却を阻まれて惨敗する。12月、能登から越後春日山城に戻り、故畠山義隆の妻、三条氏(神保氏張の母)を謙信の重臣北条高広(喜多条)の妻とする。天正五年十二月、領国内諸将八十余人の家臣名簿を作成した。天正六年(1587年)三月十三日には上杉謙信は死去する。同年、神保長職の子とされる神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城する。

【上杉家家中名字尽手本】(抄)
北条安藝守高広(神保安藝守氏張の継父)、河田伯耆守重親、大石惣介芳綱、斉藤下野守朝信、安田宗八郎顕元、吉江清七郎信景、河田豊前守長親、鰺坂備中守長実、吉江織部佑景資、土肥但馬守親信、小嶋六郎佐衛門尉職鎮、神保安藝守氏張、遊佐佐衛門尉盛光、石黒左近蔵人成綱、斉藤次郎右衛門尉信利、寺崎民部佐衛門尉盛永、瑞泉寺、勝興寺、小嶋甚介国綱、寺嶋牛介盛徳、上条弥五郎政繁、直江大和守景綱、長沢筑前守光国、井上肥後守、長与一景連、遊佐美作守続光、三宅備後守長盛、温井備中守景隆、平加賀守尭知、西野隼人佑、畠山大隅守、畠山将監、下間侍従法橋坊頼純、七里三河法橋坊頼周、坪坂伯耆守、……
(奥書)「天正五年十二月廿三日 法印大和尚謙信」(※「新潟県史 資料編3.中世一」)


(※参考「守山城神保氏系図」)

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【検証】 延喜式内社赤丸浅井神社に伝わる後醍醐天皇八宮宗良親王の事(4) !!

2017-09-30 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

「註」これから御紹介するのは浅井神社神官で教員もされていた川人貞良氏の著作の部分である。

[山王村法筵寺の祖先は宗良親王の侍醫であった]
右の証據となる文獻
(其一) 法筵寺旧記
鞍馬寺ハ京都条北鞍馬寺分寺 後醍醐帝第八ノ皇子宗良親王越中川人郷(今ノ赤丸ノ西ノ山ナリ)在居シ玉フ時条北ノ鞍馬寺ヲ分寺シ川人郷ニ轉地ヲ命セラレ一宇建立シテ鞍馬寺ト穪ス眞言宗修験者也(山伏ト云フ)両部神道也  下畧
(其二) 法筵寺寺格昇進ニ付参考書
上畧 往古後醍醐天皇第八之王子越中江御左遷之京都の空なつかしく思召起居被為有之候鞍馬寺と申小堂に而当時も其宮は五位庄庄五十ケ村惣社として修験者坊守仕居候  下畧 
(其三)法筵寺由来書を以法筵寺支配之由来申上候
一 私寺先祖七代以前砺波郡赤丸村鞍馬寺末寺眞言宗にて壽慶と申僧寺領に付而当所に居住仕候下略 
貞享四年四月晦日
右の証據となる口碑
(其一)法筵寺祖先は宗良親王の侍医であって、その人の処方で作った藥は、藥王である。今も全国へ販賣してゐる。
(其二)法筵寺祖先が宗良親王から拝領したといふ大幅古畫三軸を所藏してゐる。左の通である。       
大日如来ノ古仏畫像 壹軸  十六王子古畫像  貳軸
(其三)井波瑞泉寺の本尊彌陀像には「赤丸村鞍馬寺什」とあるが、雲慶の作と見るべきものであると云ふ。法筵寺の本尊も、之に寸分違はないといふ。               
右文獻、口碑で法筵寺の祖先は、宗良親王の侍医であったこと、鞍馬寺の分派であること、赤丸村に居住して居たこと。寺領管理の為現地に移ったこと等が知られる。但し本尊が瑞泉寺のものと同一作か否かは専門家の鑑定を要することである。

[愛宕社と愛山家]
愛山家は宗良親王御勸請七社の一つであるといふ愛宕社の神職であったといふ事は前にも書いたが、それは宗良親王の隨臣であったから、愛宕社の奉仕を仰付けられたといふのである。兎に角口碑以上には無いのである。

[加茂社関係の人々]
舞谷村に越後家があった。これは城ケ平の殿様の守本尊加茂宮の神主として越後から来たものである。それで姓を越後と名乗ったのである。祖先が神主であった証據に冠や笏を藏してゐたが、明治三十年頃栃木縣日光に移住した。其の後東京へ出たと云ふ。又、同村に景安家がある。加茂宮の鍵を預る家柄であったと云ふ。景安は鍵安の宛字だと云ふのである。此の二つの傳説は加茂社が宗良親王の御勸請であると云ふこと、宗良親王が越後から御出になったと云ふこと、越後家が越後から来たことを結びつけて、越後家等は宗良親王の隨身でなかったかと云ふのである。

[石川家] 
赤丸に在住する石川家は數戸に分かれてゐる。その總本家は庄三郎と云って、赤丸七軒百姓の一に数へられる旧家で、代々家宝として茶釜を傳ヘてゐた。「庄三郎の釜、次右衞門の甕(かめ)」と云ふのは当村旧家の相傳宝物の代表とされたものである。次右衞門も七軒百姓の一である。庄三郎、次右衞門共に宗家は北海道に移住した。 笠置の戰に忠死を遂げた石川義純の子孫が宗良親王の従士として越中に留まり、現に名門として栄えて居るのに思ひ合せて、本村の石川の祖先もその一分派ではないかと推察するのである。

以上は宗良親王関係の赤丸浅井神社に伝わる伝承であるが、著作者は戦前に宮内省が「長慶天皇の御陵」確定の為、赤丸村の調査に来た時の窓口となった方であり、宗良親王塚、総持寺千手観音像等の南朝遺跡の調査を各方面で行われた。その結果、昭和十二年に、現在高岡駅南に在る衆徳山総持寺の千手観音像が国宝に指定された経緯がある。
 
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【検証】 延喜式内社赤丸浅井神社に伝わる後醍醐天皇八宮宗良親王の事(3) !!

2017-09-30 | 富山県高岡市福岡町赤丸村



「註」これから御紹介するのは浅井神社神官で教員もされていた川人貞良氏の著作の部分である。

[宗良親王と親王塚と極樂寺]
宗良親王は西五位村馬場の奥 極楽平に極樂寺を御創建あらせられて住み給ひその寺で御示寂になった。そして城ケ平山の親王塚に葬り奉った。その後極樂寺は牧野に移り、更に守山に移轉し、高岡市開發町に第四回の移轉を行ひ、第五回の移轉で現在の高岡市博勞町へ落ち着いたのである。

 これを證する文獻
(其一)五位庄昔噺(安政三年十月 蓑島佐伯泉主著)
第八宮様征夷将軍の御政事當國五位庄吉丘の古府へ下り給ふ 其旧跡は當世馬場村領持山の内字極樂谷と申所に御在院被為在御座候由にて 中畧
極樂寺と申七堂伽藍の寺を御建立有之候て 中畧 其の後森山と申所城下と相成候故其處へ轉地いたし馬場山極樂寺と相唱へ 中畧 高岡御城下と成る其所へ彼森山極樂寺轉地いたし 下畧
(其二)極樂寺靈名日鑑上
上畧 當寺初祖佛眼明心法親王者人王九十六代後醍醐帝第八皇子越中宮 中畧  嘉暦二丁卯年降誕建武年中蒙靈夢一僧來 日准禮修行門開發菩提心皇子公是問誰人示日我是熊野權現矣自比發心志甚修行念深 中畧 安養山極樂寺晝夜不退勤行  中畧 嘉慶元丁卯年 中畧 
三月廿一日持年六十一歳示寂 下畧 
(其三) 肯構泉達録巻ノ十五(文化十二年岡田英之編)
後醍醐天皇ノ第八ノ皇子 中畧 守山ノ奥ニ陵アリ爰ニテ隠レサセ給フ高岡守山極樂寺ハ御菩提所ナリト云フ
(其四)永正拾癸酉年 五位庄加茂村某の古文書 
抑五位庄名目には五位吉岡の庄と號す 中畧 往昔八の宮御遷幸ありてより己來五位吉岡の庄と申續けたり。八の宮の一事は小境大榮寺等の縁起にありと云ふ 下畧
(其五) 明治六年二月戸長五十嵐豊生の山陵地券ノ上ニ書顕可申義ニ付御届 一 親王塚 周十間三分 高九分  巾三間  長三間 舞谷村領山之内
右後醍醐天皇第八ノ王子八宮建武二年舞谷村領江御越御殿ヲ築カセ玉フ所ヲ城ケ平ト相唱申候右塚ゟ下加茂社邊ニ右八宮様御墓ノ由ニ而親王塚ト相唱右塚上ニ杉二本生居テ今繁茂仕居候 下畧
(其六)己酉九月日 痴老記(嘉永二年ニ當ルガ如シ)
極楽谷 馬場村ノ領ニ極楽谷 宮屋敷 芦岡谷ノ地アリ 口碑ニハ極楽谷ハ今ノ馬喰町極楽寺ノ旧地ニテ宮屋敷ハ八ノ宮旧跡ト云フ コノ八ノ宮ハ後醍醐帝ノコノ邦ニ來リ玉シ第五ノ皇子ニハアラサルヘシ 何帝ノ第八ノ皇子ニヤ、コノ芦岡ノ極楽寺ニ潜居ノ時都ノ地名ヲ假ニウツシ玉へ、今モ其ノ名ノ殘アルコト圖ノ如シ 中畧 又云フ モト芦岡ノ庄ナルヲ皇子潜居ノ時京ノ地名ヲウツシ玉ヘシ故ニヨリ五位ノ二字ヲ庄ノ名ニ加ヘテ、五位ヨシオカノ庄内ト呼ビシトゾ
(其七)安政四年五月 新開検地繪圖 親王塚
(其八) 赤丸名勝誌
城ケ平山
傳説には建武二年後醍醐天皇第八皇子比地に御殿を築かせ給ひ御遷殿の御歌に
城かきをきつき八重かき平らかに このうへなきや乗り合ひの里
上句の城平二字を取り城ケ平と名け給ひしとぞ 下畧

(其九)馬場村打立野帳 慶應元乙丑年七月碁盤割鬮畑打立野帳五位組馬場村 極楽上大平三拾部割
これを證する口碑
三日市村藩倉番木村屋老翁の談
藩政時代に上便往來(今の氷見往來)を通る加賀藩士は徒歩する者も駕に乗る者も馬に騎る者も親王塚正面で必ず立止り遥拝したと
 右の文獻及口碑に對する説明  
五位庄昔噺及永正十年の古文書には八の宮とのみあって何天皇の皇子なるか又御名を何と申すか記してゐない。肯構泉達録には後醍醐天皇の第八皇子といひ、靈名日鑑 五十嵐豊生の書上及名勝誌には宗良親王と明記してゐるのであるが 兎に角宗良親王の御在住を傳へて居ることに於いて一致して居るのである。只長光寺痴老の記だけは「八ノ宮ハ後醍醐帝ノコノ邦ニ来リ玉ヒシ第五皇子ニハアラサルヘシ」といってゐる。これは注目すべきことである。後醍醐の第五の皇子とは痴老の考では宗良親王を指すので、第五の皇子にあらざるべしといったのは要するに八の宮は宗良親王ではないと断言したのである。
然し長光寺文書によって、痴老の兄雪象が射水郡牧野村東弘寺の北溟僧鵬に学んだことを知れば、牧野に御潜居遊ばされたと牧野側宣傳を信じ切って居たことは想像に難くない。従って同一の御方が二箇所に同時に御住居になる筈がないと考へるのも無理は無い。そして時に比んなことを記す所を見ると當時五位庄に於ては「八の宮は宗良親王なり」との説が余程強調されて居たことを裏書するものである。
次に極楽寺が宗良親王の御開基であり、更に御菩提所である事は疑ふ余地はないのである。又、極楽寺が極楽谷に在ったことは痴老の記も五位庄昔噺も一致する所で、それは馬場村の打立野帳にも存在を明記されている。極楽寺の記録では、牧野に於て創建されたと云って居るのである。そして昔噺は極楽谷の極楽寺が守山への轉地を傳へ、痴老は馬喰町の移転を傳へて居るに、牧野の事は何れも記して居ないのは不思議であるが、これが浅井神社の所で述べた通の理由とせば五位庄で極楽寺の牧野移転の傳はらぬのも又極楽寺が五位庄から出たことを隠蔽してゐたのも無理からぬことである。
又、親王塚が宗良親王を葬り奉ったものであるといふことは五十嵐豊生の書上に明記してあるだけであるが、故奥田庄次郎氏は泉達録の「守山の奥に陵あり」といふことを解釋して、地形上より見て海岸に近き平野を口とし、之に反して山に入る程奥であるとすれば、城ケ平山は守山の奥といへるし、政治の中心の移動から見て、鎌倉時代から吉野朝前後迠は五位庄が政治の中心であったのが、其の後守山が城下となり、更に高岡城が築かれるに至っては、五位庄は守山の奥と云へるのであるから、城ケ平山の親王塚を指すものであるとの説を立てられたのであるが必ずしも一笑に附する譯には行くまい。又、新開検地圖や木村翁の談話等も好資料ではあるまいか。
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【検証】 延喜式内社赤丸浅井神社に伝わる後醍醐天皇八宮宗良親王の事(2) !!

2017-09-30 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
「註」これから御紹介するのは浅井神社神官で教員もされていた川人貞良氏の著作の部分である。

[宗良親王と淺井城]
一、御入城の文獻・口碑  
宗良親王が、淺井城へ御入城あらせられたといふのには、次の文獻や口碑があるのである。
 これを證する文獻
(其一)越州川人山三社記
上畧 東三十三國者ニ宮有之方此時於越之礪波郡赤丸村營城堙天塹名謂淺井城。
(其二)浪合記
延元二年宗良親王名子貴船山城石黒越中守重行ガ方ニ入ラセ給フ。
(其三)湯原家記
冬十月 歴應元年戌寅南朝延元三年(一三三八年) 宗良親王駿河ヨリ信濃ニ赴キ大河原ニ至テ香坂高宗ノ家ニ寓シ北陸ニ志ヲ南朝ニ通スルモノアリト聞キ微行シテ越中ノ國ニ赴キ石黒氏ノ家ヲ主トシ到處詠歌以テ述懐ス  
(其四)越中勤王史
上畧 福光城主石黒太郎光弘の後裔たる石黒左近太夫將監盛行、今の西礪波郡の木船城に籠り同じく後裔たる石黒次郎光景延元以來同郡浅井城により両士共に吉野朝廷に心を寄せたる勤王の武士であって孰れも宗良親王を奉迎したのである 下畧
(其五)『赤丸名勝誌』
花園天皇の頃より石黒光弘の後裔比地に住して延元中次郎光景比の城にありて南朝のために謀ることあり石黒氏は北條氏を忌みて新川に轉ず。 下畧
これを證する口碑
(其一)浪合記及李花集に見ゆる「なこ」に就いて
浪合記及李花集に見ゆる「なこ」は今日一般に放生津海岸の事の如く解されて居るもそれは誤にて、実は「阿古」なりという。「阿古」は「悪王」の轉化にして、淺井城付近の地名である。往古淺井城附近の地は小矢部川の本流と庄川の分流との合流点であって、眇茫たる一大深淵であった。従って、淺井神社の御神体も漁夫の網に御かヽりになって、その淵からお上りになったといふ。亦、現に淺井城の東南麓に住む一族に阿古下を姓とする者が數戸ある。
(其二)牧野の御遺跡に就いて
思ひきやいかに越路の牧野なる 草のいほりに宿からんとは
との御歌は射水通覧をはじめ諸書に見えているが、新葉集にも李花集にも載っていないもので、実は宗良親王の御歌ではないのである。
そればかりではない。射水通覧をはじめ諸書に載する牧野における親王の御遺跡というは何れも徳川時代末期に虚構されたものである。

「なこ」に関する親王の御歌
李花集  秋歌
越中國なこの浦に忍ひて侍りしに覉中百首よみ侍るとて月を
都にやおなじ空とも眺むらん 我は行衛も浪の上の月

李花集  雑歌
興國三年越中國名古といふところに忍てすみ侍りし頃都へ行く人のありし
便宜にやよひの比にや為定卿のもとへ申つかはし侍し
いたつらに行てはかへる雁はあれど 都の人の事つてもなし
今は又とひくる人もなこの浦に しほたれて住むあまとしらなむ 

李花集七二二
 右の文獻 口碑 御歌に関する説明
茲に掲げた五種の文獻は其の内容から見て三種の系統があるやうである。即ち第一の系統は淺井神社側に古來傳った系統で淺井城御入城の宮様を元正天皇の御代の二宮様とするものである。第二の系統は浪合記並に三州志の傳ふるところで親王をお迎へ申した者を石黒越中守重之としている。第三の系統は赤丸名勝誌並に越中勤王誌で親王をお迎へした當時の淺井城主を石黒次郎光景、木船城主を石黒左近將監盛行としている。而して勤王史は大正十三年に發行されて居り、名勝誌は明治四十三年に發行されて居るのである。従って此の両書には原據があって書いたものであらふが、今何に據って書いたか知る由もないのは残念である。明治四十四年發行の福山壽久著宗良親王には石黒盛行が親王を名子の浦に迎へた事にして居る。ところで、茲に注意すべき事は名古浦が果して放生津海岸であったかといふことである。又、放生津に有力な石黒氏が居り、或は親王を迎へるに足る城地があったかといふことである。實際、放生津即ち今日の新湊町には名子町といふのがあり、其辺一帯を名子浦とも穪して居るといふが石黒氏の居館らしい跡も城地らしい形もないらしいのである。それに引かへ淺井城は後に記するが如き要害の城地であり又木船城は元歴元年福光城主石黒太郎光弘の築いたもので、其の子孫代々の居城とした木船の石黒氏は越中石黒の總本家として榮え、天正九年左近蔵人成綱が織田信長に害せらるるまで續いたものである。
猶 昨年の秋西五位村馬場領の極楽跡を見るに及び宗良親王越中御在住の地は最初は木船城であったかも知れぬが、木船は山城とはいへ平地の中に三大餘の小高き丘あるを利用して築いたもの故然程の要害ではなかった。それ故間もなく淺井城の要害に據られたものであろうと想像した。それが親王の御晩年になると将軍方の勢力がやうやく伸張して淺井城でも支へ難くなったので一層要害の極楽平へ御遷りになったものと思れたのである。
唯 比處に奈古浦が建暦二年の氣比神宮旧記に同社の神領であると記されて居ることで氣比神宮が吉野朝時代に宮方である所から親王は神領を頼って御立寄りになったと唱へられるのであるが、建暦二年から興國三年迠は凡そ百三十年も距って居るので、當時からの情勢が如何であったかは頗る疑はしいのである。殊に元弘の頃は放生津に名越時有の館があり、建武二年には時有の殘黨太郎時兼は西園寺公宗の陰謀に應じて三万余を率いて越前加賀の國境まで押寄せた程の勢力を持っていたである。かく考える時放生津は親王に對しては一種の危地であると見る方が妥當である。尤も後醍醐天皇吉野御潜幸後北條時行は使を吉野に遣はして降り、北畠、新田の諸將に應じ宗良親王無二の忠臣として働いている所より見れば越中に於ける名越の殘黨も親王に對し奉っては然程危険でなかったかも知れないが正平元年には禅恵法師を迎へる準備の出來ている五位庄赤丸村の安全地帯程の事はなかったに相違あるまい。加ふるに口碑其一其二を思ひ合せて牧野地方の御遺跡が文化三年に記された樸館塚記がその先駆をなし、それによって宣傳に努められたものである事を知るに及び愈々その口碑の無稽ではないのではないかと感ずるに至ったのである。あるひはそれが故意の作為ではないにしても、應安應永頃の必要に迫られたる隠蔽及び永い歳月の間の誤傳誤謬から來たものではあるまいか。
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【検証】 延喜式内社赤丸浅井神社に伝わる後醍醐天皇八宮宗良親王の事(1) !!

2017-09-30 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


「註」これから御紹介するのは浅井神社神官で教員もされていた川人貞良氏の著作の部分である。浅井神社に関する加賀藩の裁定等も記載されている。(※「浅井神社裁判記録」は金沢市立玉川図書館に遺されている。)

【赤丸浅井神社の伝承】
[淺井神社と宗良親王]
一、知識引のこと
宗良親王が浅井神社を御崇敬あらせられた事実は第一淺井神社の別当職川人山鞍馬寺をして五位庄内に智識引と稱して毎秋郷内各戸より初穂米を集めしめられた事である。
 これを證する文獻
(其の一)越中川人山三社記
前畧 元正帝時有王子二人不知何帝子名一宮二宮分五畿七道為二省西三十三國者一宮治之東三十三國者二宮有之  中畧  親王亦奇之養老元年某月日下令郡縣立社旦營奉祠七宇  中畧  春秋之釋菜 俗云千石百貫祭 籍其村落之税餘以時勿怠祭祀之禮也 下畧
(其の二)嘉永四年亥 十一月訴状
前畧 淺井神社川人山権現宮江郷下氏子五拾三ケ村ゟ為御神供米毎歳取集来候ニ付当年モ例歳之通檀廻仕候處右村々江清水日向先達而相廻リ鞍馬寺ゟ淺井神社之申分落着被仰渡候ニ付以来鞍馬寺江壹升上ル御初穂米ハ五合宛可致奉納旨申觸候由ニ而心得違之者ハ其意ニ随ヘ指出候者モ在之中ニ□□□ 末タ御郡所□何等之被仰渡モ無之ニ付難指出旨申聞候族モ御座候是等之義ニ付當年収納方減少仕辛痛至極仕候以來右様之義無之様清水日向ヘ被仰渡被為下候様奉願上候 以上 下畧
(其の三)御初穂米神納帳三冊 (但シ安政四丁己稔 元治元甲子年 慶應元乙丑年)
(其の四)天冠山定規日鑑  寛政八辰年正月改之十四代好事者書
前畧 
一、九月事なし 川人山ノ法印来ル十二銅 
一、十月中旬ゟ石動山二上山来石動山ニハ廿四銅ニ限二上山ニハ十ニ銅也
一、霜月ゟ末ニ伊勢之大夫來初穂百銅遣ス事 下畧
(其の五)金沢市妙慶寺文書 
後醍醐天皇第八皇子佛眼上人明心法親王(宗良親王) には南北両朝不和の時北国に下向し越中射水郡牧野村に居させられ伽藍を創建して安養山極樂寺と名づけ自ら開山となられしに勅して禁裏内道場と定めさせ給ひ越中一國に限り一戸毎に玄米一升宛を上納せしめられた 云々     
 右の文献に対する説明
右に掲げた五種の文獻は一見極めて連絡のないものヽようであるが、淺井神社が古來五位の總社として、その別當職たる川人山鞍馬寺が毎年智識引と稱して毎年九月毎戸玄米一升宛を集めた事實と、両朝合一後の五位莊に於ける情勢とより考へる時此の五種の文獻は極めて緊密なものであって、宗良親王と五位庄との關係を明ならしむる鍵であるのである。尤も第五の妙慶寺の文書を發見する迠は、智識引は元正天皇の御代より始まったものと誰もが信じてゐたのであった。否或は智識引の事實はその頃からあったのかも知れないが、此の妙慶寺の文書によって、宗良親王の思召によって創められたか、或は少なくとも宗良親王の思召によって新に確認されたものであることが明らかになったと同時に、極樂寺は五位庄に創建されたものであることも裏書されたのである。其の理由は越中一國一戸毎に玄米一升宛を上納せしめられた事実は射水神社即二上山であって、石動山は北陸道七ケ國毎戸ニ升宛の初穂米を上納せしめてゐた。それ以外にこの種方法で廣い範囲に亘って初穂米を上納せしめたのは川人山のみであると聞いて居る。而も念の為に牧野や極樂寺でかヽる事実があったかと調べて見ると全くないとのことである。然るに極樂寺の分派たる金沢の妙慶寺がかヽる傳説を傳えているという事は、極楽寺が五位庄で創立され、淺井神社奉祀の一寺として、智識引取扱の衝に當った時代もあった證左である。 然らば何故に川人山三社記ではそれを元正天皇の御代とし、妙慶寺の文書では五位庄を越中一國とし更に牧野での事としたか。これは唯一つの理由である。両朝合一の後、五位庄に於ける將軍方の勢力は伸張を來たした。そして宮方の餘類の壓迫を試みたのである。従って淺井城に居た石黒次郎光景の子孫は新川郡に逃れたと傳へられてゐる。木舟城の石黒大炊助重行は應永三十一年長谷大炊助重行と改称して尾張國山田郡神戸に隠れたことは湯原家記に引用してゐる。惣持寺が代地も與へられずして赤丸を追われ、檀家市右衞門の所有地たる現高岡市関町へ移ったのも應永年間といはれてゐる。それに引替えて、永正の頃足利將軍から土地を寄進され寄進状を有する。即將軍方と特殊関係のあったらしい麻生谷の西光寺が西廣谷村に創建されたのが應安元年。 光巌院二ノ宮(後光巌院)のお供をして五位庄に來た藤井左衛尉山成が乗承と名乗って、上宮山太子堂即長福寺の前身を草創したのが至徳元年。 赤松則村の子正則が菩提寺たる雲龍寺を播磨国から五位庄加茂村に遷したのも應永年間らしいのである。要するに両朝合一前後から足利幕府は五位庄に於ける宮方勢力の粉砕に全力を注いだので極樂寺等はその黨類を率いて牧野に移ったのである。従って、元五位庄に居った事を明らかにするのは都合が悪かったのである。その為、前々からの言い傳へを總て移住後の地であったことのやうにしたのである。又従前の地に残った者も、宮方の餘類である事を隠蔽して社寺の縁起等も宮方との関係を全然削除して、鞍馬寺創建當時の御宇及び年號を唱え、只一宮二宮の傳説だけは征西将軍と征東将軍とのことを稍香はせたという程度にしたものと推察されるのである。

二、七末社のこと
宗良親王が淺井神社を御崇敬あらせられた第二の事實は七つの末社を勸請し給ふたことである。その七つの末社といふのは①清水社②愛宕社③加茂社➃山王社➄八幡社⑥北野社➆熊野社の七社である。
これを證する文献
(其一) 三州誌故墟考 
元正帝養老元年同帝ノ二宮御下向此ニ在城シ川人山鞍馬寺ヲ建立ス 加茂 山王 八幡ノ三社ヲ勸請シ別ニ又毘沙門天ノ一社ヲ安置アリ 今ノ赤丸ノ鞍馬寺即チ其旧地ト云フ 景周按スルニ元正ハ女帝ニシテ皇子ナシ 比御宇ニ宮ノ號ヲ未タ唱ヘス 是古來ノ傳承トイヘトモ取ルヘカラス
(其ニ) 明治十二年神社明細帳
1) 大字舞谷村千二百九十八番地字中島 無格社 下加茂社
一、祭神 別雷神
一、由緒 往古舞谷村ハ舞ノ屋ト云ヒ下加茂ノ祭式舞楽之建物アリシト
云フ 舞谷村ニ清水ノ旧地アリ 同村ニ親王塚アリ 天満宮アリ
競馬ノ儀式所トテ村名相殘り 高畠村ニ上加茂社アリ 三日市村ニ八坂社アリ 且第八ノ王子八ノ宮建武二年當地ニ初メテ着スル處ヲ吉岡トテ今ニ村郷名アリ 即チ五位ノ庄内吉岡ト穪ス 比下加茂社祭壇ノ節ハ郷内五ケ村神輿ノ渡御式アリテ往古皇都ノ風景移セシト云フ
2) 大字馬場村七百九十一番地角地 無格社 天満宮
中畧 天満宮建武二年二月二十五日當國江第八ノ王子八ノ宮下向ノ節勸請セリト古老ノ口碑ニ存ス 下畧 
3) 大字赤丸村四千三百九十八番地字山王 無格社 日吉社
中畧 養老元年正月元正天皇二ノ宮當村淺井城ニ在城ノ時西都ノ山王社分霊ヲ鎮座シ建立給ヒシ社ナルヲ以テ  下畧
(其三) 川人山三社記 
上畧 所祭神三社中龕毘沙門天王脇士十一面大士及八幡大神也西厥在赤丸村者ニ社在石堤村者一社 所祭都學清水加茂山王天王八幡 
  これを證する口碑
(其一) 宮様淺井城御在城の時 都を偲ばせ給ひ
かそふれば七とせもへぬ 頼みこし 七の社のかけをはなれて
と御詠歌あらせられ 都の七大社を御勸請し給ふて 浅井神社の末社とし給ふたのである
(其二) 愛山行永氏(愛宕社神職) 談
赤丸村七軒百姓の中に孫次郎在り。孫次郎の祖先は宗良親王御勸請の愛宕社の神職として愛宕山の南 淺井谷の奥 麻田に住し代々太郎坊を信仰した。そしてその面及び畫像を所持して居る。姓を愛山といふのは愛宕山の上下の字を取り用いたのである
(其三) 惣持寺の元境内地に祭られてある熊野社は宗良親王様が御勸請になったもので、古来勸音様と穪えて居った。二三十年前までは毎年壹回惣持寺の住持が參詣にきたものである

宗良親王の御崇敬を裏書する御歌
1) 北野社御崇敬の御歌

李花集 春歌
  百首歌よみて北野の宮に法樂し侍りしに梅を
山里は風ぞたよりのしるべとも 梅が香にほふ頃や知るらむ
  百首歌よみて北野の宮に法樂し侍りし中に帰雁を
帰る雁なに急ぐらん思ひ出も なき故郷の山と知らずや
  北野宮に   
菅原や伏見の暮にたつ雲は 初瀬の山の花にぞありける

李花集 秋歌
  北野に法樂し侍りし百首の中に秋夕を
いづちが心をやりて慰めん 憂きはなべての秋の夕暮
  百首歌よみて北野社に法勸し侍りし中に鹿を
長き夜をあかずや鹿のおのが妻 戀ふれどしるし鳴き明かすらん
  正平(後村上)十二年百首歌よみて北野社に法勸し侍りける中に月を
大空を照り行く月しかこたれぬ 身の光なき秋とおもへば

李花集  冬歌
  北野社に百首歌よみて法樂し侍りし中に水鳥を
沖邉にもよらぬ玉藻のとことはに 浮きて聞ゆる水鳥の聲

李花集  戀歌
  北野宮に百首歌よみて法樂し侍りし仲に忍戀を
いかにせむ瀧津涙のしからみも かけてせくへき袂ならぬを
  北野宮に法樂し侍りし百首歌中に夢中契戀を
はかなしや我身に絲のよるの夢 あふとはすれど現ならねば 李花集五五六
  (比歌新葉和歌集巻第十一に出づ)
 
李花集  雑歌
  百首のうたよみて北野宮に 法樂し侍りし中に述懐の心を
心こそ猶立かへれ年をふる 日なのなかちに物わすれせて
  北野社に法樂せし百首歌中に
いつはりのなき世なればや跡たれて あら人神も君まもるらん

2) 山王社御崇敬の御歌

李花集  秋歌
 浦月 跡たれし日吉の神のかけそへて 月さへすめる志賀のから崎
 日吉を いつくにも照らす日吉の影なれど あらたにすむはひえの山本

3) 八幡社を御崇敬の御歌 
 
李花集  雑歌
岩清水を いはし水にこりにしまぬ心をは 神そあはれと照らしみるらん
   たのもしな神もさこそは岩清水 人のひとゝは思はさるらん
中院准后みて侍りし歌の中に石清水清きながれを慿よりにごらじとこそ思ひそめしかとありしに
  石清水なかれにこらぬわか人の 心をかみにあはれとそ見む  李花集八五八

4) 加茂社を御崇敬の御歌

李花集  雑歌
加茂を そのかみに祈りし末のいかなれば かけはなるらんかもの河浪

5) 七社を御崇敬の御歌

李花集  雑歌
興國三年  越中国にすみ侍りし比羇中百首よみ侍りける歌の中に神祇を
 かぞふれば七とせもへぬ頼みこし ななの社のかけをはなれて

右の文献・口碑・お歌にる説明
右に掲げた三種の文獻の中三州誌故虚考と明治十二年神社明細帳の③日吉社に関するものと川人山三社記とは同一系統の所傳であって、これは淺井神社側に傳へられたものである。又、神社明細帳の①下加茂社②天満宮に関する分はこれは別系統の所傳であって、西五位村三日市青木神職家に傳へられたものである。口碑の其一は口碑であって所傳が明でない。口碑の其二は愛山家の所傳であって、愛山家は早くから帰農した関係上その所傳は弘まらなかったものであらう。口碑其三の前半は赤丸村の所傳で後半は惣持寺側の所傳である。御歌の研究は最近になって私がしたもので之等の傳説が眞なりとせば親王の如何なる御心より發したかを恐れながら肘度*(そんたく)して見たのである。淺井神社側の所傳は常に元正天皇の二宮の御事として、三州誌では加茂、山王、八幡の三社御勸請を傳へ、三社記では熊野社を十一面大士とし、八幡、清水、加茂、山王、天王の六社の御勸請としてゐる。而も天王は天満又は天神の誤記で北野社を意味するものではないかと思われる。八幡を重複させてゐるのは愛宕の誤傳ではないかと思はれる。青木神職家の所傳では建武二年第八の王子八の宮の御事とし、天満宮はその御勸請と明記すれども、上、下加茂社、清水、八坂社等の存在は記しながら、八の宮御勸請とは明記してない。唯往古皇都の風景を移せしといふといって居るに過ぎない。これは文章の不完全か或は意味あっての事か。兎に角多少の錯雑はあるが同一事實を別な立場から傳えて居るものと考へるのが妥當ではあるまいか。只不思議なのは愛宕社は淺井神社の末社として現存して居るに拘わらず何れの文獻にも、親王御勸請の痕跡を認めないことである。又此の七末社御勸請の眞の年代については明確にし難い。然し七の社の御歌が興國三年越中國にておよみのものとすれば、その動機は其の頃からであったに相違ないが、その御完成は何時の事かはっきりしない。想像するに親王御晩年の事ではないかと恐察する。然るに近日、福田莊が妙法院寺領であるという所から、越中に於ける宗良親王の御濳匿地は福田莊であり、「七の社」の御歌は、比叡山山王七社の事を思召され十襌師大明神を祀られた時のものであるとの説を発表された方があったが、同氏引用の文獻には「福田莊外七ケ所の荘園は廿二代の門跡尊教が之を門跡領とせず私領として弟子の實静に譲り實静は之を無品亮性法親王に讓輿したもので、廿四代の門跡であらせ給ひし宗良親王の御管領を經ずして無品亮性法親王に讓られてゐる。」とあり之に就いて種々辯明もされてあるやうであるが、これは文獻の通りであるに相違ない。而も中越史料綜覧縞に引用せる妙法院文書によれば、山城妙法院亮性法親王が、實靜僧正の讓に任せ寺院房舎並に越中福田莊等の寺領を相傳せんことを北朝に奏請せられたのは興国五年七月で、若し、宗良親王が福田莊御在住とすれば、たとえ北朝の御裁可があっても妙法院の為には實益のない譯で、かかる奉請のある筈がないのである。

三、宗良親王が浅井神社の御崇敬あらせられた理由は、當時毘沙門天として且つ、又五位庄に於ける一勢力として御崇敬あらせられたものと想像し奉るのである。
 淺井神社御崇敬の理由の説明
これを詳論するには淺井神社の御祭神と沿革由緒に就いて、文獻を擧げて論證する必要があるのであるが、今はその煩に耐えないから要約して説明する。茂古沼壽氏の説によれば、淺井神社の創建は實に孝靈天皇の御代であるという。度會延經の神名帳考證には御祭神は八河江比賣命であると記してゐる。比れは北陸地方が大國主命の御系統の神々の經營地であるといふことから見て八河江比賣命が祖神として祀られたといふ事はあり得べきことであるといふ點から見ても、又、現鎮座地が太古に於て小矢部川の本流と庄川の分流との合流点即ち川合の地であったという事實に徴しても道理ある説である。猶ほ延喜の兵武に見ゆる川合驛が當社鎭座地に當り川合の草書が川人に轉化して川人大明神の御神號が出来、川人山の山號がつけられたといふ説、八河江比賣命神の別名阿田津比賣神が鈴木重胤の神名考には淺井の神と轉化する道理があるといふのを見ても、淺井神社創立よりの御祭神は八河江比賣命であったと信ずるのである。それが元正天皇 養老元年、或は其の前後に行基菩薩が川人山鞍馬寺を創建して、淺井神社の別當職となったという説と、泰澄大師が淺井神社の南側に草庵を結び、祭器に日の丸をつけて歴代の宝柞を祈って本地毘沙門としたといふ説とそれに元正天皇二宮が御創建になったといふ説があるのであるが、これは神社の創立と鞍馬寺の草創とが混同したものである。従って鞍馬寺草創と同時に従前の御祭神は隠蔽せられて本地毘沙門天として鎮祭したものらしい。然るに明治維新後、神社明細帳調整に當り、深き研究も遂げず書上げたのが現在明細帳記載の御祭神高皇産靈神である。偖て淺井神社祖神にして、水利の神たる八河江比賣命を奉斎した當時から相當崇敬を集めた大社であったから、行基、泰澄等の高僧も着目されたのであらうが、傳説によれば淺井城の南谷を寺谷内と穪へ、北谷を鞍馬寺と穪し、その各所に寺坊相連り、實に四十八坊を數へたといふのである。かヽる時に宗良親王が淺井城御入城とせば、朝威御恢復の一勢力として御利用の為御崇敬遊ばされたのも當然と感ずるのである。又、一面本地毘沙門天は武神として、當時一般の信仰が篤かった事は楠木正成はその父母が毘沙門天に祈って授かった子であるといふので、幼名を多聞丸とつけたといふ傳説でも證明されることであるが、かヽる純粋なる御信仰の上からの御崇敬と見ても決して不合理ではないと恐察されるのである。 

【五畿七道】五畿内七道とは?(初め四畿内七道六十六カ国、明治期に北海道を加え八道八十国となる)
五畿:畿は帝都に近い帝王直轄の地域の事で中国では帝都より四方五百里以内の地を云う。
五畿内とは歴代の皇居が置かれた大和・山城・河内・和泉.摂津の五ヶ国。(和泉が河内から分離される奈良時代までは四畿内)
七道:東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道
北陸道:若狭国、越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国、佐渡国の総称。

【宗良親王の李花集「ななの社」の歌の解釈異論】 
雑歌
興國三年  越中国にすみ侍りし比羇中百首よみ侍りける歌の中に神祇を
 かぞふれば七とせもへぬ頼みこし ななの社のかけをはなれて
⇒この歌は「高岡市史」では「比叡山の十禅寺社」(地蔵菩薩)を祭神とする高岡市の比叡山妙法院領福田庄「荊原神社」に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が参詣された時の歌としているが、「ななの社のかけ」とは比叡山に祀られる七つの神社への「願かけ」と「影」をかけた意味が有り、妙法院門跡、天台座主から還俗された宗良親王が、「父帝の南朝後醍醐天皇の安穏を祈り続けた七つの社も、還俗されて以来七年も経って、願かけもせずに影響、ご利益も受けていない事だなぁ」と嘆息された歌で有り、何も「荊原神社に参詣された時の歌という立証」にはならない。「羇中」とは「たずな、旅」の意味で有り、「馬で旅の途中に思われて」の意味で有り、比叡山座主を退任されてからの戦乱の日々を嘆息された歌で有り、「高岡市史の解釈」は曲解、我田引水の解釈と見られる。

 

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🔷📃📜 桓武天皇・早良親王の姪「五百井女王」庄園➰越中國 國吉名の「東大寺庄園須加庄」の秘密 !!

2017-09-26 | 富山県高岡市









「東大寺庄園須加庄」は、桓武天皇・早良親王の姪の「五百井女王」が東大寺華厳院に寄進された庄園で在った事を示す文書。


「東大寺須加庄」は高岡市の國吉地内に比定され、その位置も四ヶ所が想定されている。この遺跡を縦断して「能越自動車道」が計画され、一帯は史跡調査が行われた。その結果、一帯からは古代の農耕史跡や中世の陶器の破片等が広範囲に出土した。
今日迄、この庄園の成り立ちも分からず、いろいろ推測されてきた。この庄園だけがかつて西山の山裾を流れていた小矢部川沿いで、西山の山裾沿いに立地していたとされている。この辺りには「頭川温泉」がかつて在った事から、「須加」は後に「頭川」となったと推定されている。
東大寺庄園の開発には越中の古代氏族の「利波臣志留志」が広範囲に関わっていた事から、「利波臣」の調査に当たってみた。その資料は滋賀県の石山寺の古文書に一部残されていると聞き、早速、その調査を行った。その資料は「越中国官倉納穀交替帳」と呼び、砺波郡に在った官の穀倉の記録だが、その中には当時の国司や郡司等の役人の氏名が細部にわたり記されている。その中には唯一、東大寺大仏造営の為に米五千石を寄進して国司待遇を受けた「利波臣志留志」の一族の「利波臣」が郡司として数多く記載されている。
この記録は「平安遺文 古文書編 第一巻」に記載されており、更に、この中には他の古文書と共に「東大寺須加庄」の記録と共に 、「東大寺庄園杵名蛭庄の庄長船木弟虫」の名前や、越中国から東大寺への寄進状等が記載されており、「能登内親王」やその娘の「五百井王」が「般若寺」に地代や米を寄進した事も記載されている。
【※『船木弟虫』;伊勢ノ船来直(船木直。船木-伊勢国朝明郡舟木明神祠官。西脇-同郡耳利神社祠官)、船木臣、船木宿祢(舟木、堀内-伊勢国一志郡人。乙部、中村-伊勢人)】

又、驚いた事に、その中の「東大寺東南院文書」の中に「須加庄」が「東大寺」(※東大寺の子院華厳院)に寄進された詳細が記載されている。それによると、この庄園(五町歩)は延暦六年三月廿日に「従四位上五百井女王家から東大寺華厳院に寄進された」と記載されている。又、この時の「庄長」は「川邊白麻呂」で有り、事務取扱は「中宮史生高向諸上」で在ったと云う。この庄園は始めから東大寺の為に開発されたものでは無く、貴族からの寄進に拠る庄園で在った事が判明した。
【当時の出来事】
・延暦4年(785年)9月、「長岡京造宮長官藤原種継」が暗殺される。
「早良親王」(※桓武天皇の弟)⇒藤原種継を嫌って暗殺に加担したとされて廃太子となり淡路へ配流の途中食を断って薨去
・延暦6年 桓武天皇の姪の五百井女王から東大寺華厳院に「越中須加庄」(※高岡市国吉)を寄進(※「平安遺文」)
・延暦7年(788年)最澄が比叡山に延暦寺を創建
・延暦13年(794年)10月22日、新京に遷都。征夷大将軍大伴弟麻呂、戦勝を報ずる。
山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と名づける。
・延暦14年(795年)征夷大将軍大伴弟麻呂ら凱旋。この頃大極殿落成。
・延暦15年(796年)隆平永宝鋳造。
・延暦16年(797年)征夷大将軍として坂上田村麻呂が東北地方の蝦夷を鎮圧
・蝦夷平定後、陸奥国に胆沢城造営、鎮守府設置
・延暦16年(797年)「続日本紀」完成
・延暦18年(799年)この年に「越中国」で大飢饉発生(※「日本後紀 桓武天皇」)
⇒数回も勅使を派遣して物資を送り、僧三百人、沙彌五十人が禁中、東宮朝堂で大般若教を読経した。
・延暦19年-21年(800-802年)、富士山が噴火(延暦大噴火)
【⇒飢饉や火山噴火は早良親王の祟りとして怖れる。】
・延暦22年(803年)陸奥国に志波城造営
・延暦23年(804年)最澄・空海ら入唐
・延暦25年(806年)3月17日、桓武天皇崩御

〇 「古事記」に拠ると、「川邊臣」は『蘇我石河宿禰』の一族である。
⇒【此建內宿禰之子】、幷九。男七、女二。『波多八代宿禰』者、波多臣林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次『許勢小柄宿禰&者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次『蘇我石河宿禰』者、蘇我臣川邊臣田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次…『平群都久宿禰』者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次『木角宿禰』者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次『久米能摩伊刀比賣』、次『怒能伊呂比賣』、次『葛城長江曾都毘古』者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又『若子宿禰』、江野財臣之祖。(古事記)


●五百井(イオイ)女王 ; 生年不詳 - 弘仁8年10月10日(817年11月22日))は、平安時代前期の皇族で女官。叔父桓武の朝廷等で高級女官として活躍した。 摂津大夫市原王の子。
母は能登内親王→[母は高野新笠。桓武天皇の同母姉。天智天皇皇玄孫(四世王)の市原王に嫁し、五百井女王、五百枝王(後に春原五百枝)を生む ]
兄弟に春原五百枝(五百枝王)。従二位、尚侍。母は光仁天皇の皇女。天応元年(781年)8月、二世王の待遇として同母兄弟の五百枝王と共に無位から従四位下に叙される。延暦3年(784年)11月には従四位上に昇叙。兄弟の五百枝王は延暦4年(785年)の藤原種継の暗殺事件に連座して伊予国に配流されたが、五百井女王はそのまま宮廷に残ったらしく、延暦13年(794年)平安京に家屋新造のため国稲を賜る。延暦15年(796年)7月に正四位下に昇叙。延暦19年(800年)1月、桓武天皇が五百井女王の庄に行幸。大同元年(806年)、尚縫。大同3年(808年)11月従三位。弘仁4年(813年)1月正三位。弘仁6年(815年)7月従二位に昇る。弘仁8年(817年)、薨去の際の官位は尚侍従二位。
●「般若寺」;般若寺は東大寺大仏殿や正倉院の北方に有り、聖武天皇が伽藍を建立されたと伝わる古寺。コスモス寺と呼ばれる。
・「平安遺文 古文書編 三八」『五百井女王家施入状』
尚侍従二位五百井王家 白米肆斛 右故能登内親王去寶龜十一年以品田壹町地子、奉入般若寺佛御供養䉼(=料)、而忘漏、未奉其實、仍今追一箇年之地子代奉入如件、
弘仁六年十月廿五日少書吏大初位下杖部路忌寸「道麿」
●早良親王;桓武天皇、能登内親王の同母弟。延暦4年(785年)、藤原種継暗殺事件に連座して廃され、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死したとされる。親王は東大寺の良弁等の信頼が厚く、東大寺の運営にも関与した様で、桓武天皇の皇太子となったが天皇にはなっていない。(※『東大寺華厳別供縁起』) 早良親王が亡くなると、様々な不幸が続き「憤死した早良親王の怨霊の仕業」と怖れたと云う。五百井女王 が東大寺華厳院に「須加庄」を寄進したのは、この早良親王と東大寺の親密な関係が有り、怨霊として怖れられた早良親王の供養の為で在ったか?
⇒元、越中国司として赴任していた「大伴家持」は、この「藤原種継暗殺事件」に大伴一族の者が関わっていた事からこの事件の主謀者とみなされて、死亡後で在ったにも関わらずその葬儀も許されず遺体は塩漬けにして放置され、資産は没収された。しかし、後にはその名誉回復が為され、資産も一族に返還されたと云う。



◎高岡市國吉地区の一画にある柴野地区に「八幡神社」が有り、この神社の由緒に「往昔、陽知之郷の中心地であった。 」と記載されている。この「陽知」は奈良時代の初期庄園の名前で有り、この少し小矢部川上流の地域は「砺波郡河合(川人)郷」(赤丸浅井神社周辺)がある。天平15年(743年)に「墾田永年私財法」が発布され、貴族や寺院に拠る大規模開発が進んだ。砺波郡には「河上、八田、河合、拜師、長岡、大岡、高柳、陽知、三野、意悲、大野、小野」が有った。「赤丸浅井神社」は聖武天皇の弟の「石川朝臣広成」(※後に高円朝臣となる)が開いたとされる。
[※ 続日本紀巻第廿二 《天平宝字四年(七六〇年)二月壬寅【壬辰朔十一】》○二月壬寅。従五位下石川朝臣広成賜姓高円朝臣。]

越中の東大寺庄園跡は「八幡神社」が多く勘請されている様だ。之は聖武天皇が東大寺大仏造営の時に宇佐八幡宮が積極的に支援してくれた事に感謝して、東大寺に宇佐八幡宮を勘請した事に始まる。
又、「平安遺文 古文書編第一巻」の「内閣文庫所蔵文書68、69」には「砺波郡大野郷井山庄邊並 宇治虫足之保者」として、「利波臣志留志」が東大寺に寄進した「井山庄100町」は「砺波郡大野郷」に在った事が記載されている。

〇「平安遺文 古文書編第一巻 東南院文書」
『東大寺封戸荘園并寺用帳 天暦四年(951年)』
越中国田七百卅九町七段百八十歩
礪波郡狩城庄田百町 石粟庄田百廿町
射水郡須加庄田五十六町七段二百九十四歩 俣(クラ)田庄田百卅町八段百九十二歩 成(鳴)戸庄田五十九町八段百卌歩 鹿田庄田卅町三段二百歩

⇒「狩城庄」;伊加流伎(いかるぎ)庄--砺波市柳瀬、下中条方面。現在の庄川本流の下も含む。12世紀には狩城庄。現在の砺波インター周辺。近くに比売神社が在る。





(※「古代砺波の地方豪族」米田雄介、「平安遺文 一巻」、「越中石黒系図」等から編集)
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🔴🌅越中吉岡庄と源頼朝・義経・範頼⇒熱田神宮藤原氏と藤原北家!河内金剛寺過去帳!

2017-09-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

上「源頼朝」 下「源義経」




能登守平教経に追われる源義経 「越中吉岡庄」(後の「五位庄」)に在る「五位庄五十三ケ村総社延喜式内社赤丸浅井神社」に掲額される「義経・弁慶主従」

現在の「五位の渡し」跡。(「義経記」では「二位の渡し」!)



「越中吉岡庄」と呼ばれた富山県高岡市福岡町赤丸村は平安~鎌倉期に藤原氏や平家、源氏の諸将が関わった庄園である。「白河天皇」の時に上賀茂神社の庄園となり、次いで藤原北家の「摂関家藤原頼長」の庄園となった。保元の乱の後は「後白河上皇」の庄園となり、その後も「後鳥羽上皇」から「後醍醐天皇」迄、皇室の庄園として続いた。この「越中吉岡庄」に関しては、源頼朝の「地頭吉岡成佐の不法事件に関する書状」が「吾妻鏡」に残され、弟の義経の奥州下りを書いた「義経記」には「五位庄の二位の渡しで弁慶が義経を打擲したいわゆる勧進帳の場面」が記載される。

「源氏」と因縁の深い熱田大宮司一族の「藤原季範 トシノリ」とその弟の「藤原(高倉)範季」は、源氏の三兄弟にとっては大恩人であった。源義経の異母弟の源範頼も幼年期には彼等に養われたと云う。「藤原範季」は、後白河上皇の時に諸国の受領を歴任して摂政九条(藤原)兼実の家司も務めたが、1179年(治承3年)には平家の反乱で陸奥守を解任され,1186年(文治2年)には源頼朝から源義経を支援していたと嫌疑をかけられて役職を解官されたが、後鳥羽天皇の養父母として養育し、「承久の乱」でこの一族は大きな影響を受けた。

平安時代に、祖父を敦家,父を敦兼,母方の祖父に顕季等の管弦奏者を排出した家系に藤原季兼と云う人物がいた。季兼は崇徳上皇の時に正四下備後守として昇殿を許され、管弦奏者を勤めた。「保元の乱」の戦後処理が行われた後の保元3年(1158年)正月廿一日、後白河天皇の時に久しく絶えていた仁寿殿での詩歌管弦の宴が開かれ、その時に季兼が「篳篥ヒチリキ」を演奏し、又、鳥羽法王が石清水八幡宮に参詣された時に法王自ら笛を吹かれ、その時に備後前司藤原季兼が「深山には 霜降るらし 外山なる まさきの葛 色づきにけり 色づきにけり」と「神楽歌庭燎(庭火)」を歌った記録が「古今著聞集」に残されている。季兼は後白河天皇が皇子の時から後白河が好んだ「今様」の指導者であったとも云われる。(※「梁塵秘抄口伝集」)
季兼が尾張国の目代をしていた時に代々、熱田神宮の神宮大宮司職を勤めた尾張氏(尾張国造の子孫)の娘の尾張職子を妻としてその子の季範が産まれた。尾張員職の代の永久2年(1114年)に外孫の藤原季範に熱田神宮の神官職場を譲ったが、以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原氏の世襲になって、本家の尾張氏は副官の権宮司に就いた。
[※名古屋市熱田区の「熱田神宮」の西門前にある浄土宗「誓願寺」(愛知県名古屋市熱田区白鳥2丁目10)には「右大将頼朝公誕生舊地」の碑がある。季範の別邸跡とも云われるが、藤原季範の女の由良御前がここで頼朝を出産したと伝えられる。]

久安年間(1145年~1150年)に後白河上皇に仕えた源義朝は熱田大宮司「藤原季範」(初代藤姓熱田大宮司)の娘「由良御前」と結婚して 頼朝、希義、坊門姫の三子をもうけた。源頼朝は,1147年(久安3年)に義朝の三男として現在の熱田区旗屋で生まれたと云う。
当時、熱田大宮司家は、男子は後に後白河院の北面武士が多く、女子は後白河院母の待賢門院や姉の統子内親王(上西門院)に仕えた女房がいた事から、待賢門院や後白河院・上西門院に近い立場に在った様だ。由良御前自身も上西門院の女房であったともされる。
『保元物語』に拠れば、保元の乱 [保元元年(1156年)]においては由良御前の実家熱田大宮司家は義朝の軍勢に兵を送って援護したとされる。平治元年12月9日(1160年1月19日)の平治の乱の9ヶ月前に由良御前は死去した。平治の乱では源義朝が敗死し、頼朝は伊豆国に配流された。一方、義朝と常盤御前の間に生まれた義経は母の常盤と共に敵将の平清盛に引き取られ、常盤は清盛との間に女子(後の廊の方)を産み、常盤はその後、奥州藤原氏の政治顧問をしていた一条(藤原)長成(父は白河院・鳥羽院の近臣であった参議藤原忠能)と再婚し、義経は鞍馬寺に預けられた。平清盛と常盤の間に生まれた妹(廊の方)は後の後醍醐天皇に繋がる先祖となり、その法名は高岡市の衆徳山総持寺の千手観音像が伝来した「女人高野 河内金剛寺」の過去帳に残る。この寺は、越中倶利伽羅谷の木曽義仲と平家との戦いに平家側として戦い戦死した右馬允源(三善)貞弘が創建した寺である。
⇒(※義経は文治5年「1189年」に奥州平泉で頼朝に殺害される。)
又、池田宿(磐田市)の遊女と義朝の子で義経の異母弟の範頼は1150年父を源義朝、母を池田宿の遊女として産まれる。その後、熱田大宮司藤原季範の娘の由良御前(源頼朝の母)に密かに京都で養育された。更にその後、藤原季範の弟の勘解由丞季成(藤原季成)が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村蒲御厨)で養育されて「蒲冠者」と呼ばれた。源範頼は育てられた範季の一字を受けて「範頼」と称したとされるが、その生涯は定かではない様だ。源頼朝の旗揚げに駆けつけ、当初は小山朝光の後陣を勤めたが、やがて兄の義経と共に、木曽義仲との戦いや壇之浦の平家との戦い等で活躍して埼玉県の比企に舘を構えた(埼玉県比企郡吉見町大字御所)とされる。この地は頼朝の乳母の「比企の尼」の所領だったが、比企氏に庇護されてこの地に一族が住んだと吉見町に伝わる。一説には、範頼は1193年に頼朝から謀反の疑いをかけられて伊豆修善寺に幽閉され、やがて侍所所司梶原景時の軍勢に殺害され、比企の尼の取り成しで助けられたその子孫の生き残りが吉見に住み「吉見氏」を名乗ったと吉見町では云われている様だ。
源範頼と吉見氏については具体的な資料を確認していないが「吾妻鏡」に吉見氏が登場する。
(※「吉見氏」は、南北朝の頃に能登で繁栄した「能登吉見氏」との関係は定かではない。又、「吾妻鏡」には畠山重忠の代官が不法を働き、重忠の所領「伊勢神宮沼田御厨」が吉見次郎頼綱に与えられており、源範頼の子孫が「吉見氏」を興したと言うのは別系統と見られる。
【「吾妻鏡」文治三年(1187年)十月大十三日庚辰。依太神宮神人等之訴訟。被召放畠山次郎重忠所領伊勢國沼田御厨。被宛行吉見次郎頼綱。仍於重忠者。雖召禁其身。申不知子細之由。頗有陳謝歟之間。厚免已畢。至當御厨者。賜他人之旨。被仰神宮之上。員部大領家綱所領資財等。任員數可沙汰付本主。雖向後。於彼邊。可停止武士狼藉之趣。令下知山城介久兼給云々。】) ※ 畠山重忠の代官の不法を伝える記事。

義経の異母弟源範頼は藤原季成に養育され、その娘の藤原成子は後白河上皇に嫁して守覺法親王・以仁王を生む。 源義経が奥州に落ち延びた時に守覺法親王は背後で支援したと云う。親王は福井県の「久河北荘」(※旧吉田郡河合村・森田村→この庄園は九頭竜川以北の大荘園で古代の足羽郡川合郷の名を継いで「河合荘」とも言われた。)を所有していた為に、越前大野の平泉寺に参詣した義経主従にとっては安全な道筋であったのだろう。
[※この庄園は藤原頼長の縁者の仁和寺相応院の僧「隆憲」が仁和寺御室の守覚法親王に寄進した所領がその前身となり建久元年に見作田(現在耕作される田。見=現)60町が二品守覚法親王の「親王家領」となった。]

熱田大宮司を継いだ「藤原季範」は号を千秋と称し、以後「千秋家」を名乗る。
弟に範季がいる。子に従二位権中納言範光(1155年 - 1213年)や後鳥羽天皇の乳母で権勢を誇った範子・兼子姉妹がいる。叔母(能兼の妹)は源頼政の母。
藤原季範は儒家の家に生まれ、学者として知られたが、父(能兼)が保延5年(1139年)に死去した時に10歳の弟範季を引き取って養子にした。永万元年(1165年)に兄季範が死去すると、残されたその幼い子供達は範季に引き取られて養育された。範季が高倉天皇の第4皇子の尊成親王(後の後鳥羽天皇)の乳母父となった事から、藤原範兼(藤原南家貞嗣流、平安後期の歌人、父方の叔母は源頼政の母)の娘の藤原範子・兼子らも乳母として親王に仕え、後鳥羽天皇即位の後には一族は権勢を振るった。藤原範子と法勝寺執行能円の子「在子」は源通親の養女となり、後鳥羽天皇の子(為仁親王、後の土御門天皇)を産んだ。後鳥羽天皇の乳母藤原範子の叔父の「藤原(高倉)範季」(藤原南家高倉流の祖。後白河法皇の近臣。順徳天皇の外祖父。熱田大宮司季範の弟) は後鳥羽天皇の育ての親であり、平教子との間に藤原重子をもうけたが、その藤原重子は後鳥羽天皇との間に、順徳天皇と二人の皇子を産んでいる。
藤原範子の妹の兼子は後鳥羽天皇の摂政九条兼実の妻となり、その娘の藤原任子は後鳥羽天皇の中宮となる。しかし、中宮任子は昇子内親王しか産めず、男児が生まれなかった。「在子」と密通した養父の「源通親」は在子の子の為仁親王(土御門天皇)を即位させようと企み、九条兼実を失脚させ、弟の天台座主の慈円も失脚させた。この事態で、中宮任子も止むを得ず内裏を去った。

正治2年(1200年)源通親死去。通親が養女の在子と密通した事から後鳥羽天皇の寵愛は失われ、藤原(高倉)範季の娘重子への寵愛が深まったと云われる。
藤原 重子[寿永元年(1182年)]は初め、名を範子と言ったが、建久6年(1195年)頃に女房として内裏に上がる際、後鳥羽天皇の乳母である藤原範子と同名であった為、重子(二条局)と改名した。後鳥羽天皇の寵愛を受け、建久8年(1197年)9月、16歳で第2皇子守成(順徳天皇)を産む。翌建久9年(1198年)12月、従二位に叙せられる。鎌倉時代前期の後鳥羽天皇の寵妃で順徳天皇の母。藤原南家高倉流・藤原(高倉)範季の娘。母は平家一門の平教子。院号は修明門院。後鳥羽天皇の乳母・兼子(卿局)は義理の叔母。元久2年(1205年)5月、父の範季が薨去。正治2年(1200年)9月、卿局(藤原兼子)の邸で雅成親王を出産。後鳥羽天皇の寵愛著しく、後宮で栄華を誇ったが、承久3年(1221年)6月、後鳥羽上皇が順徳上皇と共に鎌倉幕府打倒の兵を挙げた承久の乱が起こる。40歳で好調な人生は暗転する。幕府に敗れた後鳥羽(隠岐配流)・順徳(佐渡配流)両上皇、雅成親王(但馬配流)は配流となり、重子の同母弟の範茂は首謀者として幕府方に処刑された。幼い孫の仲恭天皇は廃帝とされた。坊門信清の娘の「西の御方」は隠岐にも同行したが、重子は女院という身分から上皇に同行する事が許されなかった。1221年同7月、後鳥羽上皇の出家に伴い、重子も上皇と同じ道助法親王(後鳥羽と西の御方の子の長仁親王)の受戒を受けて落飾し、法名を法性尼と称した。
【※「道助法親王」;(建久7年10月16日(1196年11月7日) - 宝治3年1月15日(1249年2月28日)、1206年(建永元年)仁和寺の道法法親王により出家・受戒。1212年(建暦2年)に伝法灌頂を受ける。道法法親王の没後の1214年(建保2年)、仁和寺第8代門跡を継ぐ。父後鳥羽上皇の為、承久の乱の時には祈祷を行い、父の後鳥羽が隠岐に流される事になった時に出家されるに際し、その戒師を勤めた。道助は乱の処罰を免れたが、幕府の意向で後堀河天皇の実兄の道深法親王に仁和寺を譲り、36歳で高野山に入られた。】

藤原重子はその後、順徳上皇の子供達を養育し、後鳥羽院の母七条院を労った。
延応元年(1239年)に後鳥羽、仁治3年(1242年)に順徳院が崩御。重子は、七条院や兼子(卿局)の荘園や財産を引き継ぎ、朝廷に要請して後鳥羽院の菩提を弔うよう取りはからった。後年、明恵上人に帰依する。

●「越中吉岡庄」は 後白河上皇により蓮華王院に寄進され、正応3年(1290年)には未だ蓮華王院領であった記載が「鎌倉遺文」に残されている。
【(正応3年8月※1290年)8月晦日、濫妨候了、又知行分蓮華王院領越中国吉岡庄役夫工米者、自蓮華王院…】(※鎌倉遺文23━32)(※東大寺文書四ノ十二 相良迎蓮書状)
※正応年間(1288年~1292年)→この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。

●元、越中吉岡庄の赤丸村に在った高岡駅南の「衆徳山総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」が伝わったとされる高野山近くの「河内金剛寺」には皇室関係の多くの法名が残されている。この寺は小矢部市の倶利伽羅谷の源平合戦で平清盛配下として戦って亡くなった源(三善)貞弘が創建した寺であり、元々、越中とは縁の深い寺院である。

【※「河内国 金剛寺 過去帳」記載の法名 抄】
*鳥羽太上法王、 *美福門院得子(鳥羽中宮)、 *近衛院(上皇)、 *後白河院(上皇)、 *二條院(上皇)、
*八条尼御前;子内親王、鳥羽天皇の皇女で、母は美福門院(皇后・藤原得子)、近衛天皇は同母弟、崇徳・後白河両天皇は異母兄、甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。以仁王は八条院の猶子、甥の二条天皇准母、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)等を養育、以仁王(後白河皇子)は八条院の猶子、天皇勅願所として栄えた富山県と石川県の県境に位置する「石動山石動寺」は後白河上皇の荘園であり、上皇はこの荘園を邸内に有った「長構堂」という寺の費用を賄う為に寄進しているが、「石動山石動寺」(※復興後は勧修寺派「天平寺」となる。)は興国二年に足利氏により復興される前には河内金剛寺と同じ宗派の「御室仁和寺派」であったと云う。後白河法皇と皇女八条院は、承安元年(1171年)に河内金剛寺の金堂・宝塔・御影堂・鐘楼・食堂・中門等を建立した。越中 高瀬庄は八条女院領となる。 後白河上皇は石動山を長講堂領として所有していたが、その後この地は寵妃の丹後局の子の宣陽門院に譲られ、源通親がその別当に任じられた。(源通親は仁安3年1168年加賀介を兼任。安元3年1177年加賀権介を兼任。正治元年1199年内大臣。--と加賀に関する役職を歴任している。)
*三條宮(高倉宮以仁親王)、 *仁和寺宮(守覚法親王)、*藤原氏北政所(藤原兼子)、 *前関白殿(九条兼実)、 *宣秋門院(任子)、 *右大将家征夷将軍源二位殿(源頼朝、卒53才)、 *尼能登殿(能登守平教経の妻→能登殿は平家物語の有名な義経八艘飛びの場面で義経を追った平家の武将) 、 *女廊御方(平相国女生母常葉女*常盤)、等】

【※「長講堂」;後白河法皇が六条西洞院にあった法皇の御所の六条殿に寿永2年(1183年)頃に建立した持仏堂が元であったとされる。】




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🔘 富山県の「吉岡庄」(赤丸村)と「奥州平泉」との関係ー【藤原頼長と源義経】!!

2017-09-24 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

「延喜式」では、赤丸浅井神社の山裾にあったと云う川合駅(川人駅)には駅馬が五疋配置されていたと云う。

藤原基成の父の従兄弟は義経の母の常磐御前が再婚した一条長成で有り、基成の娘は藤原秀衡の正室であった。

■「越中吉岡庄」は元々、藤原摂関家長者・左大臣藤原頼長の庄園で在ったが、崇徳上皇・藤原頼長 対 後白河上皇・源義朝・平清盛の戦いに成った「保元の乱」で頼長が敗れて、後には後白河上皇の「後院領」と呼ばれた庄園と成り、以降、後鳥羽上皇~後醍醐天皇迄天皇家庄園として伝領した庄園である。
藤原頼長は藤原摂関家の長として全国に29庄の庄園を保有していたとされる。この中には、越中吉岡庄、能登一青庄の他、東北には配下の奥州藤原氏に管理させていた5ケ所の庄園が在った。現在の宮城県には高鞍庄(栗原郡)・本良庄(本吉郡)、山形県には大曽根庄(東村山郡)・屋代庄(東置賜郡)・遊佐郡(庄内地方)の庄園が藤原家の庄園として在り、これ等は父の関白忠実から久安四年(1148年)に頼長に譲られた庄園であると言う。藤原頼長の日記の「台記」には仁平三年(1153年)に奥州藤原氏の基衡との税率の変更についての記録が在り、奥州から金25本を金55本に、その他の馬、布、細布、漆、鷲羽根、水豹皮等を5割り増しにした事が記載されている。これを見れば藤原頼長の厳しい徴税の実態が分かるが、越中吉岡庄に於いても同様で在ったと見られる。奥州の五庄は寄進系の庄園と見られているが、越中吉岡庄についても藤原氏である越中石黒氏からの寄進系の庄園とも見られ、吉岡庄は白河上皇が上賀茂神社に寄進されて以来、藤原氏の越中石黒氏の庄園と成りその石黒氏が寄進したものと見られる。

◎「浅井城跡」; 赤丸村に在り。孝霊天皇の第三皇子彦刺方別命の五世孫某砺波臣の姓を賜り(古事記)その後裔累世此地方を領して此処に居舘せり⇒「利波臣」は奈良時代に郡司を務めた越中の豪族で有り、「石黒系図」ではその名跡を継いだのは「越中石黒氏」で在り、「花園天皇の頃から石黒光弘の後裔此地に住し延元中石黒次郎光景此地に城を築きて南朝の為に謀りし事あり興国三年宗良親王を奉迎せり。」とされる。(※「富山県西礪波郡紀要」砺波郡役所発行)


(※「武者の世に」集英社 参照)


義経が福井の「平泉寺」、赤丸村の「二位の渡し」(五ゐの城)を経由した背景を考えてみる。
奥州平泉の藤原秀衡は福井県の平泉寺に鐘を寄進した記録があると伝えられ、奥州との関係が深かったようだ。又、勝山市の平泉寺は白山登山の福井側の登山口に当たり、昔は相当の数の比叡山の系統の僧兵がいたと伝わる。「義経記」を読んでみても弁慶は元々、熊野修験道の僧であり、修験道を中心とした両部神道の寺社の情報は熟知していたものと見え、義経が平泉寺参詣を希望してもアッサリと承諾している。修験道の勧進僧に姿を変えての潜航は、元より日本海側には白山、立山等の修験道のメッカが有り、熊野から白山、立山の麓には両部神道の寺社が展開していた事が背景に有ったようだ。義経の義理の父で常盤御前の再婚相手の「大蔵卿一条長成」が奥州藤原氏の親族で有り、後白河上皇の娘と称する者が平泉に居た事もあってか義経は逃亡先を奥州平泉に定めた。後白河上皇の親王で高野山とも密接な仁和寺宮守覺法親王(母は藤原季成の娘)や藤原範季が密かに義経の支援をし(吾妻鏡第三巻 文治二年十一月*1186年)、又、後白河上皇の親王の静恵法親王が修験道本山派の聖護院に入寺され聖護院が門跡寺院となって全国に二万余りの末寺を抱える大集団で有った事も有り、全国の高野山系、聖護院派系の寺社は義経主従にとっては比較的安全だと考えたものと思われる。

後白河上皇の皇子の仁和寺宮守覺法親王の母は「藤原季成の娘」である。
【 源範頼;源頼朝、源義経の異母弟、蒲冠者、参州、三河守】の背景を調べると、源範頼は
・1150年父を源義朝、母を池田宿の遊女として産まれる。
・熱田大宮司藤原氏[由良御前(源頼朝の母)]が密かに京都で養育。
・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟[勘解由丞季成(藤原季成)]が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育されて「蒲冠者」と呼ばれる 。
・源頼朝は,1147年(久安3年)に源義朝の三男として現在の熱田区旗屋で生まれた。母 は,熱田大宮司の藤原季範(としのり)の娘「由良御前」である。
⇒源義経の義弟の源範頼は藤原季成に養育され、その娘は後白河上皇に嫁して守覺法親王を生む。この関係があったからか、守覺法親王は背後で源義経が奥州に落ち延びた時に支援したとされる。守覺法親王は福井県の「久河北荘」(旧吉田郡河合村・森田村)を所有したが、この庄園は九頭竜川以北の大荘園で古代の足羽郡川合郷の名を継いで「河合荘」とも言われた。藤原頼長の縁者の仁和寺相応院の僧「隆憲」が仁和寺御室の守覚法親王に寄進した所領がその前身となり建久元年に見作田(現在耕作される田。見=現)60町が二品守覚法親王「親王家領」となった。この庄園は義経が平泉寺に参詣する時の安全な経由地であったと思われる。

しかも、越中に入り、小矢部川の船下りルートの渡船場が在った「越中吉岡庄」(後の五位庄赤丸村)は「保元の乱」の後に後白河上皇の荘園となり、頼朝の配下の地頭「吉岡成佐」が配置される前は、保元の乱で敗れた藤原頼長の所領であった。奥州平泉に五か所の荘園を持ち奥州藤原氏に荘園を管理させていた藤原氏長者の藤原頼長は元々、越中吉岡庄、能登一青荘の領主でも有り、直前まで奥州と越中、能登には同じ領主の国が展開していた。源頼朝の家臣の畠山氏や義経の正妻の父の川越氏は同族の秩父平氏であり、義経の逃避行に同行していた川越氏の娘に対しても温情が在ったものか? 畠山重忠や義経の正妻の父の河越太郎重頼は元々、頼朝の旗揚げに参加した後家人で幕府の功労者であったが、頼朝と義経が不和になった一件で同じ様に清盛と戦った義経が敵に成り、しかも、河越太郎重頼の娘と義経の仲人は頼朝と云う複雑な事になった。畠山重忠は義経の愛妾の静御前が頼朝の面前での舞を強いられた時にも不憫に思い自ら鼓の打ち手を希望したとされる。頼朝が地頭吉岡成佐を配置する以前には、壇之浦の戦いに義経軍に従軍して戦功を挙げた「石黒氏の縁者の加賀の林氏」が一時期、越中を治めたと云う。(※「林一族」寺西艸骨著) 当時の越中の責任者が義経のお陰で配置された加賀の名族「林氏」であった事から、越中ではその同族の石黒氏、宮崎氏等が支援し、加賀では林本家と冨樫等の同族が背後で支援したものと見られる。又、石黒氏は福井県の敦賀を発祥として、福井県には三国等も同族を先祖とした地域だ。源頼朝の厳命にも関わらず、義経の行方が分からなかったのは、こうした背景があったからだ。強大な山伏集団を抱えた越前平泉寺には奥州の藤原氏が梵鐘を寄進する程親交があり、石川県では林氏の本拠地の鶴来に在る「白山比咩神社」は平泉寺白山山伏を大量に抱えていた。北陸路は熊野→白山→奥州羽黒山に通じる「修験の道」であり、山伏に扮した義経一行は、英雄としての義経への畏怖と幅広い人脈に大いに助けられていたと見える。「吾妻鏡」には「以前として義顕(義経の事)の消息が知れない」と再三にわたり、記述されている。
この様な背景から、「聖護院派山伏」の赤丸浅井神社の鎮座する「越中吉岡庄」に対する義経の警戒感も鎌倉幕府の領域を通過する関東近辺よりも比較的に少なかったと思われる。「義経記」に拠ると、数回の危険な関所対応を割と簡単に行っている。弁慶の機転とされているが、北陸道各地の義経主従に対する同情と前記の様な背景があって各地の関所を通過したものと考えられる。
(※義経の正妻の父の河越太郎重頼は、義経の探索が進まない事から頼朝に誅殺され、畠山重忠は力強い畠山氏を警戒した北条時政によって騙し討ちされる。秩父平氏畠山氏の後には北条義時の計らいで政子の娘(重忠の妻)が源氏の足利義純と再婚して、「畠山」の名跡を継ぎ、以降は源氏系畠山氏になった。室町時代に管令となり、河内、紀州、越中、能登を領した「畠山氏」は源氏の足利氏一門。)
(※源範頼:源頼朝、義経の腹違いの弟。遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(カバノカジャ)、蒲殿と呼ばれる。藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼして戦功を挙げ、源氏一門として鎌倉幕府に於いて重臣となったが、後には頼朝に謀反の疑いをかけられて誅殺された。)

●「蒲村」は現在の浜松市に合併している。旧区分(遠江国浜松郡)では地図上のNo50が該当する。浜松町はNo11。(Wikipedia参照)

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📄📘📖 信西の孫『小督』の妹は長谷部信連の妻⇒長氏と五位庄赤丸村!!

2017-09-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸







「平家物語」の冒頭を飾る「長谷部信連」は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将で能登の国人長氏の祖である。
長谷部信連は胆勇を誇った人物で滝口武者として強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられ、後に後白河上皇の皇子の以仁王に仕えた。治承4年(1180年)に以仁王は源頼政と謀って平氏追討の計画を進めていたが、計画が発覚した時、長谷部信連は以仁王を三井寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するも検非違使の源光長に捕らえられ、後に平宗盛に詰問されるが屈する事なく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。『平家物語』巻第4「信連」に拠れば平清盛はその勇烈を賞して信連を伯耆国日野郡に流した。平家滅亡後、源頼朝は以仁王の遺臣の信連を安芸国検非違使所に補し、能登国珠洲郡大家荘を与えた。信連の子孫は能登の国人として存続し、長氏と称し能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。加賀前田家に仕えて後は知行所として越中国五位庄赤丸村を与えられた。(※「吾妻鏡」、「小矢部市史」)
越中国五位庄赤丸村は保元の乱[平安時代末期の保元元年(1156年)7月)]の前は藤原摂関家藤原氏長者藤原頼長の所領の「越中吉岡庄」であったが、後白河上皇と信西の企てで藤原頼長は崇徳上皇をお守りして戦う事になり、敗北して崇徳上皇は恨みを残して讃岐に配流され、藤原頼長は首に流れ矢を受けて父の忠実に助けを求めるも拒否されて失望の中に亡くなった。「越中吉岡庄」は直ちに没官されて後白河上皇の「後院領」になった。(※「平範記」)
知恵者の信西は巧みに悪左夫と呼ばれた藤原頼長を追いつめて乱に至ったと云われるが、元々信西も鳥羽天皇、崇徳天皇にも蔵人として仕えた人物で、藤原家から高階家に養子に入り、高階通憲と名乗っていた。藤原一族の高階家は院の君臣、藤原摂関家の家司として活動した家系であり、鳥羽上皇の時には北面の武士として仕えていた経歴の持ち主である。しかし、実務官僚としての無力感から出家を思い立った時に藤原頼長は通憲の出家を止めようとしていたとも云われ、鳥羽上皇も出家を止めようとしたと云う。しかし、通憲は天養元年(1144年)に出家して「信西」と名乗った。保元元年(1156年)7月に鳥羽法皇が崩御されるとその葬儀を取り仕切り、鳥羽天皇が後継者とした二条天皇を即位させようとする信西は崇徳上皇、藤原頼長と対立して、両者を挙兵に追い込み勝利する。信西はその後は自らの縁者を要職に就けるなど権力を欲しい侭にしたした為、反信西派は平治元年(1159年)12月、清盛が熊野詣に出かけて都に軍事的空白が生じた隙をついて院御所の三条殿を襲撃する。これが平治の乱である。この時、信西は逃亡するも発見されて獄門台に首をさらされた。
信西(高階より復姓して藤原通憲:1106年~1160年)の三男は桜町中納言こと藤原成範(フジワラシゲノリ)で、その娘「小督局」は初め清盛の娘である建礼門院徳子の紹介で宮中に上がったが、高倉天皇は中宮の徳子よりも小督局を寵愛するようになり、清盛は怒って宮中から追い出してしまう。この小督の物語は『平家物語巻六』に登場する他、有名な能の『小督』にも登場する。『小督』は高倉天皇の寵愛を受けて範子内親王を生んでおり、その直後に出家したとされる。同じく藤原成範のもう一人の娘は「長新大夫信連室=長谷部信連」の妻であったとされる。何と信西の血脈は長谷部氏により能登、越中に伝わっていた事になる。[吾妻鏡30巻文暦2年(1235)6月29日条には長谷部信連の子の長谷部朝連(三郎左衛門尉)の記載がある。]
富山県小矢部市岡の「法性寺」は越中石黒氏の所縁のお寺としても名高いが、この寺の住職は代々、能登の国人長谷部氏の末裔の「長一族」初瀬部氏である。又、この寺からは五位庄石堤村の「長光寺」との養子縁組が古くから行われ、現在の住職も「法性寺」からの養子縁組である。「法性寺」も「長光寺」も浄土真宗の古刹で加賀一向一揆の拠点になったと云われ、「長光寺」は越中吉岡庄(南北朝以前の五位庄)の地頭をしたと古書に伝わる「小田(織田)氏知」が開いた寺と云われる古い寺院である。五位庄のこの地に古くから越中・能登の領主畠山氏の家臣でもあった長氏の勢力も浸透していたものか、この地には意外に長氏の痕跡が残る。
しかも、「歴史は巡る」という事か、その昔は「保元の乱」で敵対した藤原氏長者の藤原頼長領であった「越中吉岡庄」はその後の加賀藩時代には、敵対した「信西」の子孫所縁の能登国人長谷部氏の末裔の長九郎佐衞門が知行地とし、長谷部氏の子孫が今も尚、五位庄の多くの信徒を抱える浄土真宗の古刹の住職になっている事に断ち切れぬ歴史の因果が感じられるのである。





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🌸「加賀藩前田利家系図」と加賀藩の「越中関係の武将」!!

2017-09-24 | 富山県高岡市
加賀藩時代の金沢市街地図と越中五位庄領主・柴野城城主寺嶋牛介の末裔「寺嶋蔵人邸」



●「加賀藩と由比小雪反乱事件」
・「慶安の変」[慶安4年7月23日;1651年]で由比正雪・丸橋忠弥の乱が発覚し、丸橋忠弥は捕縛されて鈴ケ森で磔になる。この「槍の丸橋忠弥」は一時期、加賀藩に仕えていたと云う。加賀藩の寺嶋蔵人の知人に丸橋忠弥の知人がいた事から、蔵人はこの乱に同情を感じていたと云う。
由比小雪(―1651年)は江戸前期の軍学者で、号は正真。駿河(静岡県)の岡村弥右衛門の子。軍学者高松半兵衛の養子になり高松与四郎と称する。養父の死後江戸へ出て、浅草の菓子屋の鶴屋弥次右衛門の養子となり、楠木正成の末裔と称する楠木流軍学者の楠木不伝に師事してその養子となる。1633年(寛永10年)養父を毒殺して家伝書を盗み、牛込榎町の道場を横領して、中国の兵法家張良、諸葛孔明の名から「張孔堂」を開く。旗本、大名家の家臣、改易浪人等約3000人の門弟を集めて幕府の転覆を図ろうとするが、事前に洩れて小雪は自殺する。
この事件は厳しい幕府の改易政策(所領を没収して他の者に所領を与える刑罰で、当時の江戸にはその家臣が路頭に迷い、困窮浪人が増えていたと云う。)に反抗して溢れる浪人達が幕府に対して反乱を起こそうと企てた事件だ。
幕府と同様に、加賀藩も厳しい財政の立て直しを迫られていたが、藩主は屋敷の新設等で多額の出費を重ね、民百姓からは容赦なく絞り取った。特に加賀藩が「十村断獄事件」と云われる農民とその代表の十村役を密告させて問答無用で投獄、能登島へ島流し、あるいは磔、斬首すると言う苛烈、卑怯な政策を取り始めた事は、財政再建派の寺嶋蔵人等の改革派を強硬にし、派閥の拡大を産み始めた。第十三代藩主前田斎泰は当初は寺嶋蔵人等の意見も容れていたが、次第に藩主を追い込む事になり、遂に寺嶋蔵人は能登島へ配流される。この「十村断獄事件」は加賀、能登、越中の藩内全域に拡大し、特に能登と越中の西部は密告されて投獄され、或いは死亡するケースが多く、能登では親は磔、その子は斬首と言う極刑が課せられたり、越中五位庄では十村役の内島村五十嵐孫作が親子に亘り、数回も投獄され、死者も出すという状況であった。この事件は高岡市和田新村を開いた「和田佐助の隠し田事件」に繋がり、和田佐助は捕らえられ、磔の刑になった。
寺嶋蔵人の先祖の寺嶋牛介は上杉謙信の時に「五位庄の安堵状」を授けられて長く、五位庄柴野城の城主であり、蔵人自身も元は加賀藩の高岡町奉行であった。寺嶋蔵人の激怒と激しい反対はこの辺にも理由があったのだろう。
加賀藩の暴政に憤った寺嶋蔵人が、同じ境遇で徳川幕府から改易されて憤った浪人達の心情に同情した背景もこの辺に原因があったものだろう。
偶然なのか蔵人の金沢市内の自宅の隣地は「由比家」になっている。「由比」は駿河(静岡県)の地名から来ている様だが、「加賀藩組分侍帳」の御馬廻り役四番に「由比覚左衛門組」がある。(※金沢市立図書館) 又、石川県史第2編の「侍帳」には[由比勘兵衞(加賀藩)平士並以上、四百五拾石、長町三番丁]の記載もあり、加賀藩には数名の「由比」が見られる。又、由比正勝と言う藩士は幼少の頃から利長に仕えたと云い、前田家には古く仕えた由比氏がいた様だ。


●[加賀藩前田利家の信仰した神社と菅原道真の末裔と云う根拠、背景。]
「金沢絵図」の中央部右側に赤色で「御宮」と表示される神社は「尾崎神社」で、1643年(寛永20年)に加賀藩四代藩主前田光高(※陽公候)が曽祖父である徳川家康公(東照大権現)をお祀りする為に建立された。
又、その近接地にある金沢市の著名な「尾山神社」は、 元々、菊池氏の居城の「阿尾城」(富山県氷見市)に鎮座の「榊葉神明社」と、前田利長居城の「守山城」(高岡市)近くの海老坂烏帽子峰に鎮座していた「物部(八幡)社」を合祀したもので、当初、卯辰山山麓に遷座して「卯辰山天神社」と言ったが、後に金沢城内の旧金谷御殿跡に遷座した。当初、卯辰山天神社には前田利家を御神体として祀る予定だったが、幕府を考慮して中止したと云う。

前田利家は越前武生から能登に入った時に羽咋郡志雄町の「菅原神社」の後ろの丘陵に「菅原館」と言う居館を設けたがその後、七尾、小丸山と城を移り、やがて金沢城に入城する。前田家は「菅原神社」 の祭神の「菅原道真」を我が祖先として崇敬したと云う。

【菅原神社】[御祭神]菅原道真、応神天皇、武甕槌命、前田利家
[由緒] 天徳4年8月13日(今を距る1015年前)菅公の遺臣國武左官等京都北野より神霊を勧請、天満宮と稱し、歴朝の勅願所であり歴代の藩主が崇敬した後現社名に改称、明治12年郷社に昇格、同34年縣社に昇格、因みに文明18年(今を距ること実に491年前)京都の公卿なる道興准后本社に詣でて「伏見にあらぬ野山を今過ぎて今宵かりねを菅原の里」と献詠して歌道の益々隆ならんことを祈った、特に慶長10年より33年毎に定期開扉大祭が行われ、藩主の代参あり5日間の大祭中は非常な人出で賑わったと云ふ。
[鎮座地]羽咋郡宝達志水町菅原フ2 (石川県神社庁)

●前田家の「物部神社」の信仰
愛知県のJR中央本線千種駅周辺に古代には物部郷古井村があり、中世に鳴海荘古井村と言う物部氏の拠点が在った。この地に「延喜式神名帳」記載の式内社「愛智郡(愛知郡) 物部神社」があった。平安時代末期の「尾張国内神名帳」には「従三位物部天神」と記載されている。
・「物部天神社 由緒」愛知県名古屋市東区筒井3-31-21
祭神;宇麻志麻遲命(ウマシマジノミコト):物部氏の祖とされる。

【※島根県太田市川合町川合の「物部神社」[一宮 物部神社(島根県大田市 )]の由緒に「饒速日命ニギハヤヒノミコトの御子の宇摩志麻遅命(物部氏の祖)は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国(島根県)で歿したという。」とあり、「一瓶社(佐比売山三瓶大明神)が天神として祀られ、 他に神社の末社として菅原神社、川合神社等が祀られた 」とされ、「物部氏と菅原氏の合祀」はこの神社の信仰が根底に有った様で、高岡市東海老坂字川田1068 の「物部神社;祭神 宇麻志麻遲命、応神天皇(八幡神)」の由緒には「物部氏の一族は大彦命が北陸を巡撫された際に従って来たが、命が帰郷された後も留まって鎮護の任に当たった。天平年間に大伴家持卿が国司として赴任した時に随行してきた物部氏族達がこの地に我等の氏神が祀られてあるとして喜び崇敬した。天正十三年(西暦1585年)九月、前田利長が加州松任城から守山城に移り、この頃より当社が武神(八幡神を合祀)を祀ってあるとして崇敬し、武運長久等を祈願した。慶長四年(西暦1599年)利長が金沢城へ移るに際し、当社の御分霊を金沢城の鬼門である卯辰山に守護神として勘請した。」とされる。「物部神社」と「菅原神社」の合体した信仰はこの石見の国の「物部神社」に由来していると見られる。】

⇒これ等の事から、前田利家の里の尾張国に「延喜式内社物部天神社」が在り、これが「物部」と「天神=菅原道真」が繋がった原因で、高岡市海老坂の「物部神社」の近くに「守山城」が在った事から前田利長は武神の「物部(八幡)神社」を氏神にしたものと見られる。先祖の前田氏は、「美作菅氏(ミマサカカンシ)」[※岡山県] の末裔で、分派の「原田氏」を祖としたと云う。菅原道真で有名な菅原氏から派生し、美作国勝田郡を中心に中世から武士団として活動して「美作菅家党」(単に菅党・菅家共)と呼ばれた一族で、美作の武家の中でもその由緒は古く、名族として知られたが、その家紋が「梅鉢紋」であった事から、先祖を「菅原道真」として家紋を「梅鉢紋」にしたと云う。。
・菅原道真の歌「こちふかば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ」⇒「梅鉢紋」

● 「前田利家の出自」
当時の武将の由緒は後付けのものが多く、織田信長は福井県織田町の剣神社の神官の末裔で「忌部氏」とされるが、実際には「藤原」や「伊勢平氏」の末裔を名乗った。豊臣秀吉も「藤原」と名乗った後に「豊臣」に改姓している。足利氏は「源氏」でその後の織田氏は「藤原」、「平氏」を名乗っていた。徳川は「源氏」の新田義貞の末裔の「世良田」、「松平」の子孫と称している。前田氏についても「平氏」「藤原氏」等とされた系図も在ったらしいが、これ等とバッティングしない姓は何かを考えた時に、これ等の武将と重ならない「菅原」は申し分なかったのだろう。
加賀藩前田家は菅原道真の子孫と名乗り、藩内の住民に菅原道真の遺影の「天神様」を各戸に飾らせて、前田家への崇敬を徹底させた。正月のこの「天神様の祭」は衣、食、住の全てを統制された庶民に受け入れられ、いろいろな産業が関わる事から財政的にも産業振興にも多いに役立っていた。
【※「前田利家の祖」とする「菅原道真」は、「天穂日命」の子孫で、大相撲の祖『野見宿禰』を祖とする「土師氏」の子孫で、平安時代初期に大和国菅原邑に住んだ事から「菅原氏」を名乗る。一方、「物部氏系図]では、 「天穂日命」(天照大神の二子、出雲国造の祖)→ 饒速日命→宇摩志麻遅命(物部氏の祖) とされる。
⇒「菅原氏」と「物部氏」は先祖を同じ「天穂日命」とするが、系統は少し違う様だ。】

●『前田利家の祖の野見宿禰』とは??
相撲神事で有名な『野見宿禰』は加賀藩前田利家の祖の土師氏の先祖とされる。
出雲国の相撲の勇士『野見宿禰ノミノスクネ 別名襲髄命カネスネノミコト』は「天穂日命」の14世の子孫で第12代の出雲国造の鵜濡渟(宇迦都久怒ウガツクヌ)の子とされる「第13代出雲国造」であった。垂仁天皇の命により「当麻蹴速タエマノケハヤ」と角力(スモウ)の為に出雲国から召喚され、蹴速と互いに激闘して勝ち、蹴速の大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられ、以後垂仁天皇に仕えたと云う。又、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時に殉死の風習を止め埴輪の制を提案して「土師臣」(ハジノオミ)と賜姓され、以後、土師氏が代々の天皇の葬儀を司った。
⇒加賀藩では「相撲」が盛んで、藩内の神社ではかつて「相撲神事」を執り行う神社が多く、特に石川県は相撲が盛んで、「横綱輪島」「栃乃洋」「遠藤」を初め多くの力士を生んでおり、富山県でも「横綱 太刀山峯右エ門」や「琴ヶ梅剛史」、「黒瀬川浪之助」、「大谷米太郎」の他、「射水川健太郎 、階ヶ嶽龍右エ門 、大八洲晃 剣岳吉五郎 浦風林右エ門、駒不動大助 、旺吉伸 玉椿憲太郎 吉野山要次郎 寒玉子爲治郎、若見山幸平 、琴ヶ浦善治郎、 大磯武 、緑嶌友之助 」等の大相撲力士を生んでいる。

しかし、前田利家の系図については異論も有り、系図には作為があり「藤原氏」とする意見も在る。「古代氏族研究会公認樹堂氏のHP 」には大変興味深い記載が在る。
「この一族は播磨の赤松氏に従って存続・活動したが、原田式部丞佐広の時に「嘉吉の乱」で赤松満祐白幡城落城の時(1441年)、尾張国海東郡下一色に至ったと伝える。その子孫が美濃国安八郡前田村に居住の前田一族の女婿となり、前田を号したとされ、更に利家の祖父蔵人利隆(利成。海東郡前田城主与十郎種利の弟)の時に分家して荒子に移ったと云う。尚、美濃の前田氏は藤原利仁将軍の末流、斎藤一族の出と云う。」として「藤原・斎藤→ 前田説」も在るとする。
(播磨の赤松氏は足利将軍を暗殺して追われたが、後に、南朝に有った「神璽」を奪い、北朝に渡した功績で「加賀半国を与えられた」と言い、その時に「五位庄」の「加茂城」は赤松氏の居城で在ったと伝わる。)
●「梅鉢紋」の使用と藤原氏!
更に、「北陸に梅鉢紋使用の諸氏が多く、加州江沼郡の敷地天神を氏神として崇めた斎藤氏等が梅鉢紋を使用した。斎藤氏は一族が美濃各地に天満宮を勧請したが、美濃の堀・前田等の諸氏は斎藤と同族と伝え、やはり梅鉢紋を使用した。 室町期の『見聞諸家紋』には加賀国石川郡の「松任氏」や大和国添上郡の筒井氏が同紋を用いたと記される。「松任氏」は利仁流藤原氏の「富樫・林一族」であるが、実はこの一族は海神族から出た彦坐王一族(和邇氏族と同族。)の道君の末流であった。「林一族」の「山岸氏」も、美濃国大野郡大洞村に遷住して、天神を信じ梅鉢紋を用いた。」と記されている。 この意見に拠れば、「前田家」が用いた「梅鉢紋は原田氏が養子に入った斎藤系の前田家の紋章」であり、「加賀の林氏、富樫氏、松任氏」の家紋は「梅鉢紋」を使用したとする。
⇒【正確には富樫氏のこの紋は「八曜紋」と呼ばれ、周辺に黒丸が7つと芯の部分に小さい黒丸を書いたもので「星梅鉢紋」に近い。→「星梅鉢」は黒丸が5つと芯の黒丸の組み合わせで6個の黒丸で構成される(六曜紋)。この紋は加賀藩の支藩の七日市藩が使用した。】【林氏の代表紋は「折敷に三の字」と言い、神事に使う三宝の六角形の中に三の字を書いたものと云う。】【斎藤氏は藤原利仁将軍の次男藤原叙用が神事を司る「斎宮頭」になり「斎藤氏」となる】
この「林氏、富樫氏、松任氏」は藤原利仁将軍の末裔とされ、加賀の林氏がその宗家に当たり、「石川県史」に記載の「林氏系図」では、「越前斎藤氏、越中井口氏、加賀石浦氏、倉光氏、石浦氏、弘岡氏、大桑氏、豊田氏、山上氏、安田氏、横江氏、近岡氏、安田氏」 と繋がり、越中では加賀の林氏と縁組した「石黒氏、宮崎氏、堀氏、福満氏」等共繋がっていたとされる。

織田信長の妻は「美濃斎藤氏」である。前田利家の系統の「尾張荒子前田家」は分家した前の系譜は不明としている。「梅鉢紋は原田氏が養子に入った斎藤系の前田家の紋章」とされ、 美濃には「花橘紋」を使用した藤原利仁系の「美濃前田氏」が繁栄した事や、「原田氏は美作菅氏の分派とも云われる」事から、前田利家の系統の「前田家」はこの美濃前田家の系統と考えられる。
こう見ると、「加賀前田家」は、美濃前田氏が織田信長に連なる事から「藤原」と名乗る事を遠慮して、占領した北陸の名族「藤原利仁」の系統が使用した「梅鉢紋」を使用して地域との同化を図ったとも考えられる。或いは、美作菅氏の末裔の「原田氏」と同系の「藤原利仁系前田氏」が縁組により、「加賀藩前田家」の祖となり、両家の「梅鉢紋」を使用したものかも知れない。しかし、「美作菅家」では通字として名前に「佐」を使用したとされ、「前田利家」が「利」を使用している事から、寧ろ「藤原利仁」の「利」を使用したとも窺われるのだ。

※「加賀藩前田家」が使用した紋章は「梅鉢紋」だが、支藩の富山藩、大聖寺藩では梅の花の芯の形が少しづつ異なる。同じく、菅原道真を祀る「太宰府天満宮」の紋章は同じ梅紋でも少し異なり、芯が細い線で書かれるが、前田家の紋章は芯が「小さい剣」の形をしている。この他にいわゆる「剣梅鉢」と言う形の芯の剣が大きいものがあり、この剣は武門を表していると云う。又、丸だけ6個組み合わせた「星梅鉢」や、「丸に梅鉢」、「石持地抜き梅鉢」等の種類が在る。この様に「梅鉢紋」と言っても多くの形があり、単に「梅紋」と伝わっていても、必ずしもひとつの系統とは限らないから、文字で「梅紋」と記載されても同一の種族とは限らないのだ。更に、黒丸だけで構成された「八曜紋」や「九曜紋」等と「星梅鉢紋」との区別がハッキリせずに、同じ「梅紋」として伝わったケースも考えられる。(※「梅鉢紋」とは、正式には芯と周辺の黒丸をつなぐ部分に弦楽器の「バチ」を配したもので、加賀藩が使った梅鉢紋はその「バチ」を「剣」に置き換えたもので、各支藩で形が異なる。)

『加賀藩の剣梅鉢紋』
「宗家加賀梅鉢」(幼剣梅鉢) 花芯に短小な剣、中央に黒丸、花ビラは黒丸五個。
「富山藩」富山梅鉢(丁子梅鉢) 花芯に丁子形と剣を配置、中央に黒丸、花ビラは黒丸五個。
「大聖寺藩」大聖寺梅鉢(瓜実梅鉢)花芯に瓜実状の剣、中央に黒丸、花ビラは黒丸五個。
「七日市藩」星梅鉢 花芯に剣を付けずに、中央に黒丸 、花ビラは黒丸五個。


「加賀藩は越中を占領、統治した時に在地の武将を多く新規に召し抱えている」
(※「前田利家のすべて」花ケ前盛明著 参照)

●石黒成栄(イシグロナリヒデ)[生没年不詳]
録高1500石。元高岡市福岡町の越中木舟城主の石黒一族で、父親の成綱が信長に呼び出されて近江長浜に来た時に、信長の命で一族が暗殺された。息子の成栄は木舟城に火を掛けて京都へ流浪したと云う。能登に入国した前田利家に仕官して前田家から禄を賜う。文禄三年(1594年)に隠居した。

●荒木善大夫(アラキゼンダユウ)[ ~1590年]
元、越中城端城主。天正15年(1587年)利家に仕え、1500石。天正18年の豊臣秀吉の小田原城攻めの時に前田利家、上杉景勝等に八王子城(西多摩丘陵)を攻めさせたが、この戦いで戦死した。

●菊地安信(キクチヤスノブ)[~1596年]
禄高10000石。通称は十六郎、菊池伊豆。肥後菊池氏の末裔。佐々成政の与力の越中氷見郡阿尾城城主菊池右衛門入道武勝の子。天正十三年(1585年)前田利家の調略により、佐々成政から離反して利家と講和し、父親と共に利家に帰順した。九州、関東攻めに従軍したが、慶長元年(1596年)父親の武勝に先立ち死去した。利家の命により、城尾城(ジヨウノオジョウ)城主の斎藤小次郎の子の大学が跡を継いだ。斎藤氏一族の斎藤小次郎の妻は小次郎没後に身重で武勝の嫡男十六郎安信に嫁して大学を産み、長じて大学は武勝の娘を妻とした。
(※肥後菊池氏は鎌倉時代に元が押し寄せた「元寇の乱」の時に活躍し、南北朝時代には後醍醐天皇の忠臣として活躍した一族。同族の大友氏も絡んでの内紛で肥後菊池の正統は滅んだとされる。菊池氏はこの時に、親族の東福寺庄園氷見屋代庄の地頭の八代氏を頼って氷見に入り、後に阿尾城に入ったとされる。織田信長の安堵状には菊池氏を八代肥後としており、両者は親族だろうとされる。八代氏は氷見の山間部から射水市の海沿い、小矢部市の山間部に続く広大な藤原氏の菩提寺の東福寺庄園を管理して、後に能登畠山氏の重臣にもなった。菊池氏も八代氏も藤原氏で、東福寺の門徒。)
(※「越中志微」には、「五位庄はそのかみは菊池氏の所領なりしと聞こゆ」とし、氷見市森寺の西念寺の敷地は五位庄の又五郎の土地と交換したとする。五位庄と氷見の一体性を推定させる。菊池氏が前田利家の臣下になった時に、利家は尾張荒子衆の一人の「富田景政:禄高4000石、富田流剣法の創始者、通称与六郎、後に治部佐衛門」を指名して、「五位庄の事は治部佐衛門と打ち合わせすべし」と菊池氏に指示している。)
(※「越中古文抄」氷見武繁編集 には菊池大学が赤丸村舞谷の山崎氏に対して、高岡市の臨済宗の名刹「国泰寺」への財政支援の依頼書を送ってきている事が記録されている。)

●長連龍(チョウツラタツ)[1546~1619年]
禄高36000石。能登畠山氏重臣長続連の次男。加賀藩藩老八家の一つ。信長と通じて天正九年(1581年)前田利家の能登入国の時に利家の与力となる。利家から鹿島半郡での散在分を与えられ、天正十二年の能登末森の戦いに参戦した後に多鶴浜に居館を構えた。慶長十一年家督を嫡子の好連に譲り出家したが、慶長十六年に好連(室は利家の八女福姫)が急死し、その子の連頼が幼少の為、再び復帰して大阪の両陣に参陣。元和元年(1619年)に死去した。室は越中守山城主神保氏張の妹。神保氏張は佐々成政に従って肥後に移り、佐々成政の切腹後に徳川家康の旗本として江戸に居を構え、千葉に知行地を授けられている。 後に八家の長九郎佐衛門は、元の寺嶋牛介の領地の越中五位庄の一部の五位庄赤丸村を知行地として与えられている。

●寺嶋牛介
寺島盛徳(テラシマモリノリ)[生年不詳 - 慶長10年(1605年)]は戦国時代から江戸時代の武将。姓は寺嶋とも書く。通称は牛介。越中神保氏の家臣で兄の小島国綱(甚助)と共に剛勇をもって知られた。神保本家の没落後は守山城の神保氏張と共に上杉謙信に仕え、本領五位庄を安堵される。天正9年(1581年)上杉景勝の越中侵攻に呼応して富崎城に篭るが織田軍に鎮圧され大道城に逃れる。その後も五箇山の一向宗門徒、神保旧臣らと合流して織田軍への抵抗を続けた。本能寺の変が起こると、混乱に乗じて、湯原国信(石黒成綱の弟)らと共に魚津城から撤退する織田軍に追撃をかけた。後に、佐々成政が越中を平定すると佐々氏に従って禄高5千俵を受け、神保氏張、中山直治と共に前田氏との能登末森城攻めに従軍して奮戦した。佐々成政が豊臣秀吉に降伏した後に、前田利家は末森城の戦いの寺嶋、小嶋兄弟の鉄砲の腕前に感じて仕官を促し、伏木の勝興寺の一角に兄弟で屋敷を賜り、前田利長の代に1500石を給された。以後、子孫は加賀藩士となり、原家から養子に入った寺嶋蔵人は算学の知識に優れ、高岡町奉行、算用場奉行、等を歴任して加賀藩の重臣となったが、勢力の拡大を危惧した第十三代前田斎泰により能登島に配流され生涯を終えた。寺嶋蔵人の屋敷は現在も金沢市内に在り、「寺嶋蔵人邸」として観光施設になっている。


「著者の長山直治氏は寺嶋家文書の研究に当たられ、その写しを金沢市立図書館玉川分室に収納された。」

※高岡市海老坂の「物部神社」の由緒に「大彦命」が出てくる。「古事記」に拠ると、「大彦命」は大和朝廷から北陸道将軍として任命され、「高志の利波臣」の同系統の氏族とされる。
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