赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴🔹富山県赤丸村の歴史⇒「利波臣」・「石黒氏」と「延喜式内社赤丸浅井神社」「赤丸浅井城」!!

2017-06-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
古来、赤丸村には「延喜式内社赤丸浅井神社」「浅井城祉」が在る。
「赤丸浅井城」は、古書によると「孝靈天皇の第三皇子彦刺肩別命の5世の孫礪波臣姓を賜りその後裔累世此処に居館せり」という。礪波臣志留志は聖武天皇の奈良東大寺大仏の造営に際して米五千石(東大寺要録)を献上し外従五位下に叙せられた。
(「続日本紀」の天平十九年九月乙亥条では利波臣志留志が米三千石を寄進したとある。天平十九年は大伴家持が越中国司として着任し一年を経た頃という。現在も尚、東大寺二月堂で執行される「お水取り」で「米五千石奉加せる礪波志留の志 シルノサクワン」と読まれている。現在も続く石黒一族はこの利波臣志留志の末裔と云われる。)
養老元年(717年)元正天皇二宮(実は万葉集にも掲載されている文武天皇の二宮石川朝臣広成と推定されている。)により創建されたと伝わる五位庄五十三カ村の総鎮守として延喜式内社の「浅井神社」が赤丸村に鎮座してきた。(*「三洲誌故墟考」)  
「赤丸浅井神社」には東大寺荘園の一部が神田として寄進され(東大寺正倉院資料絵図)、いつの時代からか、五位庄(旧名 越中吉岡庄)五十三カ村の各戸から一升の米を奉納する事が定められていたという。
「赤丸浅井神社」の隣地の丘陵には元正天皇二宮が居城とされたと伝わる「浅井城」が在り、東大寺大仏造営に貢献した孝元天皇 の孫の武内宿禰の後裔とされる古代豪族利波氏が累代居城としたと伝わる「赤丸の浅井城」が在り、後に利波臣の後裔石黒氏が築城して南北朝時代迄石黒氏の居城で在ったが、後に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王の随臣秩父平氏中山次郎重実の後裔の中山氏の居城となったが、佐々成政の家臣として能登末森城で前田利家に敗れ、廃城にされた。(一説には鎌倉幕府北条氏の家臣中山氏が入城した時に石黒氏が越中新川郡に逃れたともされる。) (✳「肯構泉達録」「赤丸浅井神社古記」「赤丸名勝誌」「中世城館調査報告書」)
(7代 孝靈天皇―8代孝元天皇ー彦太忍信命ー武内宿彌ーー利波臣 ✳「古事記」 )

加賀藩の治世には「第十三代前田斉泰公」が[浅井神社]の掲額の書を書かれているが、加賀藩の所蔵文書の「森田文庫」の中には往時の隆盛を示す絵図も残されている。

(※「石川県立図書館蔵」)


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🔘 天皇中心の政治を願った後醍醐天皇の肖像画 ⇒「南朝の牙城」の「赤丸村」!!

2017-06-17 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


「越中吉岡庄」を伝領した「後醍醐天皇」は、足利幕府と対立し自ら真言宗立川流の修法を師の「文観」から教授されて、「空海」が持ち帰った重宝の袈裟を身に着け幕府の調伏を行ったと伝わる。肖像画には「天照皇大神」、「春日大明神」、「八幡大菩薩」が記載されており、天皇が藤原氏、源氏(足利氏)をコントロールして頂点に立つという願いが込められている。「春日大明神」は「藤原氏」の神であり、元は鹿島神であったが勧請されて春日大明神となり、その後、更に京都吉田に勧請されて吉田神社で吉田神道となった。吉田神道は武家政権と連携して「唯一神道」を唱えて、「両部神道」の神社を分離する活動を行い、本来の天皇家の伊勢神道(白川神道)とも激しく対立した歴史がある。



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🔴🔹🔹 皇室庄園「越中吉岡庄」に於ける「延喜式内社赤丸浅井神社」の祭神は「皇室の主要神」を祀る!!

2017-06-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


●皇室庄園「越中吉岡庄」の郷社「延喜式内社赤丸浅井神社」の祭神は宮中八神の「正一位 高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」!!






「保元の乱」で後白河上皇の「後院領」に成った「越中吉岡庄」の郷社「延喜式内社 赤丸浅井神社」には皇室八神として天皇が宮中で奉仕される神々の「高皇産霊神」が祀られている。





※「保元の乱」の結果、藤原摂関家長者「藤原頼長」の庄園で在った「越中吉岡庄」は上皇の庄園「後院領」に没官されて、後白河上皇以降、後鳥羽上皇~後醍醐天皇迄、皇室領として伝領した。⇒「人車記」近衛家陽明文庫蔵版(※別名「平範記」)参照








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🔴 後白河上皇庄園『後院領』の「越中吉岡庄」⇒富山県高岡市福岡町※[南北朝以降は越中五位庄に]!!

2017-06-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

「天皇行幸絵図」






天皇が使用された鳳輦(ほうれん)と「唐車」(からぐるま)
⇒ 『鳳輦』 は、「屋根に鳳凰の飾りのある天子の乗り物」を意味する言葉で古くから天皇の正式な乗り物。 お付きの人達が担いで運んだ。 ※「御神輿」の形
※写真記載の「帝室博物館」は現在の「東京国立博物館」



上皇が使用された「唐車」⇒屋根が「びんろうじゅ」で葺かれた車。何故「びんろうじゅ」の葉が用いられたか? ⇒「人皇初代神武天皇」の父は「鸕鷀草葺不合尊 (うがやふきあえずのみこと) 」と云う。







●「輿車」(ヨシャ)は朝廷で利用された「牛車」で上皇、天皇、中宮、皇太子、関白等が使用された牛車で色々な車が在った。乗る時には後ろから乗り、降りる時には牛を外して踏み台を設置して前から降りると言う約束事が在った。


●様々な「輿」(コシ)





「越中吉岡庄」が寄進された蓮華王院(三十三間堂)や相国寺(「金閣寺」はその塔頭寺院)



『越中吉岡庄』は藤原摂関家長者「藤原頼長」の庄園で在ったが、「保元の乱」で後白河上皇に敗れて、以後、上皇の庄園「後院領」として「後鳥羽上皇」から「後醍醐天皇」迄、伝領した。「鎌倉遺文」には後白河上皇の時に上皇が創建された蓮華王院三十三間堂の維持の為に「越中吉岡庄」を「蓮華王院」(※三十三間堂)に寄進されていた事が記載されている。


「洛中洛外図屏風」(部分)の「蓮華王院」・「三十三間堂」

(「赤丸浅井神社」には一条天皇の時に勅使「川原左京」を遣わされ、浅井神社の左右に桜の木1対をお手植えされた。[※「浅井神社三社史」]
→この桜は昭和初期迄残っていた。
この「川原左京」は当時、一条天皇の叔父に当たる「河原町の左京大夫」で在った「藤原道長」を指すと見られる。⇒左京大夫は京の都の左半分を統治した役職で、一条天皇の統治時代は藤原道長がその職に在った。)この言い伝えから、赤丸はこの時代には既に藤原氏と密接だったと見られる。この後に、白河天皇の時に上賀茂神社の庄園となったがその後、再び藤原氏の庄園になっている。
※「藤原頼長」は「道長」と「頼通」の一字を取って名付けられた。

●「越中吉岡庄」は「後醍醐天皇の皇子の宗良親王が赤丸浅井城に在城の時に吉岡庄を五位庄と改名された」と加賀藩の「宝永誌」は伝えている。

●五位庄になった後、室町幕府将軍足利義満は「越中五位庄」を義満が創建した京都「相国寺」に寄進されて、その後も、足利家菩提寺の「等持寺」「等持院」に寄進され、足利家家臣で越中蜷川庄の蜷川新衛門の統治下に在ったと「蜷川村誌」は伝えている。蜷川新衛門は「一休さん」にも登場する人物で、富山市の高速道路富山インター周辺を所領として越中の西礪波郡を統治したと言う。














加賀藩の奉行が報告書を纏めた「宝永誌」に、「吉岡庄」から「五位庄」に改名された様子が記載されている。(※南砺市福光町図書館所蔵の写本参照)

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📙📃 南北朝期の「二宮円阿軍忠状」と「赤丸浅井城中山直治」・「守山城神保氏張」の素性!

2017-06-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



「鴨城」は吉岡谷の小矢部市寄りに有り、古記に「鴨の二つ城」と記載されているが、鴨城は赤丸城程の大きな遺構がない事から赤丸城を主城とする出城と考えられる。

貞治2年(1363年)3月、南朝の武将桃井直常討伐に従軍した「二宮円阿」が「五位庄の鴨城衆と頭川城、松根城等での戦い」を命じられて任務を果たした事等が記載された「二宮円阿軍忠状」が有り、是が「五位庄鴨城」の説明に登場する。しかし、この「二宮氏」が如何なる人物かの説明は今日迄、諸史料にも見当たらなかった。
【二宮次郎左衛門入道円阿申軍忠事】
「右、去年二月九日令発向越中国、可致忠節之由、賜将軍家自并七条殿(斯波高経)御教書、当国松□(根)御陣下向仕、同七月三日大将御共仕、和三(田)合戦令致忠節、致其外圧城・野尻御供申、自同十一月至今年三月令和田十一警固、同十三日可為鴨城衆由依仰下候、於当城致忠節、同五月十二日向馳頭高城、追落凶徒等、焼払彼城、鴨城衆等相共致忠節、至南条枯本木金山城、令致忠節候上者、賜御判形為備後証、恐々言上、如件、
貞治弐年六月 日
一見了 印 」
詳細を調べるとこの二宮円阿という人物は足利一族の斯波高経の家老に見られる。
●「斯波高経」 尾張足利氏四代目 1362年細川頼和に代わり越中に息・義将を派遣。信濃国から越中乱入。南北朝時代の南朝の武将で守護大名。越前・若狭・越中守護。南朝の勇将新田義貞を福井県で破る。観応の擾乱では足利尊氏と直義双方にブレて仕える。
●「二宮円阿」✳次郎左衛門入道円阿。斯波家家老で信濃口から越中へ乱入し庄城、野尻城、和田城、鴨城、頭高城で戦う。1363年(正平十八年)に軍功を申請する申請書を提出した。


高岡市の「守山城」に在城した著名な武将に、名門足利氏一族の能登畠山氏から養子に入り「織田信長」の妹を妻にした「神保氏張」がいる。神保氏は畠山氏の家臣として長く越中の統治に関わり、富山城の歴史にも登場する。しかし、この「守山城」に陣を構えた神保氏については「神保氏諸流」とされて、ルーツがはっきりしていなかった。この「神保氏張」は五位庄を上杉謙信から安堵された「寺嶋牛介」が主君とした武将で、佐々成政軍として赤丸浅井城の中山直治と共に能登末森城に前田利家と戦った武将で、佐々成政が九州に転封された時に同行し、成政切腹後に徳川家康の旗本になった人物である。しかし、この人物のルーツを調べると意外な事が解った。

静岡県立図書館に徳川家臣団系図が在り、その中の旗本神保氏の系図を調べると、以下である。

【桓武平氏系図】 (源頼朝家臣団秩父平氏)
桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王ー良文ー忠頼━━将恒(秩父三郎)ーー畠山重忠 ー娘
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| ┗━中山次郎重実
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┗━ 頼尊(僧次男)━『以下系図参照』
(神保氏の祖)
◎高岡守山城主神保氏張は能登畠山氏から養子に入っており、本姓は源氏。
◎越中土肥氏も桓武平氏良文流の同族である。
◎赤丸浅井城の中山直治は敦賀に落ち延びて今井氏の養子となり名跡を継いだ。この中山直治が入った「中山正弥家文書」に拠ると、「中山氏は藤原氏」としている。一方、越中赤丸村に残り、加賀藩に仕官しした「中山孫左衛門清直家」は「本姓は源氏」として、本国は近江として、「下がり丸に藤紋」を家紋としており、元々は藤原秀郷氏(蒲生➡泉➡今井)の近江今井氏が本姓ではないかと見られる。又、現在も赤丸に残る「中山赤圓家」は「赤丸名勝誌」で、先祖を秩父平家の中山次郎重実としている。一方、もう1軒の赤丸性宗寺は先祖を中山氏として家紋は「桧扇紋」としており、この紋は赤丸浅井神社別当寺の「川人山鞍馬寺」の家紋と同じで、近江源氏佐々木氏流今井しの末裔の徳川旗本今井氏の家紋も同じくである。この家系と中山直治が養子に入った敦賀の今井氏(本国を近江とする)の関係は明らかではないが、近江の国人今井氏は元々、近江の浅井氏と対抗する勢力であったが、浅井長政が織田信長に亡ぼされた頃には浅井氏の家臣になっており、本家はこの時に途絶えたが、支流は残ったと云う。敦賀の今井氏は恐らくこの系統であると見られる。赤丸性宗寺は浄土真宗で、川人山鞍馬寺も後に浄土真宗となっており、その関係で家紋が同じなのかどうかは分からない。しかし、本家と見られる「中山正弥家」が「藤原氏」としている事から、本姓は藤原氏と見られる。

尚、旗本となった近江の今井氏は「近江源氏佐々木氏の支流で、近江の高島郡今井に城を構え、今井氏を称した。織田信長の下で今井兼員は摂津に二千二百石の地を領し、その子の兼久は関ヶ原の戦いで家康から旧領を安堵され、その後は代々千三百石の家禄を伝えた」と云う。佐々木氏は宇多源氏(近江源氏佐々木氏嫡流六角氏流)で源氏姓を称したとされ、今井氏の先祖は六角氏に仕えた様だ。今井氏は近江町箕浦というところで箕浦城にいた。その今井氏が六角定頼に属していて、定頼の定という字を名乗りとして貰っていたと云う。
高岡市内に残り、加賀藩に仕官した中山家は「源氏」を名乗り、「下がり藤に丸」の藤原秀郷系蒲生氏流の「藤紋」を使用しており、近江今井氏については、いろいろ議論があるらしい。
近江守に補任された「宇多源氏」は、近江に勢力を張って俵藤太と呼ばれた秀郷流藤原氏を郎等にしながら近江に進出していったと考えられると云うのだ。これが近江源氏佐々木氏の源流となっている。一方、秀郷流藤原氏を名乗る「蒲生氏」は近江国蒲生郡から甲賀郡にかけて勢力を張っていた。佐々木氏との関係を見ると、蒲生氏が佐々木氏に臣従していた事から、今井氏は秀郷流藤原氏の可能性が高く、蒲生氏初代蒲生惟賢の娘が佐々木定綱の側室になった事からも秀郷流藤原氏を名る「蒲生氏」が早い時期から宇多源氏佐々木氏の郎等であったことが分かる。従って、藤原氏である「蒲生氏」は血縁関係からも主家の宇多源氏佐々木氏の「源氏」を名乗る事があったのかも知れない。

(神保氏 平姓良文流 秩父平氏 家紋丸内二引両) ✳「神保氏張(源氏畠山氏)」より源氏系
「初代 頼尊 (山邉六郎):住 武蔵国 兄千葉及忠常反逆之時錐催促暴逆而忌朝敵不興仰王政堅我拭 中村土屋土肥新開二宮祖 」ー「二代 常(恒)遠 :住常冽笠間城故笠間押領 寛治三年源義家随催促軍於羽冽尽軍功々」ー「恒宗」ー 「 友平(中村四朗左衛門尉 二宮四朗大夫 称二宮)」(※中村友平は治承4年/1180年の頼朝旗揚げに参加、義経追討→1185年守護・地頭の設置、中村四郎として吾妻鏡10巻建久1年(1190)11月7日・25巻承久3年(1221)6月18日記載 )ー「朝忠(二宮太郎)」ー「某(二宮小太郎)」・「時元(二宮弥二郎)」ー「経忠 (始二宮右京進 神保左衛門尉) :住越中守山城 後醍醐天皇治世至吉野奉忠勤於南朝従桃井直常尽軍功其後随仕将軍源義詮公」ー「忠綱(神保右京進 河内守) :越中守山城主 明應年中従畠山基国尽軍功 應永十八年辛卯将軍義持公征伐飛騨国司藤原伊纜之時有軍功」ー「忠景(神保常陸介 右京進): 越中国守山城主」ー「忠貞(神保周防守 右京進): 越中国守山城主」ー「忠氏(神保越中守):越中守山城主 家紋幕紋丸内横二両引蔦之葉 應仁年中細川与山名合戦之時従畠山義純有軍功 文明五年癸巳十二月義尚公始忝内之時忠氏帯剣列後陣」ー「氏純(童名太郎 神保越中守):越中守山城主 當此時越中守護畠山義則衰武威國人不随其号令国中大乱氏純出張而振威欲領越中時上杉謙信感其武威厚為誓約故属謙信尽軍功 、女 佐々内蔵助成政室 信長封成政而越中守護 」ー「氏張(少名清十郎 神保安藝守 實能登畠山義隆二男 越中守山城主):始属上杉謙信 謙信没後信長公封越中半国廿六万石為北国押云々 佐々成政入国氏張住熊本成政家蒙勘初死云々 天正十七年巳丑大神君於濱松城被 名出賜下総国香取郡之内二千石地列交代寄合 慶長五年庚子関原之役依 釣名留守江戸城 後年於江戸没時六十五歳 法名玄皈居士」ー長男「氏則(少名清十郎 神保主馬介):室佐々成政女 天正二年甲戌十二月属伯父能登国守畠山義則之幕下」・二男「氏長(神保五郎兵衛):母信長公妹 継父家督領二千石奉仕 台徳公時代為寄合之列 大阪冬夏両御陣供奉有軍功 寛永二年乙丑四月五日没時五十一歳 法名宗英居士」ー「氏長の子 氏勝・氏房」ー「氏勝の子 氏信」ー「氏寿」 と続いた。

神保氏は「初代 頼尊 (山邉六郎)は武蔵国 の出身で 中村、土屋、土肥、新開、二宮の祖 である」と云う。五位庄の赤丸村近くに今も「土屋村」が在る。神保氏「六代目時元」の子の「経忠」の時、始め後醍醐天皇に従軍し、桃井直常に従って軍功を挙げたが、その後敵対していた足利義詮(1330ー1367年)に従っている。足利義詮は尊氏の子で桃井直常の反対の立場に有り、足利尊氏側の貞治2年(1363年)3月の「二宮円阿軍忠状」は越中守山城主が「経忠 (始二宮右京進 神保左衛門尉)」の時代に当たる。(✳「軍忠状」とは、戦果を報告して後に恩賞を貰う為の武将からの報告書に当たる。)斯波高経が越中守護でその家臣の二宮氏が活躍した時に高岡守山城主中村四朗左衛門尉が「二宮姓」を授けられたか縁組みにより「二宮」を名乗ったと見られる。

ここで「観応の擾乱」の経過を確認すると、
正平5年/観応元年(1350年)に「観応の擾乱」が起きる。桃井直常は足利尊氏の弟の足利直義派の有力武将として北陸から入京し、正平6年/観応2年(1351年)の「打出浜の戦い」に勝ち尊氏・高師直らを追い払い引付頭人に補任される。尊氏と直義の抗争が再発し、上野で尊氏方の宇都宮氏綱・益子貞正に敗れ、尊氏に敗れた直義は降伏。直義が鎌倉で亡くなると桃井直常は行方不明になる。しかし、正平10年/文和4年(1355年)直常は直義の甥で養子の足利直冬を擁立して洛中を占拠した。以後も信濃・越中で合戦を続けたが、勢力は衰退し、鎌倉公方の足利基氏の保護を受けた。正平22年/貞治6年(1367年)基氏が没すると直常は出家、上洛して足利義詮(尊氏の子)に従う。尊氏側の斯波高経・義将父子が貞治の変で失脚して、直常の弟の桃井直信が越中守護になる。しかし翌正平23年/応安元年(1368年)、斯波義将が幕政復帰すると直信は越中守護を解かれて直常は再び越中で反幕府の軍事行動を開始する。建徳2年/応安4年(1371年)7月に直常は姉小路家綱の支援を受け飛騨から越中礪波郡へ進出して幕府方の能登守護吉見氏頼と五位荘(現在の富山県高岡市)で激戦を行うが敗北して8月には飛騨へ撤兵し消息不明になったと云う。(✳「花営三代記」参照)

この由緒や経過から見ると、1363年は桃井方の勢力が衰えた時期で、この機会に「越中守山城主二宮右京進こと神保左衛門尉経忠」は桃井方から敵方の斯波氏・足利義詮側についた事が判る。今迄、守山城主の神保氏は神保氏諸流とされていたが、この系統について「神保氏と二宮氏は同じ」と言う見解は見られなかった。時代的、背景的に検討するとこの「越中守山城主二宮右京進こと神保左衛門尉経忠」こそ、「二宮円阿」と同時代の人物と推察できる。
又、この諸系図の中に別系統の「神保彦九郎茂政 生国越中」が有り、この系統は河内で活躍し、「信長の時に反逆して畠山氏が滅亡した後、秀吉公に仕え六千石を賜り、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従軍して千石を加増され、七千石を領した」とする神保氏系図が有る。

【平姓良文流神保氏】
元々は秩父平氏の畠山重忠の家系。
後白河上皇の皇子以仁王の令旨に拠り源頼朝が挙兵した時(1180年)、畠山重能の息子の重忠は本家の河越重頼に従って頼朝の平氏追討軍に参加した。関東の秩父平氏畠山重忠は頼朝に従って平家追討や奥州の藤原氏や源義経追討の合戦で軍功が有り、本家に当たる源義経の正妻の父の河越重頼や重房が粛清された後には秩父平氏惣領の座を継いだ。重忠は“武士の鑑”と称えられ、義経の妾の静が頼朝の御前で舞を舞った時にも鼓を打つ事が許されたと云う。重忠は正室に北条時政の六女を迎えているが、北条時政とその妻の牧の方は重忠を疎んで陰謀を巡らし、1205年には重忠の従兄弟の稲毛重成や榛谷重朝を懐柔して重忠の嫡男重保、次いで重忠と息子の重秀を武蔵国二俣川で討ち果たした。(✳「畠山重忠の乱」)重忠の遺児の重慶も後に粛清され、この時、平姓畠山氏の嫡流は滅亡した。この後に、畠山氏の名跡は源氏の足利義純が畠山重忠の未亡人の北条時政の六女と再婚して継承し、この後は源氏の「畠山氏」になる。元々、源頼朝が旗揚げした時に、秩父平氏の支援が有った事から名門の畠山氏を残した様だ。この婚姻で源氏系畠山氏の「神保氏張」は平姓神保氏の養子となり、畠山氏と神保氏の同盟が図られた。

(✳「源義経」の正妻は秩父平氏河越重頼の娘。ー「埼玉県川越市」所縁の武将。源頼朝の指示で婚姻したが、義経が反逆したとして河越重頼は頼朝に誅刹された。重頼の娘は義経と共に奥州に逃れて奥州でその子と共に亡くなったと言う。義経記の奥州落ちの際に同行したのは河越重頼の娘とも、平時忠の娘とも言われている。)

#【惟宗姓神保氏】
神保氏は元帰化人秦姓の末裔惟宗氏から出たとする。秦氏は京都の太秦にも名を遺す渡来氏族で秦の始皇帝の末裔で、機織り=秦氏として布造りの技術を伝えたとされる。陽成天皇の御代秦宿禰永原に賜姓して惟宗朝臣となる。永原明経博士となり子孫代々学者を出す。この一族から薩摩の島津氏、対馬の宗氏、神保氏が出た。武門政治となり、神保氏鎌倉に下り畠山氏に仕える。正平十七年初代鎌倉公方足利基氏に畠山国清が逆らって伊豆に逃れた時に遊佐、神保、斎藤等がこれに従った。(✳「太平記」)後に足利義深に従って上京し、畠山基国が越中を領有した時、越中に在国したと云う。
「寛政重修諸家譜」には徳川に仕えた神保氏に三系統有り。(1)足利義深に従って上京した一族で代々大和に住み、茂政、茂勝等の「茂」を名乗っている。(2)橘氏から出て越中国宮崎城主山城守を初代として近江国甲賀山南荘に移り、後に徳川氏に仕えた。寛文七年四郎右衛門巡見使として越中に来る。代々八郎右衛門、四郎右衛門、三郎兵衛を名乗って、楠木正儀の子孫と称する。(3)守山城神保氏張の系統。(前記 参照)
(✳「越中郷土史」林喜太郎著 参照)
以上からすると越中の神保氏もいくつかの系統が有り、古くから立山山麓から富山市にかけて展開した神保氏は惟宗姓神保氏で、守山城を拠点とした神保氏は畠山氏の同族で秩父平氏の神保氏であると推定できる。又、加賀藩時代に幕府巡見使として越中に入った神保氏は橘姓であることが判る。神保氏については頻繁に混同が有り、非常に判りにくい。

#【幕末の勤皇の志士「橋下左内」と南北朝時代の勤皇の志士「桃井直常」の後裔】
・福井松平氏の下で幕末に勤皇の志士として著名な「橋下左内」は福井市の足羽川と足羽山の間に在る「橋下左内公園」に墓所と顕彰碑がある。近くには「柴田勝家」と「お市」の墓が在るお寺も在る。橋下左内の家系は室町幕府の足利一族の桃井氏の後胤で、先祖の代で桃井から橋本姓に改姓したが、徳川親藩の福井藩士として一橋慶喜を将軍に立てる運動を展開した。橋下左内は江戸から京都へ登って、「桃井亮太郎」又は「桃井伊織」と名を変えて、現在の京都国際ホテル近くを寝城として盛んに暗躍した。だが、大老井伊直弼の弾圧で橋下左内等は捕縛され、「安政の大獄」(※1859年)で26才の若さで斬首された。
・源義家から10代後の源氏、桃井播磨守直常の長男の直和は千代ケ様城等を拠点として戦ったが、越中長沢の戦いで討死した。その子の桃井直詮(幼名を幸若丸)は足利氏の同族の斯波氏の所領の越前朝日町に逃れ、そこで育って「幸若舞」を編み出した。隣の織田町の「劔神社」神官の末裔の織田氏はこの神社を氏神として、織田信長はこの「曲舞クセマイ」と云われた「幸若舞」を好んで歌い、踊ったと云う。織田信長は特にその「敦盛」と言う曲を好んだと云われる。「幸若舞」は全国に広がり、戦国武将にも踊られて、明治初め迄、越中の赤丸村、石堤村、福光町等でその舞手の「舞々人」が一子相伝で伝承したと云う。赤丸村には桃井直常の三男が創建した「西大寺」が在ったが、現在は、高岡市木町に在る。(織田家は尾張守護の斯波氏に仕え、守護代を務めた。)


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🔷🔼悲惨な歴史--後白河上皇開基の長講堂領だった石動山天平寺 !!

2017-06-14 | 富山県



「石動山天平寺」には十一面観音、聖観音菩薩を祀っていた。「石動山天平寺」の開基は「法道上人」と伝えられている。この上人は実在したかもハッキリしないが、富山県内にはこの他に、氷見市の大栄寺、小矢部市の観音寺、砺波市の千光寺に観音信仰と共に「開基」としての伝承が残り、播磨方面でも開基と仰ぐ寺院が多い。
福岡町赤丸村には「清水山」が有り、その頂上には「京都清水寺の千手観音」を祀る「観音堂」が有り、往古は寺院が在ったと伝わる。又、赤丸村の近くの山並みの柴野城の跡地にも「京都清水寺の千手観音」が祀られている。又、その昔、赤丸村に「千手観音」を祀る「観音寺」と呼ばれた「衆徳山総持寺」※現在は高岡市内 が有り、今もその地は「観音堂遺跡」と呼ばれている。更に、福野には観音像を祀る安居寺が在り、富山県の西部の山並みには観音信仰の聖地が連なる。
石動山から柴野村、赤丸村、小矢部市、福野町、砺波市と続く観音信仰はこの地に残る「白山の開祖」「泰澄大師」の伝承とも重なり、赤丸村の浅井神社にも「泰澄大師が庵を結び元正天皇の宝祚を祈った」と伝わる。泰澄は元正天皇の病気回復を祈って祭器に赤丸を着けて長久を祈ったと伝わる。石動山は後白河上皇の時に支配下に有り、後白河上皇は熊野信仰、観音信仰に精力を傾け、屋敷の中に三十三間堂を建てて慶派仏師集団に1001体の千手観音像を刻ませて祀っている。氷見市から赤丸村、小矢部市、福光町に至るエリアが、その昔は藤原氏の荘園、もしくは藤原氏管理の荘園の東福寺領が展開していた事とも観音信仰は密接な繋がりを持つ。「石動山天平寺」は「石動彦」の神話から続く長い歴史を持ち、特に越中と能登の境という戦略的な要衝であった。又、この山並みの「西山」は砺波平野を取り巻く丁度、城壁の役割もしている。その為、この場所は政治、文化共に激しい変化を余儀なくされてきた。又、富山県西部の両部神道、山伏の拠点として赤丸村の川人山鞍馬寺、倶利伽羅長楽寺、福野安居寺等に続く山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の本拠地でもあった。

「保元の乱」の後、後白河上皇は藤原氏長者の藤原頼長領の越中吉岡庄(赤丸村を中心とする後の五位庄)を没官して自らの「後院領」とし蓮花王院(三十三間堂)に寄進した。その頃、石動山も後白河上皇の直轄地となった。長講堂は後白河上皇の院御所である六条殿内に建立された持仏堂を起源とし法華長講弥陀三昧堂の略称で、後白河上皇は石動山をこの長講堂領として所有していたが、その後この地は寵妃の丹後局の子の宣陽門院に譲られ、源通親がその別当に任じられた。(源通親は仁安3年1168年加賀介を兼任。安元3年1177年加賀権介を兼任。正治元年1199年内大臣。--と加賀に関する役職を歴任している。)後鳥羽上皇が承久の乱で失脚すると一時期、42か国82ヶ所にものぼる長講堂領は鎌倉幕府の直轄地となったが、翌年、宣陽門院に返還され、その後は後鳥羽上皇の孫の後嵯峨天皇に譲られて院政の財源になったが、後嵯峨上皇は大覚寺統の亀山天皇には譲らず持明院統後深草天皇に譲渡され、その後は持明院統に受け継がれた。大覚寺統の後醍醐天皇も1326年(嘉暦元年)の後伏見院から花園院への長講堂領移転を認め、1351年(南朝正平6年、北朝観応2年)の正平一統の時も南朝の後村上天皇も当時の北朝光厳院の長講堂領領有を認めた。正平一統を機に持明院統(北朝)の皇統が北朝3代目崇光天皇の系統から後光厳天皇の系統へ移った為、皇位継承と並んで長講堂領の継承を巡る紛争が発生した。1398年(応永5年)に崇光天皇が崩御すると後小松天皇(後光厳天皇の孫)は崇光天皇の子栄仁親王から長講堂領を没収した。この紛争は1428年(正長元年)に崇光天皇の曾孫にあたる後花園天皇が後小松天皇の猶子として皇位を継承するまで続いた。石動山は上杉謙信の越中攻めや南北朝の桃井直常の戦い等で戦乱に巻き込まれ壊滅的な打撃を受け、一時期は廃墟になっていた。現在は史跡として整備され保存されている。

(日本の石仏 北陸編参照)
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🌄 三種の神器の一つの「勾玉 マガタマ」と越中赤丸村の「熊野信仰 」❗ ❗

2017-06-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






赤丸城ケ平古墳発掘の「勾玉」。「蛇紋岩」と「翡翠」は新潟県糸魚川市に流れ出る「姫川渓谷」から産出する。「碧玉」は小矢部川から産出し、青石、赤石等の様々な色がある。現在も福光町では「玉杯」が生産されている。



新潟県糸魚川市に流れ出る姫川渓谷は古来から「翡翠」の産地で、この翡翠から多くの「勾玉」が生産されていた。勾玉は皇室では天皇の権威を示す「三種の神器」の一つとされる。赤丸村の「城ケ平古墳」からも「翡翠」の「勾玉」が発掘されている






高岡市の二番町の「曳山」は「越中宮極楽寺由緒」に拠ると、南北朝の時に後醍醐天皇の皇子「宗良親王」の「御座車」で在ったと云う。宗良親王は「熊野社」を信仰された為、「越中宮極楽寺」にも熊野権現が祀られた。越中宮極楽寺は高岡市牧野に創建され、後に守山を経て現在の高岡市博労町に移ったとされるが、牧野での創建についてはその由緒でも「二百数十年間五位庄に在ったと伝わる」と記載される。赤丸村にはこの「極楽寺」が創建されたと伝わる「極楽谷」が城ケ平古墳の奧に遺されている。
➡「二番町の曳山」には熊野信仰のシンボルの「烏」が二羽停まった朱塗りの鳥居が飾られている。


●白河上皇の時に「上賀茂神社」の社領として天皇が寄進したと云う「越中吉岡庄(赤丸村)」には、かつて、千手観音像を祀る「総持寺」が在った。この寺の守護神の「熊野社」は赤丸浅井神社の奧院と清水山観音堂との中間の尾根に鎮座していたが、総持寺が高岡市内に動いた室町時代以降は、総持寺の住職が定期的に拝礼に出向き、赤丸浅井神社の別当「川人山鞍馬寺」も管理を手伝っていたと伝わるが、今はその伝統も絶えて、社屋は取り壊され、祭神は赤丸浅井神社に合祀された。跡地には檜の木が植林されて、面影もないが、高岡市の法務局には「社地」として図面に残る。


●和歌山県野那智熊野三山については、歴代の天皇が信仰して、「越中吉岡庄」を「後院領」としていた後白河上皇は最多34回も行幸され、住まいとされた法住寺殿の鎮守として日吉社・熊野社を勧請して、三十三間道には1001体の千手観音像を祀られた。

熊野三山の祭神は、熊野本宮(本宮)には「熊野坐神 クマノニイマスカミ」、熊野速玉大社(新宮)には「速玉神 ハヤタマノカミ」、熊野那智大社(那智山)には「熊野牟須美神 クマノムスビノカミ」が祀られている。「日本書紀」には国生み神話の最終回段階で、亡くなったイザナミを黄泉国に訪問してその変わり果てた姿を見て逃げ帰ったイザナギが禊をして吐き出した唾液から「速玉神」が生まれたとされる。又、スサノオが高天原に駆け上がった時にスサノオに疑いを持つアマテラスと、天の安の河原で「誓盟 ウケイ」が結ばれた。「古事記」では、その時に、スサノオがアマテラスの右腕を飾っていた「玉」を噛みに噛んで吐き出した息吹きの中から生まれた神が「熊野久須毘命 クマノクスビノミコト」で有り、「日本書紀」では「熊野櫲樟日命 クマノクスビノミコト」となっている。元々、熊野信仰は古代豪族葛城氏と密接で、熊野修験道となった。元々はこの神話を背景としたが、後にはこれ等の修験者が勢力を持った為に天皇は統治の背景として利用して、熊野信仰は天皇の信仰となった。歴代天皇は全国の山伏を統括する熊野山に参詣して霊力を獲ようとした。
赤丸村浅井神社、浅井城を中心とした「越中吉岡庄」は白河上皇の時にこの葛城氏と所縁の強い「京都上賀茂神社」の庄園となった。「平範記」に拠ると、その後は藤原摂関家藤原頼長の庄園となり、「保元の乱」で藤原頼長に勝利した後白河天皇の時に皇室の上皇の庄園「後院領」となり、歴代の上皇、天皇に受け継がれて後醍醐天皇迄、皇室庄園として続いたと云う。
後白河上皇の皇子が「本山派修験道」の「聖護院門跡」となられ、赤丸浅井神社も聖護院山伏が「川人山鞍馬寺」の「別当」として勢力を誇って、周辺53ケ村から各戸より米一升を集める権利を持ったと云う。この権利は後白河上皇の勅願寺の石動山天平寺と赤丸浅井神社に認められていたと云う。この山伏は朝廷の権威を背景に強制的に米を集めたので「カーンマンボロ」と呼ばれて恐れられた。赤丸村には後白河上皇以来の熊野信仰が息づいていた。

熊野信仰はその祭神を「玉」に纏わる神々としている。「勾玉」の形は、地球創世期の未だ土が固まっていない状況を現したものとも、神話に見られる、神が粉々に噛み砕いた「玉」や噛み砕いた玉を吐き出したツバをシンボルとしたものにも見える。皇室の重要な神で、天地創造の時に諸神を地上に遣わされた指令神の「高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」は「岩」を拠り所として地上に降り立つとされる。「延喜式内社赤丸浅井神社」の祭神はこの「高皇産霊神」で有り、「天照大神」も併祭している。天皇の権威のシンボルの一つの「勾玉」は、正に地球を構成する「岩」そのものをシンボルとしたものと言えるだろう ❗ ❗

「高皇産霊神」は皇室の神であると共に、越中国司をした「大伴家持」の家系の祖先神とされる。越中は大和朝廷が原住民の「蝦夷」討伐の拠点とした地域で有り、その軍隊を統括したのは大伴氏とその一族の佐伯氏、軍事氏族の物部氏、久米氏で在った。佐伯氏は降伏した蝦夷を朝廷から与えられて「佐伯部」として軍隊に使役したと云う。物部氏については氷見市と高岡市の間に在る「物部神社」由緒に越中遠征の記録が見られる。様々な越中の神社由緒には、大和朝廷の北陸遠征の痕跡が記されている。
(※越中を占領した前田利家はこの祭神を前田氏の祖先神として金沢の尾山神社に祀っている。)
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🌄 加賀藩の真言宗の信仰 ー 越中の名刹 「上市町大岩不動尊」!!

2017-06-14 | 富山県
劔岳を臨む

富山県のシンボル、立山連邦の麓の上市町に 、大きな天然石に刻まれた「重要文化財大岩山日石寺磨崖仏ー不動明王像」で有名な「大岩山日石寺」が在る。


不動明王像

地蔵堂

「愛染堂」には加賀藩所縁の「不動明王像」が祀られている。
愛染堂

三門
観音堂

十二支滝




加賀藩は富山県の小矢部市「倶利伽羅不動寺」、高岡市「衆徳山総持寺」、福野町「安居寺」と共に富山県上市町の「大岩山日石寺」等の真言宗寺院への信仰が篤かった。

富山県の立山連邦を臨む、劔岳の登山口に在る上市町に、磨崖仏の「不動明王像」を祀る越中の名刹「大岩山日石寺 ニッシャクジ」が在る。

「大岩山日石寺」の創建は神亀2年(725年)に行基が開いたと伝わり、昔、立山山岳信仰が隆盛を極めた時には「大岩山日石寺」は 21社60坊の大寺で在ったと云う。天正年間に上杉謙信に焼き討ちされて焼失したが正保年間(1644〜1648年)に「弘寒和尚」により再興された。加賀藩の治世になり、前田利常が祈願して子宝が授かった事から、前田家の祈願所となって建物が再建された。本尊の「国指定重要文化財大岩山日石寺磨崖仏」は「不動明王像」、「矜羯羅童子コンガラドウジ・制咤迦童子セイタカドウジ」の 二童子像、「阿弥陀如来像」、「僧形像」の5体で構成される。高さ3メーターを超える巨大な「不動明王像」とその足元の2メーター以上の高さの「矜羯羅童子・制咤迦童子」の二童子像は行基の自作と伝わる。(実際は平安時代末期の作の様だが、その巨大さ、精巧さ、荘厳さに思わず頭が下がる威圧感がある。)

大岩山日石寺磨崖仏の「不動明王像」は、その両肩の上の位置の岩に二ケ所の穴が在るが、これは、かつての建物の梁がここに差し込まれていた痕跡だ。更に、不動明王像をよく見ると、この不動明王の向かって左上の場所の岩が大きく削り取られている。この事に気付いた参詣者は少ないと思うが、何とこの削り取られた岩は、加賀藩の指示で磨崖仏の「不動明王像の写し」を彫られて、加賀藩の江戸藩邸(板橋宿下屋敷に大岩と云う小山がある。)に戸室石の石室に納められて祀られていたのだ。絶対的な権力を欲しいままにした加賀藩の異常な暴挙だ。この「不動明王像」は、平成初期に旧加賀藩の江戸藩邸(下屋敷)が某生保に売却された時に、藩邸の庭の築山の上に石室が発見され、専門家が調査した所「越中国上市大岩山不動明王像」と判った。協議した所、前田育徳会での管理はできないとして「大岩山日石寺」に遷佛される事になり、江戸藩邸の解体を請け負ったゼネコンの費用で日石寺に遷佛された。その時、日石寺の本堂は全て締め切られ、本尊の不動明王像の前では厳かに「遷佛会」が行われた。真っ暗の中に密教の祭壇が設けられて、「護魔法要」が執り行われ、真っ赤な炎が大きな 磨崖仏の「不動明王像」を浮き上がらせて神秘的な「遷佛会」が執行された。平成17年になって、本堂の左手に「愛染堂」が建立され、遷佛された「加賀藩の不動明王像」は「愛染明王」と共に安置される事になった。


加賀藩江戸下屋敷に祀っていた「大岩不動尊」の写し


加賀藩の板橋に在った「江戸下屋敷図」


加賀藩江戸下屋敷には「大岩不動尊」を祀った「大岩」と云う築山や赤丸浅井神社が鎮座している「赤丸山」と言う小山が在った。(※「赤丸浅井神社」の掲額は「加賀藩第十三代前田斉泰」の揮毫によるもの。)




「延喜式内社赤丸浅井神社」の両部神道時代の古い仏像と「前田斉泰」揮毫の「浅井神社」の掛軸。


加賀藩は利常が信仰して以来、代々の藩主は、輿入れがあると「日石寺本堂」の後ろに在る「参籠堂」に、嫁いで来た姫君を数ヶ月間参籠させて、花嫁教育と受胎祈願をしたと云う。「参籠堂」には加賀藩の受胎祈願の為の密教秘具が錦地に包まれ、漆塗りの箱に遺されている。 又、本堂奥の六角形の建物「大日堂」には昭和時代にあの著名な画家の「棟方志功」が「参籠」している。その時に、棟方志功はこの日石寺の「不動明王像」の版画を彫り「法眼志功」と記して、この大日堂に籠って彫った何枚かの彫刻の原盤と落款印を日石寺に寄進したと云う。


「越中国大本山大岩山不動明王」棟方志功作

大岩山は、夏場には冷たい「ところてん」と「ソーメン」が門前の宿坊で食べられる楽しみもあり、修行の為の「六本滝」「十二支の滝」は夏場には一般人で賑わう。近くには「大岩不動の湯」や「大岩湯神子温泉」等の温泉宿もあり、上市町の黒川地区の丘陵地には「穴の谷霊場」がある。参道から約30m下の谷間には石像の薬師観音堂が在って、その薬師如来像の右横から湧き出ている「穴の谷霊水」は、霊水として万病に効用があるとされ、毎年全国から多くの人が訪れる人気スポットだ。この水は酸性で「水が腐りにくい」としてコーヒーや湯茶用に、或いは何かの効用を期待する人が訪れる。この水を使用した「穴の谷醤油」は独特の風味で人気がある。


門前の宿案内図

門前の茶店、宿

(※掲載の写真、案内図は「大岩山日石寺」の了解を得て、転載しています。)

真言密宗大本山 大岩山日石寺
〒930-0463 富山県中新川郡上市町大岩163 
Tel:076-472-2301 076-472-4950(事務所) 
Fax:076-473-2221
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🌸🏯「求麻外史」に登場する「中山次郎重継」!! ⇒「赤丸名勝誌」(※「国立国会図書館」)に見られる「赤丸浅井城城主 中山次郎重実」との関係?

2017-06-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






■「赤丸名勝誌」には、「赤丸浅井城を累代居城とした越中石黒氏(※藤原氏こ)は北条氏を忌みて新川郡に去り、『中山次郎重実』がこの時期に浅井城に入った。」とされる。「赤丸名勝誌」ではこの中山氏は「秩父平氏」とされるが、敦賀に落ち延びた「中山氏」や高岡市羽広に残る「中山氏」はその系図で「藤原氏」、「源氏」と称している。
(※「越中石黒氏が新川に去った」とされる事から、石黒氏は石黒氏同族の越中宮崎氏を頼んで新川郡に移ったと見られる。)
「越中吉岡庄」は『承久の乱』を引き起こされた「後鳥羽上皇の庄園」で在った為に、「越中宮崎氏」や「越中石黒氏」等の越中諸将は後鳥羽上皇側で戦ったが北条軍に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐島に流され、越中諸将は降伏している。

■「求麻外史」に拠ると、時期的に「吉岡成佐」(※「吾妻鏡」)の後に源頼朝家臣の「相良氏」が「蓮華王院領越中吉岡庄」の地頭として配置されたと見られる。「相良氏」は系図に拠ると「藤原氏」としており、「承久の乱」で幕府側で戦い、その時に「相良氏に従った中山次郎重継」が見られる事から、この「求麻外史」に登場してくる「中山氏」も「藤原氏」で在ったと見られる。

■北条氏と争い、源実朝将軍に付き従った相良軍に討ち滅ぼされた「畠山重忠」は源義経の正室に成った「川越氏」と共に「秩父平氏」で在ったが、重忠亡き後に畠山重忠の未亡人と源氏の足利義純は婚姻して後の能登畠山氏の元に成った。従って畠山重忠は秩父平氏だが、その後は源氏の足利一族に成っている。
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🔴 消え行く伝承!! 越中の「赤丸村」のものがたり!!

2017-06-07 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
輝かしい歴史を誇る「越中吉岡庄」に伝わる伝承
1.「宝永誌」※加賀藩の奉行が書いた記録

●浅井城に元正天皇二宮が在城された事
●元正天皇二宮が浅井神社に「毘沙門天」を祀られた事。

2.福岡町教育委員会が発行した浅井神社、浅井城の物語「赤丸のおおむかで」










高岡市が広域合併し、旧高岡市の歴史が喧伝される中、被合併の市町村の文化が忘れられて行く事に甚だ危惧を感じる。高岡市と福岡町は対等合併と聞かされていたが、周辺の市町村の文化は忘れられ、中心市街地のみの開発が進められ、周辺市町村は過疎化、高齢化に歯止めがかからない。行政の姿勢によって遠からず周辺は原野になってしまうのか? 交通体系、教育・通学環境の偏在にも歯止めがかからない。敢えて古い伝承を検証して何故古い伝統は壊されていったのかを検証し、反省すべきである。
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🌅 📚 越中に繁栄した『利波臣(石黒氏)』と蘇我氏の系図ー「古事記」から!!

2017-06-07 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
元明天皇の時、和同元年(708年)に日本で初めて(皇朝十二銭の第1番目にあたる。)といわれる銅貨(銀貨もある)の「和銅開珎」が鋳造、発行された。「延喜式内社五位庄五十三ケ村総社赤丸浅井神社」はその娘の「元正天皇」の時に創建された。




「古事記」に記載される「高志の利波臣」や「武内宿禰」「蘇我氏」等の系図。


越中に繁栄し、その後石黒氏として継承された「利波臣」の系図について、実際に「古事記」等でルーツを確認された事があるだろうか?  石黒氏は「武内宿禰」を祖とするとする説や、「藤原利仁」を祖とするという意見など幾つかに分かれ、石黒氏の系図は各所に散見されている。「古事記」の中にそのルーツは明示されているのだが、この「古事記」については「壬申の乱」を経て即位された「天武天皇」が、「諸氏が保有する帝紀と本辞は真実からかけ離れた虚偽を付け加えたものが多いと聞いており、今、その誤りを改めないと幾年も建たない内にその趣旨は滅びるだろう。帝紀と本辞は国家行政の基本であり、天皇徳化の基本であるからそれらを討究し撰録し偽りを削り実を定めて後の世に伝えようと思う。」と仰せられたのが動機で編纂が始まったと伝えられている。「帝紀」とは「帝王日継」であり、「本辞」とは「先代旧辞」の事である。そこで28歳の「稗田阿礼」に帝紀と本辞を読み習わせられたが、天皇が変わっても帝紀と旧辞の撰録は行われなかった。その後、持統、文武帝を経て元明天皇になると天皇はこれを惜しみ、和同4年(711年)太朝臣安万侶に対して稗田阿礼が暗誦している帝紀と旧辞を撰録して献上せよと命じられた。これは、天智天皇の「近江令」、天武天皇の「浄御原律令」、文武天皇の「大宝律令」と大化改新の制度が徐々に整備されつつあったのだが、国家の歴史を正しくする事だけが残されていた事から、天武天皇の子の草壁皇子の妻で天智天皇の娘である元明天皇としては為さなくてはならない国家事業であった。その結果、「帝王日継」と「先代旧辞」を三巻に統一併合した「古事記」が和同5年(712年)正月28日に完成して献上されたのだ。


この「古事記」を正確に読むと、「高志の利波臣」は孝霊天皇の子の「日子刺肩別命」の長男で、「角鹿海直 ツヌガノウミノアタイ※福井県敦賀の語源」は弟であり、蘇我氏の祖の武内宿禰は孝霊天皇の子の孝元天皇の孫である事が判る。これを見ると越中の大族の「利波臣」は「武内宿禰」よりむしろ一世代古く、「開花天皇」や越中に蝦夷討伐で赴いたと伝わる「大彦命」とは従兄弟に当たる近い関係である。この系図を見ると、加賀の林臣、能登に繁栄した長谷部の君、蘇我石川宿祢、紀国造(紀氏)、大入杵命(能登の臣の祖)、尾張連等との関係が解かってくる。

【学者の間では「古事記」は藤原不比等の策謀により作り上げられた「偽書」であるとする説もある様だが、当時としては暗誦や引き写しに頼るしか歴史を伝える術がなかった事を思えば、錯誤や写し間違えは起こりうる事だ。しかし、逆に室内で文書だけを当てにして歴史を検証している「学者」は現地踏査や古文書の原文調査が不完全で、誤った伝承と推測に頼った検証で歴史を構成しているものも見られる。しかも、歴史はどちらの側に立って検証するかに拠って正誤、善悪が全く逆転して、しかも強力な政治権力が意図的に作るケースもあって、いつも100%の真実とは限らない事を覚悟すべきだ。】

●赤丸浅井神社には、文武天皇の子で、元明、元正天皇が母代りとなった「石川朝臣広成の創建=元正天皇二宮の創建」との由緒が残されている。元正天皇の養老年間(712~723年)にはこの二宮が当地に駐屯され、東国33ケ国の統治に当たられたと伝わり、元正天皇と言えば岐阜県(美濃の国)に行宮を建てられ、行幸された時に有名な「養老の滝」を命名された天皇と伝わる。「石川朝臣広成」の母親は蘇我石川磨呂の一族の娘「石川刀自娘 イシカワノトジノイラツメ」で文武天皇の妃で在ったが、藤原不比等の娘の宮子が「連」の藤原氏の娘だったからか「夫人 ブニン」にしかなれなかった。(天皇の末裔の種族は「臣 オミ」とされていた。「連 ムラジ」は職能集団で藤原氏は神事に奉仕する種族で在った。)文武天皇は25歳の若さで亡くなったが、その時に「首皇子(オビトオウジ 後の聖武天皇)」は7歳の若さだった為に天皇に即位するには若すぎた。天智天皇の実の子(✳「大鏡」には天智天皇が妊娠中の側女を中臣鎌足に授けた事が記載される。)で在った「藤原不比等」は、何としても首皇子を天皇に即位させる為に、「妃」とされていた紀竈娘(キノカマドノイラツメ)と石川刀自娘(イシカワノトジノイラツメ)を追い落として宮廷から追放した。(✳「続日本紀」に拠れば二人の「妃」はその後「嬪」にされ、追放の記事には「嬪と名乗らざらしむ」と記載される。)その時、同時に追放された石川刀自娘の子は文武天皇の皇后に擬制されて母親代わりをした「元正天皇」が「天皇の子は全て親王とする」とした「勅令」を出して、「石川朝臣」と賜姓して「内舎人 ウドネリ」として聖武天皇の側近とし、「恭仁京」等に赴任し、その後、更に「高円朝臣広世」と賜姓されている。(✳「続日本紀」)
⇒「元正天皇」は聖武天皇即位後も「太后」として院政を敷き権力を持った。
(石川朝臣広成が詠んだ歌は万葉集に3首掲載されている。)
赤丸浅井神社には「元正天皇の二宮は東国33ヶ国を治められ、浅井神社を創建された。」と「浅井神社三社記」に記載されて伝わっており、越中国司となった大伴家持も恭仁京で「内舎人」として就任していた事がある。


《蘇我氏末裔の石川氏と越中》



石川氏は「越中国司」として着任しており、高岡市近接地に在った「東大寺庄園鹿田庄」の近くには「石川豊成」の庄園か在り、その子とされる「石川真守」は越中国司として着任している。



●「刀自」とは「家計を取り仕切った者」という意味があったらしい。当時は女姓が家事を取り仕切った為に主婦を指す。赤丸浅井神社の神官の墓碑銘にも記載されており、現在も神官の墓碑銘には「刀自 トジ」「娘・郎女 イラツメ」等が刻まれている。








赤丸村城ケ平古墳には兵庫県文堂古墳・埼玉県の稲荷山古墳等と同時期の「大彦の遠征」の時代と思われる冠頭太刀や多くの人骨が埋葬されていた。
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🔷🔹🔹『南朝の牙城』⇒ 上皇の庄園「越中吉岡庄」と『延喜式内社赤丸浅井神社』(富山県高岡市福岡町赤丸村)!!

2017-06-01 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「越中吉岡庄」の「赤丸浅井城」には興国三年、後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が入られたと云う。




「赤丸浅井城」(イメージ )


●その時に歌われたとされる「宗良親王のお歌」

「李花集」宗良親王の御歌
興国三年越中国にすみ侍りし頃、羇中百首よみ侍ける歌の中に神祗を
かそふれば七とせもへぬ頼みこしななの社のかけを離れて



「後醍醐天皇の庄園」『越中吉岡庄』に入られた宗良親王は、この庄園に「極楽寺」や「日吉社」等の多くの寺社を創建されたと伝えられる。
【主神 八河江比売神 高皇産霊神】







🔴「赤丸浅井神社の七の社の伝承」は「延喜式内社 郷社 赤丸浅井神社」が以下に示す数多くの祭神を併せ祀っている事から来ている。
「赤丸浅井神社祝詞と赤丸の管理神社」は以下の祝詞にも記載されている。
●「赤丸浅井神社祝詞」(併 祭神)
掛巻毛畏支比乃御社尓添弖(そえて)齋比奉利座寸奉畄。神皇産霊(かむみむすびの)大神。八幡(やはたの)大神。相(あへ)殿(どの)尓(に)座(ま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。熊野(くまのの)大神。
八幡(やはたの)大神。天満(てま)大神。八幡(やはたの)大神。諏訪(すわの)大神等(たち)。日吉(ひよしの)大神等(たち)。愛宕(あたごの)大神。白山(しらやまの)大神。富士大神。庚能(かなへの)大神。
赤丸舞谷(まへのや)入會(いりあへ)尓座(ま)寸(す)。清水(きよみづの)大神。向野新(むかへのしん)尓座(ま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。石名田尓座(いしなだにま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。麻生谷(あそや)尓座(ま)寸(す)。熊野(くまのの)大神。少名彦(すくなひこの)大神。諏訪(すわの)大神。八幡(やはたの)大神。西廣谷(にしひろたに)尓(に)座(ま)寸(す)。
白山(しらやまの)大神。天照(あまてらすの)大神。諏訪(すわの)大神。沢川尓座(そうごうにま)寸(す)。愛宕(あたごの)大神。東石堤尓座(ひがしいしづつみにま)寸(す)。八幡(やはたの)大神。笹川尓座(ささがわにま)寸(す)。丹生川(にふかわ)大神。熊野(くまのの)大神。高田島尓座(たかたじまにま)寸(す)。五位庄(ごいのしょうの)大神等乃(たちの)。御前乎遥尓(はるかに)拝美奉利弖。畏美々々毛白左久。敷座畄氏子等乎。守利恵美給倍止稱言竟(おえ)奉良久止白寸。
●赤丸浅井神社管理の宮
・愛宕社 祭神 軻愚突智命
赤丸村古谷五四〇二(古村)
・清水社 祭神 大巳貴命  清水山鎮座
赤丸村古谷五三六三(古村)
●赤丸浅井神社に合祀されている神
(明治四十二年合祀)
・神明社 祭神 天照大御神
赤丸村向野新村字石名田八一八番(向野新村)
・神明社  祭神 天照大御神
赤丸村焼田六七一四(鞍馬寺)
・八幡社 祭神 誉田別尊
赤丸村砂田六二九〇(鞍馬寺)
・熊野社 祭神 伊弉諾命
赤丸村古谷五〇三一(古村)
・天満社 祭神 菅原道真
赤丸村子吉三八七三(古村)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村縄田二五一七(川原)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村草安五七五三(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山彦命
赤丸村焼田六六一九(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山媛命
赤丸村古谷五二七五(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村勝負田一四五四(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村山王四三九八(古村)
・富士社 祭神 木花咲夜比売命
赤丸村山王四五〇六(古村)
・白山社 祭神 白山媛命
赤丸村古谷四八三八(古村)
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