赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

越中吉岡庄(後の五位庄)の源頼朝関係者 !!

2016-05-19 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


越中吉岡庄には源頼朝の関係者の文書や家臣の一族が移り住んだ痕跡が多い!! 
1、越中吉岡庄、「吉岡成佐不法の事」--「吾妻鑑」
吉岡庄の地頭、吉岡成佐が後白河上皇の庄園の吉岡庄で不法を働き、源頼朝が交替させた経過が「吾妻鑑」に記載されている。
2、越中吉岡庄の地頭「小田氏知」が高岡市石堤村の「長光寺」を開いたと云う伝承がある。
3、越中吉岡庄の土屋村の豪族「小山氏」は源頼朝の家臣で有ったが、結城氏の乱で吉岡庄に逃れたという由緒を持つ。「小山氏」は土屋村で「運信寺」を開基し、土屋村では「十村役」を歴任し、「おやっさま」と呼ばれる名門である。(※「小山氏由緒」)
4、「吉岡庄」の「二位の渡り」では、源義経が奥州下りの際に検問で怪しまれて弁慶に扇子で打擲されたという有名な場面が有り(義経記)、後にこのシーンは有名な「勧進帳」の場面として歌舞伎でも演じられている。この時の関守は平権守と云う。頼朝には秩父平氏が従っており、赤丸浅井城には鎌倉時代に秩父平氏の中山氏が入城している。(「義経記」では「五位庄」の出来事とし、歌舞伎では「小松の安宅の関」の出来事としているが、何れも後日に著作されたものの為、正確な場所、時代を反映していない。)

「義経東下り絵図」※中尊寺蔵 では義経と弁慶の手配絵が関所に掲げられている。越中吉岡庄の「二位の渡し」での場面か?? 「幸若舞」の「安宅」でも”弁慶は黒かった”とされており、義経は笈を背負った強力に変装して油紙で作った雨合羽を掛け、経文を入れる肩箱を載せた姿だったと云う。「能」の「安宅」では一行は十二名とされている。
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