赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

越中の名刀「宇多国光」と「郷義弘」⇒「越中吉岡庄」の赤丸村三日市に住んだ宇多派の刀剣!!

2016-05-29 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
「越中吉岡庄(赤丸村領)三日市に古入道宇多国光が移住し、多くの名刀を産出した。」






越中吉岡庄の中心地であった赤丸村の城ケ平遺跡の山裾には「鍛冶屋町島」「鉄砲島」等の古い地名が残る。今は一面、農地になっているが、この山裾には現在、高岡市のJR駅南に有る全国的に著名な慶派仏師の作と云われる「国指定重要文化財木造千手観音坐像」が安置されている「崇徳山総持寺」の旧跡、「観音堂遺跡」があり、周辺には後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王の居宅址と伝わる「親王屋敷址」や、宗良親王の創建と伝わり現在は高岡市博労町に有る「極楽寺」が初めて創建されたと云う「極楽寺址」、宗良親王が勧請されたと伝わる「下加茂社址」*通称は加茂宮という地名 が残り、往時の繁栄を偲ばせる。吉岡庄の中心は浅井城や赤丸浅井神社が有った赤丸村で有り、延喜式内社赤丸浅井神社は三日市村、高田島村、国吉村、小矢部市宮島村等も含む五位庄53ケ村の総社とされていた。特にこの宇多刀工が住んだ三日市は赤丸村に隣接し、江戸期にも「赤丸村領三日市」であり、「加賀藩の米蔵」があった。三日市と小矢部川の渡船場があった赤丸村向野新村の「五位の渡し」は重要な施設であり、三日市には古くから著名な刀工の宇多派が住んだと云う事も繁栄した理由の一つかも知れない。地元には今もその遺作の刀剣・槍が残り、鎌倉期の刀剣は特に「古宇多」と呼ばれる。古書に「古入道国光、大和(奈良)の国宇陀郡より越中吉岡庄三日市へ移住」とあり、高岡市福岡歴史民俗資料館には宇多勝国作の「槍先」が保管され、小矢部市には指定文化財刀剣である神明社蔵の「宇多国宗天文六年二月作の刀剣」も残る。著名な「宇多刀」の中には、荒木又右衛門が鍵屋の辻の仇討ちで使用した宇多国家作の脇差しがある。鳥取県鳥取市新品治町176に在る荒木又右衛門の菩提寺の玄忠寺には「荒木又右衛門遺品館」が在り、ここにはその脇差しが陳列されている。
越中国吉岡庄三日市には1317年頃(後宇多上皇)から江戸期迄栄えた国光を祖とする宇多派刀匠の一派がおり、飛騨や富山等にも技術が広がったと言う。当時の「後院領越中吉岡庄」の領家は後宇多上皇であり、その時に神話に出てくる「宇陀郡」から刀工を呼び寄せたものと見られる。
(※「宇多国光」本国は大和。 宇陀郡より三日市に移住。古入道という。)
越中松倉郷[越中国新川郡松倉郷(現在の富山県魚津市)]にも著名な刀鍛冶集団の「郷義弘」が住んだが、この一波は著名な「正宗」派に繋がるともされるが、一方、宇多古入道国光に師事していたと伝わる。宇多の刀は無銘も在るが、多くが「宇多」と刀の握り部分に彫り込まれ、「郷義弘」は殆どが無銘の為、古刀の中には宇多刀が相当多いとされる。中には長さを切り詰めて銘を消しているものもあり、宇多鍛冶が長期に亘り続いた為に名刀とされる刀の中にも宇多刀が多いとされる。古来から越中は蝦夷討伐の前線であった為、河川から砂鉄が大量に採れた事と、刀に混ぜて強度を上げる為の微量元素が採れた事から、武器としての刀製作が盛んだった様だ。出雲伝説の、須戔鳴尊(スサノオノミコト)が「高志の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」の尾を切り裂いて「草薙の剣」を得たと言う伝説は、河川が多く在り、砂鉄を多く産した高志国の河川から多くの刀剣が製作されていた事を表している。「出雲の国」からも大量の「鉄剣」が発見されているが、「高志国」からは、当時既に「鋼」を用いた「鋼剣」を産出しており、高志国には既に大陸から新しい技術が導入されていたと云う。それを大和朝廷が手に入れた事を[須戔鳴尊(スサノオノミコト)が「高志の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」の尾から剣を得た]物語にしたものと云われる。
赤丸村を含む「越中吉岡庄」は白河上皇の時に上賀茂神社の庄園になり、その後、藤原摂関家領となり、後白河上皇以来は後醍醐天皇迄上皇領「後院領」、「天皇領」として続き、後には下鴨神社や、足利義満以後には相国寺(金閣寺)や等持院領等になり、赤丸浅井神社は聖護院派山伏として門跡寺院の聖護院に長く米を献上し続けていた。「越中吉岡庄」は歴史的に天皇家や中央の権力者の庄園であった為、権力者が必用とした武具の生産も欠かせない産業だったと思われる。又、吉岡庄や五位庄は歴史的な戦いが続いた地であり、石黒氏、神保氏、寺嶋氏、向田氏、池田氏、柴田氏、柴氏、中山氏、小田氏、小山氏等の国人領主が多く居た事から大量の刀剣を必要とした地域であった事も、これ程著名な刀鍛冶が江戸時代迄の長期に渡って繁栄した背景に在る。宇多刀は武功を上げた者への報償品や献上品等としても独特の波紋や質実剛健の風合いの造り等から、武将に喜ばれ、豊臣、徳川の時代にも多くの名刀が権力者に引き継がれていたと云う。
※「後醍醐天皇」と「文保和談」(1317年・文保元年): 後宇多上皇は、花園天皇の退位を迫り、尊治(後醍醐)を即位させた。翌1318年(文保二年)、後宇多は邦良(後醍醐天皇皇太子)を立坊した。邦良には健康の問題があった為、その弟の邦省(後二条天皇の第二皇子)が1321年(元亨元年)に元服し、「皇嫡-第二の皇胤」として認められたという。後醍醐天皇の父の後宇多上皇は、天皇位・皇太子位の全体を統御したが、1324年(元亨四年)には崩御した。その為、関東申次職(源頼朝の姪の嫁ぎ先として婚姻関係にあった西園寺家当主による事実上の世襲。)の西園寺実衡はこの流れに反対し、持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)を鎌倉幕府に推挙し、元弘元年(1331年)の元弘の変によって後醍醐天皇が隠岐に流された時に鎌倉幕府は光厳天皇を即位させている。
※宇多(宇陀):神武天皇が東征の時、中州(なかつくに)に入られて険しい山道に入られた時、神皇産霊の霊である八咫烏が道案内をして遂に菟田の下郡(うだのしものこおり)に着いたと云う神話がある。
※大覚寺統:「越中吉岡庄」は大覚寺統に受け継がれた。後宇多天皇は真言密教に帰依し、大覚寺には自ら著した自筆本の「国宝後宇多天皇宸翰弘法大師伝」が残されている。その子の後醍醐天皇は父の後を受け継ぎ、真言密教に帰依して東寺長者の文観に教えを受け、自ら重宝の「空海が唐から持ち帰った法衣」を着用する等、熱烈な信者となり、自ら真言密教の修法を執り行ったと云う。
※岡山県赤盤郡瀬戸町鍛冶屋は南北朝の頃に刀工集団が住み着き、「吉岡庄」と呼ばれ、ここから産した刀剣は「吉岡一文字」と呼ばれる名刀であり、福岡一文字則房らの発祥の地とされる。 しかし、この集団はある時期を境に突然姿を消したと云う。又、この近くにはあの著名な刀剣「備前長船」を生み出した 岡山県瀬戸内市長船町がある。 この「吉岡庄」と「越中吉岡庄」は著名な刀工を生み出した事でも共通性がある。全国に残される「吉岡庄」が何故「吉岡」と名付けられたかは不明である。









前田島から発掘された大量の古銭



「福岡町埋蔵文化財調査報告書」(高岡市教育委員会)

日本刀の製作は、鉄と炭素の他にニッケル、バナジューム、マンガン、タングステン、モリブデン、硅素等の内、一から二以上の適量の元素を含有した特殊鋼を苦心の火作りによって鍛え上げ独特の焼入れによって斬味を出すもので、小矢部川流域には上流から流れてくる砂鉄とマンガン、モリブデン等の鉱物が取れた事からその流域には「宇多刀工」が広範囲に住み着き、赤丸村三日市を中心として、小矢部、礪波、国吉等に広く工房を構えていた様だ。宇多派は1317年から1880年頃迄続き、百数十人の刀工の名前を数えると云う。江戸時代には恩賞用として銘を削られ富山松倉郷に住んだ「郷義弘」や「佐伯則重」に鍛ち変えられたものも多いと云う。
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