赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💠越中南朝派の名刀「宇多国光」⇒古代から刀剣を伝える「越中吉岡庄」の赤丸村領三日市に住んだ宇多派の刀工!!

2018-02-12 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村







●「越中の刀工」で著名な刀工は「越中吉岡庄鍛冶屋町島」(※富山県高岡市福岡町赤丸)に奈良県から移り住んだ「宇多国光」を祖とする「宇多派」と、富山県魚津市の「松倉郷」の「郷義弘」、富山市五福の「呉服」に住んだ「佐伯則重」がいる。
特に「宇多刀工」は南北朝の頃から江戸時代迄続いたとされ、「宇多派」の刀剣は戦国時代を経て多くの名刀を生み出した。しかし、南朝の刀工として後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」等で作刀した「宇多派」は室町時代以降の北朝の時代には厳しい批判も在ったと言われ、刀剣としての価値も低く評価されたとも云われる。















★「赤丸浅井城」と、後醍醐天皇の「第八皇子宗良親王」が滞在されたと伝わる「赤丸城ケ平山」の親王屋敷跡の至近距離に、「宇多刀工」が工房を構えたと伝わる「鍛冶屋町島」が在る。


★「越中宇多派祖 宇多国光の孫に当たる 宇多国宗 の刀」


●富山県高岡市福岡町赤丸の「城ケ平古墳群」からは神武天皇の軍隊が使用したとも伝わる「頭椎太刀 カブツチノタチ」他の多数の刀剣が出土しており、その遺跡の在る城ケ平山の麓の赤丸村領三日市には南北朝の頃、大和国宇陀郡から刀工の一団が移り住んでその系統は江戸初期迄の長い間、富山県に残っていたと言う。城ケ平山の麓には現在も「鍛冶屋町島」と言う地域が在り、近年、高岡市の「西山歴史街道事業」としてこの場所には案内看板も立てられている。尚、「頭椎太刀」の残存部分に付いては、現在、東京国立博物館の所蔵と成っている。



■『宇多派刀工』
大和国宇陀郡に伝説の古代刀工「天国 アマクニ」を祖とする刀工集団が繁栄した。此処には「神武天皇」を大和国に導いた「ヤタカラス」を祀る『八咫烏神社』が在り、南朝の「後醍醐天皇」が崇敬されたと言う。この宇陀郡に繁栄した刀工の中で「宇多国光」は当初、加賀に移り、後に越中国利波郡(赤丸村領)三日市に移り創作したとされる。この時に「越中吉岡庄」は後醍醐天皇の庄園で在り、南朝の牙城として「赤丸浅井城」には後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王が入城されて、赤丸村舞谷の極楽谷に「越中宮安養山極楽寺」(現在高岡市博労町3-22)を創建されたと言う。
後醍醐天皇の時に源氏長者になった清和源氏「北畠親房」は、伊勢国司の家で在り、大和国宇陀郡の国人「秋山氏」、「芳野氏」、「沢氏」は和州宇陀三人衆と呼ばれて、当初は北畠家の与力で在ったが後には家臣になったとされる。北畠親房は南朝の忠臣として後醍醐天皇の側近として活躍し、後醍醐天皇第八皇子宗良親王が出陣されると同時に出陣した。
(※後醍醐天皇は宇多源氏の五辻家の血を継ぐ。常盤御前→娘廊御方→五辻家→後醍醐天皇)

■宗良親王は、後醍醐天皇が隠岐に流された時に、自らも讃岐に流される道中に在り、後醍醐天皇と別れがしたいと申し入れるが警護の者達が赦さなかった。「後醍醐天皇」はこの話を耳にした時に、「尊澄法親王」と成って出家させていた「宗良親王」を不憫に思われ嘆かれたと伝わる位に南朝の結束は固かった。明治に入り、三種の神器を継承した南朝の正統性を「明治維新政府」は帝国議会で決議しており、この時に宮内省では南朝の牙城の赤丸村等の南朝所縁の地域を調査して、南朝第三代長慶天皇を正統な天皇と認めて「皇統譜」に掲載している。(※増鏡」)

■北畠親房は「神皇正統記」を著して天皇家の正統性に付いて書いている。宗良親王は興国三年には越中へ入られて、後醍醐天皇庄園の「越中吉岡庄」の越中石黒氏居城「赤丸浅井城」に入城され、城ケ平山の「親王屋敷」に滞在されたと言う。吉岡庄の城ケ平山の麓の「鍛冶屋町島」には南北朝の頃、「宇多刀工」が栄えたと伝わる。恐らくは宗良親王が将軍として全国を転戦された時には大量の武器が必要で在った為に、小矢部川流域から産する砂鉄を利用して、宇陀郡から吉岡庄へ刀工を呼び寄せて刀を鍛えさせたものと思われる。
「宇多刀」は「黒い地金」が特徴で在り、富山市の佐伯則重や松倉郷の義弘等の刀が明るいのと反対だ。(※「宝永誌」)
又、「吉岡庄」の領主で在った「後鳥羽上皇」の母の「七条院」は大和国宇陀郡の庄園領主で在った事から、大和国宇陀郡の刀工にとっては吉岡庄も馴染みの地で在ったかも知れない。「後鳥羽上皇」はこよなく「刀」を愛でられて、自らが作刀され、月番の「番鍛冶」に作刀させてその刀には大好きな「菊花」を刻印された為にこの刀は「菊一文字」と呼ばれる。「越中吉岡庄」は「後白河上皇」以降、後鳥羽上皇~後醍醐天皇迄伝領した上皇の庄園で「後院領吉岡庄」と呼ばれた。後醍醐天皇は後鳥羽上皇以来の庄園「越中吉岡庄」の領主で在った。
後醍醐天皇の父は諡を「後宇多上皇」と呼ばれ、「宇多」を冠している。神武天皇所縁の大和国宇陀郡と天皇家との長い歴史が背景に在って、宇多刀工の一部の「宇多国光」が「吉岡庄」へ来て作刀を始めたものと見られる。
その後、「越中吉岡庄」は南北朝末に「越中五位庄」と変わるが、足利一族の内紛で「足利尊氏」と争った弟の「足利直義」は一族の「越中守護桃井直常」を味方にして戦い、「越中五位庄」で北朝側と激戦を交わし、この戦いで敗れた「桃井直常」は以後、消息が判らなくなったとされている。この激戦は「群書類從」(※「塙保己一著」)の中の「花栄三代記」に「五位庄の戦い」として記載される程の激戦で在った。
その後、越中、能登では守護畠山氏の相続争い等から起こった「応仁の乱」や、上杉謙信、武田信玄、織田信長軍の越中・能登侵攻等の大規模な戦争が長く続いた為に、刀の武器としての需要は江戸初期迄も続いたとされる。

■宇多刀工系図には、「古入道宇多国光は吉岡庄三日市に住した」とされるが、曾て「三日市地区」は「赤丸村領」で在った事と、城ケ平山の山地は赤丸村、三日市村、加茂村の山地が飛び地と成って点在する為に、外的にはその山地の地番の確認は難しい。



■「越中吉岡庄」の中心施設で在った「郷社 総社 延喜式内社赤丸浅井神社」は、皇室の主要な神の「正一位 高皇産霊神(高木神)」を祭神とする文武天皇二宮(聖武天皇の弟)の創建とされる古社で在り、白河上皇の時には「上賀茂神社」の庄園にも成っていた。赤丸城ケ平古墳群からは神武天皇の軍隊が使用したと伝わる「頭椎太刀」も出土している。(※現在は東京国立博物館で常設展示されている。)









■「延喜式内社赤丸浅井神社」
(※後白河上皇以来続いた上皇の庄園「越中吉岡庄」の中心施設で、隣接地には古代の山城跡の「赤丸浅井城跡」が在る。この城は「義経記」では「如意の城」として登場して、南北朝時代にはこの城に後醍醐天皇の皇子宗良親王が在城されたと言う。)



■【越中 宇多刀工系図】
系図では「宇多派刀工の祖」とされる「宇多国光」は当初、加賀に住まいしたが、後に南北朝期に越中吉岡庄三日市に移り住んだとされ、「宇多派」は応仁の乱に至る室町時代初期から越中での作刀を活発に行っている。越中は「応仁の乱」の原因でも在った越中、能登守護で足利一族の畠山氏の所領で在り、膨大な刀剣の需要が在った。畠山一族は越中も一族で分割統治したが、一族間の抗争も激しく、一族で相争う時代が長く続き、引き続く戦国時代には越中の刀剣は必要度を増していた。
(※「越中吉岡庄」は当初、「吉岡庄」と呼ばれたが、三代将軍足利義満の時辺りからは「五位庄」として見える。⇒「東寺百合文書」)










◎[室町時代には「足利義満」が越中五位庄を「相国寺」に寄進して底地は守護畠山満家に預け置かれ、越中の新川郡・砺波郡は富山市太田保(広域合併前の富山市域)蜷川郷に居城を構えていた越中蜷川氏(蜷川新右エ門親当)が統治したとされる。]
⇒従って、宇多刀工が「太田住」とされるのは明らかに蜷川氏の所領の太田保の事だろう。

室町時代の守護家能登畠山家の統治絵図では、高岡市中田の地域を含む「般若野庄」の中に「五位の東庄」を含んだとされ、この時期には「利波郡」は「五位の西庄」と「五位の東庄」に分かれていた様で、足利義満が「相国寺」に寄進した「五位庄」は福野町野尻を含んでいたとされる。(※「東寺百合文書」)蜷川氏が統治した利波郡は畠山基国の所領の「五位の西庄」(※小矢部市~福岡町赤丸~高岡市守山~伏木港)と見られる。

■NHK大河ドラマ「眞田丸」に登場する「小山田信茂」の「赤雲の太刀」は「初代宇多国光の刀」であった。
(http://www.nipponto.co.jp/)



 








■「越中吉岡庄(赤丸村領)三日市」に「古入道宇多国光」が移住し、江戸時代に至る迄「宇多派」は多くの名刀を産出した。






■越中吉岡庄の中心地であった赤丸村の城ケ平遺跡の山裾には「鍛冶屋町島」「鉄砲島」等の古い地名が残る。今は一面、農地になっているが、この山裾には現在、高岡市のJR駅南に有る全国的に著名な慶派仏師の作と云われる「国指定重要文化財木造千手観音坐像」が安置されている「崇徳山総持寺」の旧跡、「観音堂遺跡」があり、周辺には後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王の居宅址と伝わる「親王屋敷址」や、宗良親王の創建と伝わり現在は高岡市博労町に有る「極楽寺」が初めて創建されたと云う「極楽寺址」、宗良親王が勧請されたと伝わる「下加茂社址」(※通称は加茂宮という地名 )が残り、往時の繁栄を偲ばせる。吉岡庄の中心は浅井城や赤丸浅井神社が有った赤丸村で有り、延喜式内社赤丸浅井神社は三日市村、高田島村、国吉村、小矢部市宮島村等も含む五位庄53ケ村の総社とされていた。特にこの宇多刀工が住んだ三日市は赤丸村に隣接し、江戸期にも「赤丸村領三日市」であり、「加賀藩の米蔵」があった。三日市と小矢部川の渡船場があった赤丸村向野新村の「五位の渡し」は重要な施設であり、三日市には古くから著名な刀工の宇多派が住んだと云う事も繁栄した理由の一つかも知れない。地元には今もその遺作の刀剣・槍が残り、鎌倉期の刀剣は特に「古宇多」と呼ばれる。古書に「古入道国光、大和(奈良)の国宇陀郡より越中吉岡庄三日市へ移住」とあり、高岡市福岡歴史民俗資料館には宇多勝国作の「槍先」が保管され、小矢部市には指定文化財刀剣である神明社蔵の「宇多国宗天文六年二月作の刀剣」も残る。著名な「宇多刀」の中には、武田24将の内の七人の弓矢の談合衆と呼ばれた「小山田信茂」は有名な「赤雲」と名付けられた「越中吉岡庄三日市住初代宇多国光作」の刀を使用した。 又、織田信長家臣の「明智光秀」が使用した刀は「宇多国宗作」であり、「荒木又右衛門」が鍵屋の辻の仇討ちで使用したのは「宇多国宗作」の脇差しであった。鳥取県鳥取市新品治町176に在る荒木又右衛門の菩提寺の「玄忠寺」には「荒木又右衛門遺品館」が在り、ここにはその脇差しが陳列されている。

越中国吉岡庄三日市には1317年頃(後宇多上皇→後醍醐天皇の父)から江戸期迄栄えた「宇多国光」を祖とする宇多派刀匠の一派がおり、飛騨や富山等にも技術が広がったと言う。当時の「後院領越中吉岡庄」の領家は後醍醐天皇の父の「後宇多上皇」~「後醍醐天皇」であり、その時に神話に出てくる「宇陀郡」から刀工を呼び寄せたものと見られる。
(※「宇多国光」;本国は大和国宇陀郡。 「小矢部市史」の「宇多刀工系図」に拠れば、宇陀郡より加賀→三日市に移住して古入道と云われる。)

■ 越中松倉郷[越中国新川郡松倉郷(現在の富山県魚津市)]にも著名な刀鍛冶集団の「郷義弘」が住んだが、この一波は著名な相州新藤五国光の弟子の「正宗」派に繋がるとされるが、一方、この刀剣には「大和伝」の様子が見られる事から大和国宇陀郡から越中へ移住した宇多古入道国光に師事していたとも伝わる。宇多の刀は無銘も在るが、多くが「宇多」と刀の握り部分に彫り込まれ、「郷義弘」は殆どが無銘の為、古刀の中には宇多刀が相当多いとされる。中には長さを切り詰めて銘を消しているものもあり、宇多鍛冶が長期に亘り続いた為に名刀とされる刀の中にも宇多刀が多いとされる。古来から越中は蝦夷討伐の前線であった為、河川から砂鉄が大量に採れた事と、刀に混ぜて強度を上げる為の微量元素が採れた事から、武器としての刀製作が盛んだった様だ。出雲伝説の、須戔鳴尊(スサノオノミコト)が「高志の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」の尾を切り裂いて「草薙の剣」を得たと言う伝説は、河川が多く在り、砂鉄を多く産した高志国の河川から多くの刀剣が製作されていた事を表している。「出雲の国」からも大量の「鉄剣」が発見されているが、「高志国」からは、当時既に「鋼」を用いた「鋼剣」を産出しており、高志国には既に大陸から新しい技術が導入されていたと云う。それを大和朝廷が手に入れた事を[須戔鳴尊(スサノオノミコト)が「高志の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」の尾から剣を得た]物語にしたものと云われる。
(※出雲にも 八岐大蛇の出現した淵といわれる所がある。⇒何故「高志の」と記載したものか? 大和朝廷が高志の国から鋼剣を得た事を表しているものと思われる。 )

■「古事記」には「高志乃八俣遠呂智」とされ、神宝の「草薙剣」は「高志国」の剣で在るとしている。古くから「高志国」には既に「鋼鉄剣」の技術が在ったと見られる。



■赤丸村を含む「越中吉岡庄」は白河上皇の時に上賀茂神社の庄園になり、その後、藤原摂関家領となり、後白河上皇以来は後醍醐天皇迄上皇領「後院領」、「天皇領」として続き、後には下鴨神社や、足利義満以後には相国寺(金閣寺)や等持院領等になり、赤丸浅井神社は聖護院派山伏として門跡寺院の聖護院に長く米を献上し続けていた。「越中吉岡庄」は歴史的に天皇家や中央の権力者の庄園であった為、権力者が必用とした武具の生産も欠かせない産業だったと思われる。又、吉岡庄や五位庄は歴史的な戦いが続いた地であり、石黒氏、神保氏、寺嶋氏、向田氏、池田氏、柴田氏、柴氏、中山氏、小田氏、小山氏等の国人領主が多く居た事から大量の刀剣を必要とした地域であった事も、これ程著名な刀鍛冶が江戸時代迄の長期に渡って繁栄した背景に在る。宇多刀は武功を上げた者への報償品や献上品等としても独特の波紋や質実剛健の風合いの造り等から、武将に喜ばれ、豊臣、徳川の時代にも多くの名刀が権力者に引き継がれていたと云う。

※「後醍醐天皇」と「文保和談」(1317年・文保元年): 後宇多上皇は、花園天皇の退位を迫り、尊治(後醍醐)を即位させた。翌1318年(文保二年)、後宇多は邦良(後醍醐天皇皇太子)を立坊した。邦良には健康の問題があった為、その弟の邦省(後二条天皇の第二皇子)が1321年(元亨元年)に元服し、「皇嫡-第二の皇胤」として認められたという。後醍醐天皇の父の後宇多上皇は、天皇位・皇太子位の全体を統御したが、1324年(元亨四年)には崩御した。その為、関東申次職(源頼朝の姪の嫁ぎ先として婚姻関係にあった西園寺家当主による事実上の世襲。)の西園寺実衡はこの流れに反対し、持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)を鎌倉幕府に推挙し、元弘元年(1331年)の元弘の変によって後醍醐天皇が隠岐に流された時に鎌倉幕府は光厳天皇を即位させている。

※宇多(宇陀):神武天皇が東征の時、中州(なかつくに)に入られて険しい山道に入られた時、神皇産霊の霊である八咫烏(ヤタガラス)が道案内をして遂に菟田ウダの下郡(ウダノシモノコウリ)に着いたと云う神話がある。

※大覚寺統:「越中吉岡庄」は大覚寺統に受け継がれた。後宇多天皇は真言密教に帰依し、大覚寺には自ら著した自筆本の「国宝後宇多天皇宸翰弘法大師伝」が残されている。その子の後醍醐天皇は父の後を受け継ぎ、真言密教に帰依して東寺長者の文観に教えを受け、自ら重宝の「空海が唐から持ち帰った法衣」を着用する等、熱烈な信者となり、自ら真言密教の修法を執り行ったと云う。

【※岡山県赤盤郡瀬戸町鍛冶屋には南北朝の頃に刀工集団が住み着き、「吉岡庄」と呼ばれ、ここから産した刀剣は「吉岡一文字」と呼ばれる名刀であり、福岡一文字則房らの発祥の地とされる。 しかし、この集団はある時期を境に突然姿を消したと云う。又、この近くにはあの著名な刀剣「備前長船」を生み出した 岡山県瀬戸内市長船町がある。 この「吉岡庄」と「越中吉岡庄」は著名な刀工を生み出した事でも共通性がある。全国に残される「吉岡庄」が何故「吉岡」と名付けられたかは不明である。⇒越中射水郡を統治していた京都祇園社領の地頭の「宮道氏」は後に富山市の大田保を治めて現在の富山インターの近くに「蜷川城」(※現在の最勝寺)を構え、室町幕府将軍足利義満の縁者として活躍した蜷川新右エ門の一族は蜷川郷の近くの「吉岡村」で「吉岡」と名乗っている。「蜷川系図」には「蜷川の本家は吉岡」と記されており、蜷川氏は室町時代に入ると「新川郡」と「利波郡(五位庄)」(※「吉岡庄」は南北朝末期から「五位庄」)を領したと伝わり、「蜷川氏」の一族の「吉岡氏」との関係が考えられる。京都の「宮道氏」や「蜷川氏」は大族で在り、各所に一族が広がっている。】














■赤丸村から高岡市関町に動いた「槌の宮」は「宇多刀工」の氏神と見られる。
(※「富山県神社誌」)

・この神社の御神体は「刀剣」であると神官家には伝わっている。(※「大木白山社」高岡市大工中町)
・『槌の宮』の隣接に在る「総持寺」や「天景寺」も赤丸村から動いている。

・「宇多家」一族の菩提寺は高岡市柴野「三光寺」に在り、本家のみが「宇多」を記している。








近くの前田島から発掘された大量の古銭



「福岡町埋蔵文化財調査報告書」(高岡市教育委員会)

■日本刀の製作は、鉄と炭素の他にニッケル、バナジューム、マンガン、タングステン、モリブデン、硅素等の内、一から二以上の適量の元素を含有した特殊鋼を苦心の火作りによって鍛え上げ独特の焼入れによって斬味を出すもので、小矢部川流域には上流から流れてくる砂鉄とマンガン、モリブデン等の鉱物が取れた事からその流域には「宇多刀工」が広範囲に住み着き、赤丸村三日市を中心として、小矢部、礪波、国吉等に広く工房を構えていた様だ。小矢部川上流の医王山は現在も鉄の鉱床を残すとされ、この水系から大量の砂鉄が採れた様だ。宇多派は1317年から1880年頃迄続き、百数十人の刀工の名前を数えると云う。江戸時代には恩賞用として銘を削られて、富山県魚津市の「松倉郷」に住んだ「郷義弘」や富山市五福に住んだ「佐伯則重」に鍛ち変えられたものも多いと云う。
『富山県』 ã‚¸ãƒ£ãƒ³ãƒ«ã®ãƒ©ãƒ³ã‚­ãƒ³ã‚°
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