赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴📚📖 『吾妻鏡』に登場する越中の古都『後院領 越中吉岡庄』⇒[後白河院]、[後鳥羽天皇]、[源頼朝]、[源義経]達の舞台と成った上皇の庄園『越中吉岡庄』の記録!!

2017-07-18 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村




『越中吉岡庄』(「赤丸村浅井神社」を郷社とする→南北朝後期から『五位庄』)は、「義経記」の『勧進帳』の原点にもなった庄園で、鎌倉~南北朝時代迄は「越中吉岡庄」と呼ばれ、後白河院から後醍醐天皇迄、皇室の庄園で在った。









【吾妻鏡 要約】

■文治元年、源頼朝は義経と共に平家追討で活躍したが、頼朝は叔父の源行家を追討する様に命じ、義経はこれに反対する。義経は後白河院に参内して逆に頼朝追討の宣旨を下す事を願う。義経の申請により、十月十八日には後鳥羽天皇が義経、行家に対して頼朝を追討する様に命ずる宣旨を与える。これに対して頼朝は二十五日、源行家、義経を誅殺する為に後家人達を派遣する。義経一行の逃亡の旅が始まる。十一月七日、後白河院は頼朝の優勢を見て行家・義経の追討宣旨を発給された。十一月二十五日、後鳥羽天皇が行家・義経の追討宣旨を下す。十一月二十八日、北条時政が諸国に守護、地頭を配置をする事を後白河院近臣の藤原経房卿に申し入れる。二十九日、後白河院が守護、地頭の配置を許す。十二月六日、越中の知行国主を「藤原光隆卿」に代える。義経の愛妾「静御前」を京都の北条時政の元へ送る。文治二年三月、静御前を母の磯禅師と共に鎌倉へ送る。二年四月八日、畠山重忠が銅拍子を担当して静御前が舞を舞う。二年六月二十一日、頼朝諸国守護地頭の停止を申し出る。越中、加賀、能登等三十七ケ国は守護、地頭を停止。七月二十九日、静御前が産んだ義経の赤子を由比浦に棄てさせた。十一月、頼朝は義経探索について源範頼を育てた熱田大宮司「藤原範季」や後白河上皇の皇子「守覚法親王」が義経探索に協力していない事を疑った。文治二年十月には大政官布告を出して全国の国衛、庄園での地頭の非法、濫妨を停止する様に命じた。文治三年三月十日、義経が奥州の藤原秀衛を訪ねている事が分かった。

■文治三年三月二日、後白河院から院の側近藤原経房卿を通じて「越中吉岡庄の地頭吉岡成佐が不法にも収穫を院庁に納めて来ない。早く何とかする様に!」とする奉書が源頼朝宛に到来した。これに対して源頼朝は「早急に対策を講じる」と後白河院に回答した事が記載されている。
【「吾妻鏡 」 [ 和泉書院 版]が発刊された。(「吉川資料館所蔵版」岩国市)】



『政治』 ã‚¸ãƒ£ãƒ³ãƒ«ã®ãƒ©ãƒ³ã‚­ãƒ³ã‚°
コメント   ã“の記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« ðŸ“• 🐎 源氏の「二人の義経」... | ãƒˆãƒƒãƒ— | ðŸŒ¸ã€éš ã•ã‚ŒãŸçœŸå®Ÿã€‘越中五位庄... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。