赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴 後白河上皇庄園『後院領』の「越中吉岡庄」⇒富山県高岡市福岡町※[南北朝以降は越中五位庄に]!!

2017-06-14 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸

「天皇行幸絵図」






天皇が使用された鳳輦(ほうれん)と「唐車」(からぐるま)
⇒ 『鳳輦』 は、「屋根に鳳凰の飾りのある天子の乗り物」を意味する言葉で古くから天皇の正式な乗り物。 お付きの人達が担いで運んだ。 ※「御神輿」の形
※写真記載の「帝室博物館」は現在の「東京国立博物館」



上皇が使用された「唐車」⇒屋根が「びんろうじゅ」で葺かれた車。何故「びんろうじゅ」の葉が用いられたか? ⇒「人皇初代神武天皇」の父は「鸕鷀草葺不合尊 (うがやふきあえずのみこと) 」と云う。







●「輿車」(ヨシャ)は朝廷で利用された「牛車」で上皇、天皇、中宮、皇太子、関白等が使用された牛車で色々な車が在った。乗る時には後ろから乗り、降りる時には牛を外して踏み台を設置して前から降りると言う約束事が在った。


●様々な「輿」(コシ)





「越中吉岡庄」が寄進された蓮華王院(三十三間堂)や相国寺(「金閣寺」はその塔頭寺院)



『越中吉岡庄』は藤原摂関家長者「藤原頼長」の庄園で在ったが、「保元の乱」で後白河上皇に敗れて、以後、上皇の庄園「後院領」として「後鳥羽上皇」から「後醍醐天皇」迄、伝領した。「鎌倉遺文」には後白河上皇の時に上皇が創建された蓮華王院三十三間堂の維持の為に「越中吉岡庄」を「蓮華王院」(※三十三間堂)に寄進されていた事が記載されている。


「洛中洛外図屏風」(部分)の「蓮華王院」・「三十三間堂」

(「赤丸浅井神社」には一条天皇の時に勅使「川原左京」を遣わされ、浅井神社の左右に桜の木1対をお手植えされた。[※「浅井神社三社史」]
→この桜は昭和初期迄残っていた。
この「川原左京」は当時、一条天皇の叔父に当たる「河原町の左京大夫」で在った「藤原道長」を指すと見られる。⇒左京大夫は京の都の左半分を統治した役職で、一条天皇の統治時代は藤原道長がその職に在った。)この言い伝えから、赤丸はこの時代には既に藤原氏と密接だったと見られる。この後に、白河天皇の時に上賀茂神社の庄園となったがその後、再び藤原氏の庄園になっている。
※「藤原頼長」は「道長」と「頼通」の一字を取って名付けられた。

●「越中吉岡庄」は「後醍醐天皇の皇子の宗良親王が赤丸浅井城に在城の時に吉岡庄を五位庄と改名された」と加賀藩の「宝永誌」は伝えている。

●五位庄になった後、室町幕府将軍足利義満は「越中五位庄」を義満が創建した京都「相国寺」に寄進されて、その後も、足利家菩提寺の「等持寺」「等持院」に寄進され、足利家家臣で越中蜷川庄の蜷川新衛門の統治下に在ったと「蜷川村誌」は伝えている。蜷川新衛門は「一休さん」にも登場する人物で、富山市の高速道路富山インター周辺を所領として越中の西礪波郡を統治したと言う。














加賀藩の奉行が報告書を纏めた「宝永誌」に、「吉岡庄」から「五位庄」に改名された様子が記載されている。(※南砺市福光町図書館所蔵の写本参照)

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