赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴🌸 後白河上皇以来の皇室の庄園「後院領越中吉岡庄」と富山県西部の東大寺荘園!!

2017-07-12 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「平成26年東大寺正倉院展」には「越中こて(くぼ)田村荘園図」が展示された!!」
平成26年の正倉院展にはあの有名な「鳥毛立女屏風」と共に、富山県高岡市に在った「東大寺
こて(くぼ)田村荘園図」が多くの荘園図の中から全国で唯一、出展され、東南院古文書 第3櫃 第28巻〔越中国諸郡荘園惣券第1〕」も併せて展示された。珍しい展示物としては聖武天皇が護身用に持っていた「杖(直刀を仕込んだ長尺の仕込み杖)」も展示された。

※













2014年度「第66回正倉院展」(奈良国立博物館)では高岡市南部の十二町島・林付近の「越中国射水郡こて(くぼ)田野地図」※又は「㑨田野地図」 が出展された。高岡市の周辺にはこの他にも高岡市立野地区の「杵名蛭庄」、山沿いには「須加庄」、JR高岡駅南の下関・赤祖父地区には「鳴戸庄」、高岡市と射水郡大門町の間辺りに「鹿田庄」が有り、この他にも高岡市から砺波市にかけては「井山庄」、「伊加流伎庄」、「石粟庄」等の多くの東大寺荘園が有った。又、「赤丸浅井神社」や射水市の「櫛田神社」庄川町の「雄神神社」等に収穫物が献上されこれらの神社の名前がこれらの荘園図に記載されている。これらの荘園は全て小矢部川、庄川水系に沿って開発されていた。 
※「くぼ田村・くぼ田野墾田地図」については1999年以来の出品。
※「くぼ田、こて田」は「俣」の人偏を木編に書くが当用漢字には無い。又、他の文書には「㑨田村」と記載されているものも有る。

「くぼ田村」の比定地の十二町島・林、戸出付近には「仏閣の印」である「法輪」を社印とする「神明社」や地域の公民館等があり、この地域が古くから寺院との関係が深い事を感じさせる。「法輪」は仏教に用いられる事が多いが、そのマークが神社に掲げられているのは珍しい! 「法輪」とは「仏教の教義を他人に伝えること」を意味した言葉で、「法輪」や「卍」の印は仏教のシンボルとされ、寺院の飾りにも使用される。十二町島の「神明社」は「天照大神」を祀り、御神体は古い「神像」だと云う。十二町島・林付近は往古、庄川から小矢部川に流れ込む千保川の流域に在った中洲であり、その下流の鴨島という地域には国宝の瑞龍寺や総持寺、天景寺等がある。十二町島は現在、40町歩位の集落で、農地解放迄は石高200石の島家が所有していた様で、その総本家は北海道に移転し、今は一族が多く残る。「くぼ田村」は「越中国東大寺惣券」※「寧楽遺文下巻」には「くぼ田村地壱伯参拾町捌段壱伯玖拾弐歩 東西北伯姓口分 南礪波射水二郡堺 開田参拾肆町壱伯玖拾弐歩 未開玖拾陸町捌団」※「くぼ田村地130町8段192歩 東西北百姓口分 南礪波射水二郡堺 開田34町192歩 未開地96町8段」となっており、実際の範囲は130町歩を超える広大な範囲だが、未開地も96町歩近く有ったと云うから、実際は現在の十二町島とよく似た石高が開発されていた事が判る。
※高岡市荒見崎の宮川神社の瓦屋根の棟にも十二町島の「神明社」と同じ「法輪」の印が付けられており、恐らく、その昔この地域も東大寺荘園の「くぼ田野庄」と考えられる。高岡市教育委員会では1992年3月にこの地域の文化財調査を行っているが、この地域が元の東大寺荘園とは認識していない。しかし、国立文化財機構発行の資料では「佐野、十二町島等」の位置を東大寺荘園の「くぼ田野庄」に比定している。

🌑高岡市立野地区の「杵名蛭庄」については、平成29年に成って「国立歴史民俗博物館」の「日本庄園データーベース」に新たに追記された。




東大寺と越中は特別な関係に有る。礪波郡の名前の元になっている「利波臣志留志」は東大寺大仏の造営に米5000斛(※1斛サカは10斗=約180リットル 。石 コク。※「東大寺要録」)、大伴家持は越中国司の時に「陸奥の国に金を出だす詔書を賀く歌一首并せて短歌」のあの有名な「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍--」の歌を聖武天皇に捧げている。聖武天皇は大仏に鍍金する金の不足に悩んでいたが、丁度、東北から金を産出したとの朗報がもたらされた。聖武天皇がその詔の中で大伴、佐伯氏が防衛の為に朝廷に尽くした事を讃えた為に、返書として天皇に贈った歌である。この歌からも当時の越中の大伴氏が防衛上からも朝廷にとって如何に重要であったかが窺われる。
「※万葉集巻十八のこの歌には「右の一首は大伴宿彌家持作る」と記載されているが「高岡市史」はこの歌は元々大伴氏、佐伯氏の家訓であって、大伴家持が作った歌ではない?と否定している。「万葉歴史館」を建てて高岡市の歴史の中核に置いている高岡市が万葉集を否定しているのも違和感のある事だ。
[※「東大寺要録」では利波臣志留志が大仏造営の為に米五千斛サカ=石コク を寄進したとし、「続日本紀」では当初、米三千石を寄進し、後に更に庄園100町を寄進したとされる。これは合計では約五千石に相当する。尚、文書によっては石を[碩 セキ]と記載されているものもある。]


東大寺は墾田4000町歩迄の所有が認められるとすぐに「法師平栄」を派遣し諸国の荘園を点検した。これらの荘園の管理は在地の郡司や土豪の力に依存し、年貢の納入も国司を通して送付されていた。越中には東大寺荘園の30%近くが在ったと云われ、全国的には計23カ国、93箇所に上り、その内北陸道には31箇所、越中には10個所の東大寺荘園が在った。高岡市周辺にはその内、5箇所の荘園が在ったと云うから庄川・小矢部川河口流域の高岡市周辺が如何に東大寺と密接で有ったかが判る。
※「万葉集巻十八」には「天平感宝元年の五月の五日に、東大寺の占墾地使の僧平栄等に饗す。時に、守大伴家持、酒を僧に送る歌一首」が有り、僧平栄をもてなした記載が有る。これ等の東大寺庄園図には、「利波臣志留志」の署名も有り、大伴家持と利波臣志留志が東大寺庄園の拡大に共に貢献した様子が窺える。
※「越中の東大寺荘園」は礪波郡、射水郡に各4ヵ所、新川郡に2ヵ所に分布しており、砺波市の荘園は庄川流域に、高岡周辺の荘園は庄川、小矢部川流域に展開していた。

◎「越中吉岡庄」の「国吉名」に在ったと見られる「東大寺須加村墾田地」。「浅井城の城主中山氏が国吉の龍に復讐され亡くなった」と云う伝承から古くは国吉も浅井城中山氏の所領で、この地区には藤原摂関家、後白河上皇、後鳥羽上皇~後醍醐天皇領であった広大な「越中吉岡庄」が展開していたと見られる。「国吉名」は平家統治時代はかの平家物語にも見られる「越中次郎兵衞」が居館を構え、越中と能登を統治していたと伝えられ(※「国吉小史」)、後鳥羽上皇が起こした「承久の乱」の戦勝の報奨として越後の武将「五十嵐氏」に与えられた。(※「吾妻鏡」に土地所有権についての係争の記載がある。)
●「赤丸浅井神社」に伝わる五位庄53ケ村には「国吉郷26ケ村を含む」為、往古は「赤丸浅井神社」の神域と見られる。国吉の信光寺には赤丸浅井城の城主と竜の伝説が伝わっており、この辺りも「赤丸浅井神社」の神域だった事が窺われる。

●加賀藩の時代は五位庄57ケ村であり、五位庄は広大な範囲で有り、加賀藩士富田景周が書き記したと伝わる「加越能三州地理志稿」に拠れば、江戸時代の「五位庄」は「四日市、柴野、十日市、江道、境、山川、廣谷、勝木原、澤川、淵ケ谷、田名原、小野、六郎谷、花野(花尾)、栃谷、上栃谷、西明寺、上向田(鍛冶町・田ノ子・上野)、下向田、土屋、山岸、鳥倉、西、高畠、加茂、馬場、三日市(荒田町・大野島・大野)、赤丸(谷内・次兵衛島)、舞谷、石堤(谷内・六日市)、麻生谷、東石堤、渡、内島(池田・新屋敷)、蜂ケ島、大源寺、福田六家、六家、樋詰、柴野内島、立野町、中保、駒方、駒方新、小竹、下開発、上開発、今市、宮野腰、三ケ、後正寺、須田、壹歩貮歩(二歩)、下老子、笹川(荒又・出来野)、高田島(荒又・出来野)、福岡、四十萬、稗島、下蓑、荒屋敷、土田新、以上 五十七村属五位庄」とされている。因みに砺波郡は高岡市和田村迄を含んでいた。和田村は江戸期に赤丸村の住民を移動させ、和田佐吉が開発している。国吉村は往古から赤丸浅井神社の管轄する地域であり、「吉岡庄」の時代は国吉郷26ケ村も含んでいたと見られる。(※「赤丸西円の住民移動願い(城端別院文書)」、「赤丸浅井神社由緒」富山県立公文書館所蔵)







◎砺波市の庄川沿いには「東大寺荘園石粟庄」が在り、その中には「浅井神一反」としてその収穫が「延喜式内社赤丸浅井神社」に奉納されていた記録が残る。





◎【砺波市の見解】
「礪波郡の4ヵ所の荘園」-- 礪波郡の井波、庄川地域には4ヵ所の東大寺荘園が在ったとしている。石粟庄、伊加流伎庄、井山庄についてはいろいろな説が有るがほぼ意見は一致している。しかし、杵名蛭庄については高岡市内、井波市内と大きく意見が異なる。
1.杵名蛭(きなひる)庄--井波町今里、川原崎、戸板辺り(※砺波市、南砺市の見解)
2.井山(いやま)庄--砺波市庄川町の雄神神社近くの雄神橋から三谷までの地域。現在の庄川本流の下も含む。利波臣志留志が東大寺に寄進。後にこの地域を含む大野郷となる。
3.伊加流伎(いかるぎ)庄--砺波市柳瀬、下中条方面。現在の庄川本流の下も含む。12世紀には狩城庄。現在の砺波インター周辺。近くに比売神社が在る。
4.石粟庄--砺波市東般若地区の東保から高岡市中田町今泉辺り。元は橘奈良麻呂の荘園だが藤原仲麻呂の打倒に失敗して没収され、東大寺荘園になった。ここには「浅井神一段」と「赤丸浅井神社」の神田が表示されている。




●砺波市の見解では「杵名蛭庄」の比定地を上記の位置としていたが、国立文化財機構(国立博物館・文化財研究所の団体)では高岡市と砺波市の境界に近い高岡市市野瀬地内に比定している。近年、砺波市の見解としても、金田章裕説に基づいて【当初想定していた場所は高瀬神社周辺の「高瀬遺跡」であり、「杵名蛭庄」は砺波郡と射水郡界の砺波郡内に在った全く別の庄園であろうとする意見】が有力になっている。(「杵名蛭庄」については正倉院宝物の中に絵図が保存されている。)


●しかしながら、国立文化財機構では「杵名蛭庄」の位置を高岡市と砺波市の境界に近い高岡市市野瀬地内に比定しているが、実際に小矢部市に保管される古図や河川・神社等の現地を調査すると、この場所は元「吉岡庄」「五位庄」であった「赤丸村の小矢部川対岸の元の向野新村も含む高岡市立野、高田島、池田、東石堤地区」が想定される。この部分は後に東五位と呼ばれた地区を中心に展開していたものと推定できる。正倉院絵図には「速川」という川が見られるが、この川は中世には「ソフ川」と古図に記載され、その後には「祖父川」となって現在に至る。「祖父川」の下流の小矢部川河口地域には現在も「早川」という地名が現在も残る。





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