赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🎌🔴「後醍醐天皇の八宮宗良親王随臣石黒氏」と五位庄赤丸村「赤丸浅井神社」!!

2017-07-11 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村


真っ赤な夕陽は後醍醐天皇八宮宗良親王が滞在されたと伝わる赤丸城ケ平と言う西山の一角に沈む。この下には親王屋敷跡と宗良親王が創建されたと伝わる極楽寺(現在は高岡市内)跡と極楽谷がある。正に毎夕方にはこの一帯が西方浄土を具現化した極楽浄土の様相になる。


現在は高岡市博労町に在る「越中宮極楽寺」は「高岡市史」では当初、牧野に創建され後醍醐天皇の三回忌を親王が営まれたとする。しかし、「李花集」に掲載される「忍びきや いかに越路の牧野なる 草のいほりに やとからんとは」と言う歌から推定すると、この時点の屋敷はいかにも急こしらえのもので、「極楽寺」もどこかの古寺で在ったかも知れない。
赤丸浅井神社の川人貞良神官(昭和16年没)は高岡総持寺の千手観音像が昭和12年に国宝になった時に、宮内省や歴史学者が赤丸村を調査した時に、資料調査、現地調査に中心的に協力された方で、南朝の長慶天皇(後醍醐→後村上→長慶天皇)の史跡調査も御手伝いされた。その著作「長慶天皇の御事跡」で、宗良親王が著された「李花集」の研究もされているが、通説とされている「牧野の御遺跡に就いて」は、親王の歌とされている次の歌については、
【「思ひきやいかに越路の牧野なる 草のいほりに宿からんとは」との御歌は射水通覧をはじめ諸書に見えているが、新葉集にも李花集にも載っていないもので、実は宗良親王の御歌ではないのである。そればかりではない。射水通覧をはじめ諸書に載する牧野における親王の御遺跡というは何れも徳川時代末期に虚構されたものである。】と記載されている。親王の歌で、牧野で詠まれた歌があり、牧野を経由されたとしても、牧野で宿舎と極楽寺が建てられた証拠はない。親王の住まいを埋めたと伝わる「樸館塚」なる遺跡も、当時の習慣として果して建物を埋めたと云う事は信じられない。当時は木材が貴重で、古い文化財の建物は殆どが旧い建物部材を使用している。むしろ、親王の住まいの部材を転用して極楽寺を創建されたと言うのなら信憑性がある。 とすれば、「越中宮極楽寺由緒」にある様に、住まいの近くに極楽寺を創建されたとすれば、寧ろ、石黒氏が父君後醍醐天皇の庄園に屋敷を建てて御迎えし、その近くの極楽谷に牧野の仮住まいの建物を移設して「極楽寺」とされたとすれば、理解しやすい。何しろ親王は興国三年に寺泊から海路越中に入られて、興国五年迄の短期間の在留であれば、工期的にもその短期間に寺院は建たなかったとする方が筋は通るだろう。この辺りの伝承も、何とか赤丸村に在った事を伏せる為に加賀藩が考えたとも考えられるのだ。

「越中宮極楽寺」の伝承では、「二百数十年間の間には赤丸村に在った」としており、その後、後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」に赤丸村で、石黒氏の居城「赤丸浅井城」の近くに「親王屋敷」が整備され、極楽谷には本格的な寺院が建立されたと見られる。「高岡市史」が「牧野で創建→守山に移転→高岡市の現在地に移転」としているのは、佐々成政の支援者の赤丸浅井城が在った赤丸村の歴史を前田家が消し去ろうとした為だと見られる。前田家は占領地の赤丸村に在った由緒在る寺院を高岡市等に強制移転させ、住民は和田新村に移転させて、徹底的に佐々成政の影響力を排除している。

大正13年11月6日発行の「越中勤王史」(小柴直矩著)という古書がある。この書は東京富山県人会が小柴氏に編纂を依頼し、大正天皇が皇太子の頃の明治42年から大正10年にかけて13年にも亘り地方新聞にも掲載されていたもので、大正13年摂政秩父宮の北陸行啓の時に献上された。
明治維新を経て明治政府は南北朝の昔の後醍醐天皇の親政を範として「南朝を正統とする議決」を帝国議会で可決し、「勤王思想の高揚」「南朝顕彰」の活動が活発になり、越中では「北条一族の名越氏によって現在の高岡市内で暗殺された後醍醐天皇の皇子の恒性皇子」や「越中で南朝の為に援軍を募られた後醍醐天皇の第八皇子宗良親王の事跡」、「後醍醐天皇」、「後村上天皇」、「長慶天皇」の研究が熱心に行われた。この結果、「恒性皇子の墓」は正式に宮内省管理となり、「長慶天皇の遺跡調査」や「宗良親王の業績調査」「元赤丸村創建で南朝と所縁の強い高岡市総持寺の千手観音像の調査」「宗良親王開基の元赤丸村創建と伝わる高岡極楽寺の調査」等、幅広い研究活動が起こっていた。その結果、正式に天皇と認められず「皇統譜」にも載せられていなかった「長慶天皇」は「皇統譜」に載せられ、「総持寺の千手観音像」は国宝に指定された。赤丸村の浅井城や大滝村木舟城は「宗良親王が在城された浅井城、木舟城」として脚光を浴び、この城の城主の「石黒氏」は南朝に味方した「勤王の士」として研究が行われた。
「越中石黒氏」については、本流は織田信長の逆鱗に触れ一族皆殺しの憂き目にあったが、「長谷川」と名乗り名古屋へ逃れて前田家に仕官していたその傍流が加賀藩に仕官していた為、加賀藩の記録にも僅かにその系譜が見られる。石黒氏についてはいくつかの系譜が見られ、不明な点も多い。古代豪族で「東大寺大仏造営に貢献した豪族」とされながら系図が多い為、いろいろ意見が多い士族である。
「越中勤王史」には石黒氏について「倶利伽羅の合戦に驍名を馳せた福光城主石黒太郎光弘の後裔たる石黒左近大夫将監盛行(重之の事か?)、今の西礪波郡の木舟城に籠り同じく後裔たる石黒次郎光景、延元以来同郡浅井城により両士共吉野朝廷に心を寄せたる勤王の武士であっていずれも宗良親王を奉迎したので親王は両城に玉址を止めさせられた。」とある。
南北朝期に後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王を浅井城に迎えたとされる石黒重定、石黒重之、重行の系統は石黒大介孫の石野志気蔵書の「尾張石黒光慶系図」、国立国会図書館蔵書の「諸系譜・石黒系図」には掲載されるが、同系図を採る石黒武重蔵書には見られない等、どの系図にも問題点があるが、「越中勤王史」の木舟城の石黒盛行?(石黒重定、石黒重之、重行)の系統と浅井城の石黒光景の系統の2系統があった事はこれ等の系図から読み取れる。
(✳「石黒左近大夫将監盛行(重行?)」の時代には蘇我氏系・利波臣系の石黒系図(石黒治男蔵)では「石黒左近丞光連」が南北朝期に石黒光景の叔父に見られる。この頃、石黒武重蔵の藤原氏系石黒系図にも「石黒左近丞政成」がおり、その祖父の光吉は桃井直常に従って「源姓」を賜ったと云う。「延元元年・建武三年・1336年」後醍醐天皇吉野に南朝を開く。)

「金沢大学日本海域研究所報告第九号別刷」の【白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」 安達正雄著】という論文に「石黒氏系図」の研究が掲載されている。安達氏は(1)藤原利仁を祖とするもの (2)波利古臣を祖とするもの (3)大伴家持を祖とするもの 等があるとされ、詳細な系図を示された。その中で「石黒伊勢守光景」は「波利古臣を祖」とする系図に記載され、「石黒左近」は「藤原利仁を祖」とする一族に記載されている。両石黒氏系図では石黒光弘の時に合流しているが、石黒光弘の次代には既に後継者が別れている。

注目されるのは本流と見られる「藤原利仁を祖」とし、南北朝期に活躍した「石黒左近大夫将監盛行(重之?)」である。この武将は「大夫」という官職にある。「貞丈雜記 四 官位」に「大夫(タイフ)とは五位の事也」と記載されている。南北朝期に書かれたとされる「義経記」に記載され、五位庄であの有名な弁慶の打擲シーンが有った「源義経」も「佐衛門大夫判官」という「大夫=五位」の官職であった。もっとも、奥州へ落ち延びる義経が赤丸村を通過した時期は「後白河上皇後院領吉岡庄」の時代で有り、正確には「五位庄を経て」ではなく、「吉岡荘を経て」と記載されるべきであった。不思議なのは、あの南朝の後醍醐天皇の皇子宗良親王が「後醍醐天皇の庄園の赤丸村浅井城、親王屋敷」に滞在されたと言われる南朝の時代に、時代の前後はあるとしても、「義経記」が「二位の渡し・如意の城」の在ったこの赤丸村を取り上げている事で有り、背景として、「義経」と「宗良親王」にある同じ様な悲哀を表現したかったのでは無かろうか? 「宗良親王」も北条高時により讃岐国に配流され、帰還して正慶2年には南朝の征夷大将軍となり、興国3年冬(1341年)には越中に入られ木舟城や浅井城にも入城されたと云う。その後、東国各地を転戦され、ついにはその子の伊良親王が信州大河原に於いて敗走して自害、その皇子の良王君も危難に逢われたと云う。宗良親王も義経と同じく各地で目覚ましい活躍をされたが、結局は後村上、長慶天皇が即位され、和歌に通じて「新葉和歌集」等の編纂で名を遺されたものの、悲哀に満ちた流転の親王で在った。(✳「浪合記」参照)
最近迄、「五位庄」とは「石黒氏の祖の利波臣が従五位上員外介に序せられた」事から「五位庄」と名づけられたと云われていたが、南北朝期に「越中吉岡庄」は宗良親王によって「五位庄」と名づけられたと言われる事(✳「宝永誌」)から、この「五位」は「南朝の忠臣石黒左近大夫将監盛行(重行?)」が当時この地域を統治していた為に名付けられたものとも考えられるし、後醍醐天皇の庄園で後白河上皇以来の「後院領」と呼ばれた天皇家の庄園から由来したものとも考えられるのだ。赤丸村が南朝の牙城であり、周辺の土着の武士達も石黒氏を筆頭に宗良親王に付き従うというこの地域と朝廷が一体化したまさに地域全体が砦であったこの庄園を「五位庄」と改名され、その中心となっていた赤丸浅井神社を「五位庄五十三ケ村総社」と定められ、毎年各戸から米一升を赤丸浅井神社に奉納する事を通達されたと伝わる。この習慣は現在も赤丸地区で続き、各戸から秋には米一升相応額の奉納金を納める習慣が続いている。(※「大夫」=五位の官職)
●古く赤丸浅井神社に一条天皇が川原左京を勅使として遣わされて『勅使桜』を神前に植えさせられたと伝わる。この川原左京が一条天皇の叔父の藤原道長で「河原町の左京大夫」で在ったならば、道長も当時は大夫(五位)の低い官職であったから、ここにも赤丸浅井神社に関係して「五位」の官人が見られる。この桜は昭和時代迄生き残り、ご神木として「庚申桜」と呼ばれた名木であった。宗良親王が天皇家に纏わるこの勅使桜を見て天皇家と関わりの強い藤原氏の道長を偲んで「五位庄」と名付けられたものかも知れない。後醍醐天皇の皇子の宗良親王の母は藤原(二条)為子(藤原定家の曾孫二条為世の子)で応長元年(1311年)に誕生している。宗良親王は和歌を得意とされ、越中に滞在された時の歌が親王の「李花集」に遺されている。親王が「五位庄」と名付けられたと加賀藩奉行の記録「宝永誌」に記載されている事から、この見解もあり得る。この桜は「遅桜」とも呼ばれ、地元では花が咲くのを合図に田植えをしたとされるほど、民衆にも深く信仰されていた地域のシンボルであった。

【※「越中吉岡庄」が「五位庄」となったのは最近の研究では後白河上皇の時代から続いた「後院領」であった為、様々な記録から「御いん領」→「御い庄」→「五位庄」になったとする意見がある。しかし、命名については「五位」にまつわるいくつかの理由が在ったのかも知れない。】

又は、この時に既に「義経記」が完成していたならこの著名な場所は源義経の官職の「五位」と石黒氏の官職の「五位」を併せて「五位庄」と名付けられたものかも知れない。
因みに、富山県小矢部市北蟹谷村大字松尾村に伝わる口伝では、「源義経奥州に走る時この地の五位堂に一夜の宿を取った」とされ、義経の官名の「五位」から「五位堂」と呼ばれた様だ。この場所は源平合戦の激戦地の倶利伽羅峠を下りた越中の埴生護国神社の近くである。従って、次の経由地の「五位庄」は「源義経=五位殿」の足跡が遺される石黒氏の居城「赤丸浅井城」を中心とする旧吉岡荘域を指し、この地を義経所縁の「五位庄」と名付けたものか?
※この「五位堂」は現在、小矢部市松永の「比枝社」に合祀されており、境内にはそこから移設された室町期?の「五輪搭」が山積みで放置されている。古老に聞くとその旧地はこの近くに在った台地で、現在はブロック製造会社が整地して農地になっていると云う。今は地元の人達もこの「五位堂」が「義経記」に登場する「松永の八幡社」とは知らない。この神社の祭神は「建御名方神(たけみなかたのかみ)」で「信州諏訪大社」の祭神で、軍神として、また農耕神、狩猟神として信仰され、風の神として元寇の時に諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」で元は水神であったされ、大国主神の二男で長男の事代主神と国譲りに反対して対立し信州に逃れたと云われる。木曽義仲は「後白河上皇の皇子以仁王の子の北陸宮」を保護して、所縁の富山県朝日町に「諏訪社」を勘請した。木曽義仲は以仁王の平家追倒の令旨を受けて蜂起した。
この倶利伽羅谷の戦いは木曽義仲と平氏の激戦地で有り、この地に諏訪社が勘請されたのは木曽義仲に依るものだろう。倶利伽羅谷の近くに木曽義仲が創建したのを知ってか知らずか、今は義仲と同じく源頼朝と対立した義経が一夜の宿をこの神社に請うたのは奇縁だった。「義経記」に「松永の八幡社」と記されたのは「埴生八幡宮の摂社」と考えられたものか? 驚くのは作者が「義経記」でこの様に街道筋から外れた山中の名も無い御堂迄記している事とこの神社が源氏同族で義経が討った木曽義仲所縁の神社と知っていたとすればすごい調査力である。事情を知った人達は、木曽義仲と義経のこの因縁に「人の哀れ」を感じたものだろう。「義経記が創作された物語だ」と云う意見は現地の詳細地理を知らない人達の乱暴な推論でしか無いと思われる。遺された「五輪搭」を見ると、ここには神社の他に、12名?もの義経一行が宿泊できる寺院が在ったものと見られる。(✳「富山県西礪波郡紀要」西礪波郡役所発行 参照)
●「五輪搭」は墓標として室町時代になると小型のものが盛んに造られたと云う。全国的に文化財として保存されているものも有り、「義経」の所縁と伝わる史跡?であれば保存されていないのは観光振興を目指している小矢部市にとっても大変惜しい❗



「赤丸名勝誌」に『(浅井城主)石黒氏は北条氏を忌みて射水に去った。』と記載されている。「富山史壇64号 越中守護名越時有とその所領について 久保尚文著」に鎌倉期に越中国新川郡堀江庄と梅沢、西条、小泉の3ケ村の地頭職をしていた「左近大夫将監秋時」の跡地を興国5年後醍醐天皇の綸旨により祇園社に神領として寄進された文書が掲載されており、北条一族の名越時有も左近将監であったのでこの人物は名越時有と推定されている。しかし、北条一門として名越時有は「守護」で有り、秋時は系図にも見えない。この人物が「地頭」で在ったとされる事から、この人物は石黒氏の可能性は無いだろうか?「大夫」が高々「五位」の位である事からこの時期、各地で地頭職を担当していた「石黒氏」とも考えられる。因みに、この頃、石黒氏の赤丸浅井城にいた一門に「石黒二郎五郎政時」という人物がいた。とすれば、石黒氏は北条氏により、赤丸の地から新川郡に転封されていた事になる。もっとも、上市町周辺に在ったとされる堀江荘は鎌倉時代には頼朝に従った土肥氏が地頭をしていたと言われるので確定はできない。



「大正から昭和12年にかけての赤丸村南朝遺跡調査記事」












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