赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🌸📃「義経記」記載の越中小矢部市の「五位堂」を発見!!

2017-10-08 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村

「五位堂」は元小矢部市松永字前島118番地に在ったが明治44年5月31日に近くの比枝社に合祀された。今はその由緒を知る人も無く遺跡も神社の傍らの土に埋もれていた。その由緒は「富山県西礪波郡紀要」、「富山県神社誌」に載っているが、この遺跡が木曽義仲所縁の信州「諏訪神社」を勧請したもので、「義経記」に載っている「松永の神社」である事も忘れ去られている。




富山県小矢部市北蟹谷村大字松尾村に伝わる口伝では、「源義経奥州に走る時この地の五位堂に一夜の宿を取った」とされ、義経の官名の「五位」から「五位堂」と呼ばれた様だ。この場所は源平合戦の激戦地の倶利伽羅峠を下りた越中の埴生護国神社の近くである。従って、次の経由地の「五位庄」は「源義経=五位殿」(義経の「佐衛門大夫判官」の「大夫」とは「五位」の官位である。)の足跡が遺される石黒氏の居城「赤丸浅井城」を中心とする旧吉岡荘域を指し、この地を義経所縁の「五位庄」と名付けたものか?(※「五位庄」とは「後院領」から「後い庄」、「五位庄」に変化したものとされている。)
この「五位堂」は現在、小矢部市松永の「比枝社」に合祀されており、境内にはそこから移設された室町期?の「五輪搭」が山積みで放置されている。古老に聞くとその旧地はこの近くに在った台地で、現在はブロック製造会社が整地して農地になっていると云う。今は地元の人達もこの「五位堂」が「義経記」に登場する「松永の八幡社」とは知らない。この神社の祭神は「建御名方神(たけみなかたのかみ)」で「信州諏訪大社」の祭神で、軍神として、また農耕神、狩猟神として信仰され、風の神として元寇の時に諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」で元は水神であったとされ、この神は大国主神の二男で、長男の事代主神が大和朝廷に国譲りをする方針を持っている事に反対して対立し、信州に逃れたと云われる。木曽義仲は「後白河上皇の皇子以仁王の子の北陸宮」を保護して、所縁の富山県朝日町に「諏訪社」を勘請した。木曽義仲は以仁王の平家追倒の令旨を受けて蜂起した。(※「富山県神社誌」参照)
この倶利伽羅谷の戦いは木曽義仲と平氏の激戦地で有り、この地に諏訪社が勘請されたのは木曽義仲に依るものだろう。倶利伽羅谷の近くに木曽義仲が創建したのを知ってか知らずか、今は義仲と同じく源頼朝と対立した義経が一夜の宿をこの神社に請うたのは奇縁だった。「義経記」に「松永の八幡社」と記されたのは「埴生八幡宮の摂社」と考えられたものか? 驚くのは作者が「義経記」でこの様に街道筋から外れた山中の名も無い御堂迄記している事とこの神社が源氏同族で義経が討った木曽義仲所縁の神社と知っていたとすればすごい調査力である。事情を知った人達は、木曽義仲と義経のこの因縁に「人の哀れ」を感じたものだろう。「義経記が創作された物語だ」と云う意見は現地の詳細地理を知らない人達の乱暴な推論でしか無いと思われる。遺された「五輪搭」を見ると、ここには神社の他に、12名?もの義経一行が宿泊できる寺院が在ったものと見られる。(✳「富山県西礪波郡紀要」西礪波郡役所発行 参照)
●「五輪搭」は墓標として室町時代になると小型のものが盛んに造られたと云う。全国的に文化財として保存されているものも有り、「義経」の所縁と伝わる史跡?が保存されていないのは観光振興を目指している小矢部市にとっても大変惜しい❗
(※「五位庄」検討のblogより再掲しています。)
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