赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴『北陸七国志』に見る「能登末森の戦い」⇒【高岡市福岡町沢川村の「田畑兵衛」狭導の事】!!

2017-10-05 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
富山県西部について記された「戦記」で、鎌倉時代では「吾妻鏡」、南北朝時代のものには「太平記」や「花榮三代記」(※「群書類従」)等が在り、室町以降の「軍記」には、「北陸七国史」、「北越軍談」、「荒山合戦記」、「末森記」、「越登賀三州史」、「小松軍記」、「富樫記」等の多くのものがある。それらは現在、市販もされておらず、郷土の人達も目にする機会は少ない。これ等の戦記を見ると、越中と加賀、能登がいつの時代にも良好な食糧生産地として、又、大陸との海外交易について重要な地域で在り、戦乱が絶えなかった事が理解できる。
特に越中と能登、越前等を集中的に扱っているものに「北陸七国史」がある。「末森記」はその中でも「能登末森城」での前田利家と佐々成政の戦いについて記し、「荒山合戦記」は前田利家の石動山攻撃と殺戮について記している。





「北陸七国史」(※部分)






(高岡市福岡町)沢川村(ソウゴウムラ)は高岡市と小矢部市の中間に在って、「五位庄」に在り、「赤丸村」、「鳥倉村」、「西五位村」、「小矢部市」から富山県と石川県の間の西山を能登に抜ける間道に在る。この山中には間道が網の目の様に広がり、「沢川村」から「小野村」を過ぎると能登の宝達山の麓に抜ける。その点では「津幡町経由」、「沢川村経由」、「氷見村経由」のルートの内で佐々勢が拠点とした「木舟城」から「守山城」、「柴野城」、「赤丸城」を前線として西山を山越えする為には最短のルートになる。しかも、「小野村」は石川県と富山県の二つに分かれている。
「沢川村」の「田畑兵衛」は元々、平家の末裔で能登にも所領を持っていたと云う。「田畑兵衛」は佐々成政から能登末森城への案内を乞われた時に「前田利家は領地を奪い、賦役をかけて地元の人々を苦しめて来た。だから、末森城への間道を案内する。」と佐々軍に告げて佐々軍を山中の狭い、道無き道に引き込み、散々連れ廻して佐々軍が道に迷うと自分は姿を消してしまう。佐々軍が末森城に到着するのが遅れた間に伝令が前田利家に末森城の危機を伝え、利家は早速末森に応援軍を送った。前田軍の末森城が籠城して佐々軍がこれを攻めあぐねている所に前田軍が駆けつけ、末森城は落城を免れた。この時に末森城を攻めた主力は高岡の「守山城神保氏張、その子清十郎」、「高岡柴野城寺島牛介」とその兄の「斉藤甚助」、「赤丸城中山直治」等で在った。
戦後、「前田利家」は「田畑兵衛」に恩賞として、周辺の山林、田畑を与えて全十村役を取り締まる「無役十村」に任じて、西山一帯を取り締まる「山廻り役」に任命した。苗字・帯刀を許された田畑兵衛は、家臣に準じて加賀藩の慶弔行事に参列する事を認められた。
一方、この戦いで敗れた「佐々成政」は越中に侵攻した「豊臣秀吉」に降伏して、暫く新川郡を知行されたが後には「肥後」に転封され、その後、一揆の鎮圧に失敗して切腹させられた。「守山城神保氏張」は佐々成政と共に肥後に赴いたが成政切腹後、浪々して後に「徳川家康」に仕官して千葉に知行地を貰って旗本として処遇され、「柴野城寺島牛介」は鉄砲の腕前を買われて前田家に仕官し、兄の「斉藤(小島)甚助」は富山市の蜷川村で出家した。「赤丸城中山直治」は前田家への仕官を断り福井県の敦賀に落ち延びたて、その地で今井氏の養子になった。一方、神保氏張に加勢した高岡守山城から柴野城、赤丸城のお膝元の住民は、前田利家が占領すると、西山一帯の住民は高岡市和田新村の開発の為に移住させられ、赤丸村の浄土真宗長善寺は和田の善宗寺、福岡町の長安寺に三分割され、長善寺は僅かの門徒しか残されなかった。しかも、残された住民に対しては、通常は四公六民の税制で四割の課税だったが、この小矢部川西岸の地域には幕末迄「60~75%」もの課税をかけ続けて住民に報復し、赤丸城のお膝元の「舞谷村」と末森城への間道(※「片山大道」)が在った「鳥倉村」に対しては、何と「75%」、その他の「赤丸村」、「頭川村」等にも61%もの課税をかけ続け、長く皇室庄園で優良米を生産して来てその生産額も断突に多かった「赤丸村」は加賀藩の重臣の「長九郎佐衛門」や「前田一族」に知行された。一方、前田利家に内通した田畑兵衛のお膝元の「沢川村」には40%強の低率の課税がかけ続けられて優遇された。
その為に、疲弊した小矢部川西岸地域の「赤丸村」、「舞谷村」、「花尾村」、「鳥倉村」等の住民は明治維新後には続々と多くの住民が北海道に新天地を求めて移住した。この悲惨な様子は最後の赤丸小学校の畠山校長が「赤丸小史」(※福岡町図書館蔵)に纏められて遺されている。長く加賀藩政の後遺症に苦しんだこの地域は、現在も続く高岡市の都市偏重政策の中で、人工減少、高齢化が進展して益々、限界集落に近づいている。 



「赤丸村」、「花尾村」、「鳥倉村」等の住民は明治に入ると続々と北海道へ逃れた。その時の役場の証明書が2016年11月に北海道の開発地域住民から届けられた。




    
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