赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🏯🔹🔹「越中石黒氏」と「木舟城」⇒郷土の歴史書「蓑のしずく」!!

2017-06-16 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
◎越中の古代氏族「利波臣」の末裔⇒「越中石黒氏」
(このHpからの複製、二次利用は禁止されています。)



『加賀藩参勤交代道中懐中絵図』に見られる『赤丸村』と『木舟村』。赤丸村には「赤丸浅井城」、木舟村には「木舟城」が有り、長く石黒氏の居城となっていた。



越中には東大寺大仏の造営の時に「米五千石」を寄進して一躍、聖武天皇の信任を得て、外従五位下となり、七六七年には「利波臣志留志」は「越中員外介」として国司に任じられた。
この古代氏族は越中西部に繁栄し、子孫の「石黒氏」は富山県福光町、福岡町、赤丸村に居城を構えたとされ、孝霊天皇の子孫として、藤原一門、蘇我氏の武内宿弥の子孫の射水臣、利波臣一門等の先頭に立ち常に「国」を愁え、「越中」を愁え、国の危機に立ち上がってきた。富山県の砺波郡、射水郡や石川県の石川郡や江沼郡等を造り上げた各氏族の一門のリーダーとして、常に「承久の乱」や「後醍醐天皇」の「建武親政」等でもいつも天皇側で戦い天皇の忠臣とされた天皇の子孫を唱える一族である。又、この石黒氏は一族の越中の宮崎氏、井口氏、加賀の林氏一門の冨樫氏、石浦氏等の藤原一門と連携して、古くは「源平盛衰記」、「平家物語」にも登場した古代氏族の名門であり、東大寺庄園の30%近くもあった越中の東大寺庄園の開発に貢献して、越中の開発から関わって来ている。この一族は関東から進出した源氏一門の与力として活躍したが、常に「国人」として動いた為、やがて北条一門や足利一門、畠山一門等の臣下に置かれて、上杉謙信、織田信長、佐々成政、前田利家等の戦国武将の下に置かれた為、元々の「石黒氏一門の国の越中の国」の歴史はやがて消え去ろうとしている。
(※金沢の著名な繁華街に『武蔵ケ辻』と云う町がある。これは前田利家の金沢入城の時からついてきた石黒一族が長を勤め、石黒権兵衛の屋敷が在ったと言う。→「金沢古跡史」)

歴史は常に占領した者の都合の良い歴史となり、不都合な勢力の歴史は徹底的に消されてきた。しかし、「越中の歴史」を考える場合には、これ等の消え去った歴史が検証できる県内の古文書や史跡の調査や保全が必要である。

石黒氏は富山県福岡町木舟と言う所に平城の「木舟城」を構え、城内に「貴船社」を勘請した。この神社は大伴家持の末裔と言う大伴氏と密接であったと云う。この神社の祭神のスケッチが残されており、姿は大伴家持を思わせる。しかし、この神社の祭神は実は「農耕の水利の神」の「罔象女神 ミズハノメノカミ」である。
又、この「貴船社」と関係が深い「下鴨社」や「鞍馬寺」を勘請した「越中吉岡庄」とは一本の河川で繋がっていた。この吉岡庄(後の赤丸村他)には「延喜式内社浅井神社」が立地し、初期には京都「上賀茂神社」の庄園となり、南北朝末期には「下鴨神社」庄園となったと言う。この「吉岡庄」には石黒氏が居城とした「(赤丸)浅井城」があり、その鬼門に在った中心寺院の「川人山鞍馬寺」の周辺には浅井神社三社、七坊を構えた「浅井神社」と全体では48坊の寺院が繁栄したと云う。
「浅井城」は「浅井神社」創建の「元正天皇二宮」(聖武天皇の弟)が在城された(※「肯構泉達録」)と云う古い城で浅井神社は717年の創建と伝わる。
(※「浅井神社」自体の創建はもっと古い時代に創建され、赤丸村の清水山から下流の谷間に女性のシンボルとして創建された事が始まりであると云う。当初は二本の大木が谷間の入り口に立てられて、これが後の「鳥居」の原点になったと地元の古老は伝えている。浅井神社の前で越中の大河の小矢部川と庄川が合流していた事から、浅井神社には「女神で河の江の神」の「八河枝比売神」が大河の守護神として祀られた。浅井神社には、古くは一条天皇が「蝗害除去祈願」の勅使として「川原左京」を遣わされ、白河天皇の時には京都の「上賀茂神社の庄園の越中吉岡庄」になったとされる。その後、「越中吉岡庄※」は藤原摂関家長者藤原頼長の庄園となり、「保元の乱」の後に後白河上皇の「後院領」となり、後鳥羽上皇以降も後醍醐天皇迄皇室庄園で在った。
(※平成26年に国立歴史民俗博物館の「庄園データーベース」に確定掲載)

【「浅井城」と呼ばれた城は富山県に2ヶ所在る。富山県高岡市の旧赤丸村に山城の「浅井城跡」があり、もう1ケ所、富山県射水市島にも「浅井城」と呼ばれた舘跡がある。この城は、桃井氏所縁の城で、越中守護「桃井直常、直和親子」は南北朝の争乱で南朝方として同族の北朝方「斯波義将」と度々争った。建徳元年(1370年)に息子の「桃井直和」が長沢の戦いで討死した後に斯波氏と桃井氏は和議を結んで、桃井直和の子直儀に斯波義将の娘の益子を嫁せて浅井郷を与え、「浅井城」を建てたと言う。しかし、応永2年(1395年)に二代目の城主桃井直之が家臣に殺害された為、直之の弟は兄の菩提を弔って出家してこの城跡に寺院を建立した。この城は平城で舘程度のものだったらしい。この寺は現在は「誕生寺」と呼ばれる。赤丸村舞谷(現在は福岡町舞谷)には桃井直常の三男が建てた「西大寺」(現在は高岡市木町)があり、赤丸村には明治初め迄「幸若舞」の舞手の舞々人が住んでいたと云う。
織田信長が好んだとされる「幸若舞」を創始したのは桃井直常の孫の「幸若丸」で、斯波氏の所領の福井県越前町(朝日町)に住んで考案したと云う。(「織田氏」発祥の「織田町剣神社」は朝日町の隣にある。)】

立地や形状からすると恐らく、平城の「木舟城」は当初、山城の「赤丸浅井城」を補完する形で平野部の地盤の悪い地域に建設され、「鞍馬寺」と関係が深い「貴船社」を守護神としたと見られる。(※「赤丸浅井城」の鬼門には「延喜式内社赤丸浅井神社」が在り、城の反対の地の舞谷村には武神の「舞谷八幡社」が在る。)
この「木舟城」は石黒氏⇒上杉謙信⇒佐々成政⇒前田秀継と城主が変わったが、1585年11月(天正13年)の飛騨を震源とする「飛越地震」の時に城主諸共に地中に埋もれたとされ、この城下から小矢部市、高岡市街地に動いて開いた町が高岡市木舟町である。
この地域の隣地「大滝村」は「吉岡庄」の地頭「吉岡成佐」が開発したと伝わる。この事からしても庄川支流の下流の赤丸村と上流の大滝村は古くから一体であった事が窺われる。
「簑のしずく」に拠れば、福岡町の蓑島地区には古くは「延喜式内社長岡神社」や「延喜式内社比売神社」があり、又、後に木舟城城下に移った「宝性寺」も在ったと云う。⇒(これ等は現在、小矢部市に立地している。)
この辺りに触れた「郷土史」が無かっただけに、この「蓑のしずく」と言う郷土史は貴重だが、残念ながら私製本として発行されたらしく、一部の方しかこの書を知らないのは残念な事だ。この書は「福岡町史」の編纂委員もされた『中川幸作氏』が昭和35年7月に喜寿の記念に編纂された。特に石黒氏と所縁が深い小矢部市岡村の「宝性寺」とその開基とされる能登の「武将長谷部信連」の子孫の系譜にも詳しく触れられ、地域の社寺の詳細にも触れられている。
この度、子孫の方が倉庫を探した所、その原本が発見された。以下は掲載されている絵図等の一部である。















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