赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴🏯「織田信長」と「上杉謙信」⇒その激しい戦いの中で翻弄された「越中守山城城主神保氏張」

2017-10-04 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸















富山県の小矢部川沿いの高岡市「守山城」は、南北朝時代に桃井直常在城の時には「獅子頭城」、次いで斯波義将の居城の「守山城」となり、室町時代には室町幕府管領の畠山氏の鎌倉以来の譜代家臣の神保氏が「守山城」に入城した。神保氏の最後の城主となった「神保氏張」は享禄元年(1528年)に能登の七尾城主「畠山義綱」の二男として生まれ、守山城の「神保氏純」の養子となり、「織田備後守信秀(織田信長の父)の娘(信長の妹)」を妻にした。
上杉謙信の動静を書いた「北越太平記」(※「北越軍談」)にこのいきさつが詳しく記載されている。
上杉謙信44歳、天正元年の記事に「この年、信長の妹を以て越中の神保安芸守に嫁す。是(神保氏張)は上杉謙信の姪の婿、上杉弥五郎義春が兄なり。共に能登畠山修理大夫義則が弟なり。信長は謙信へは入魂の体を顕すと云えども内には野心を持つ。神保氏張を妹婿として越中へ手入れあるに付き、謙信腹立して越中、加賀、越前までも手遣りあり。」と有り。天正二年三月、織田信長は謙信の疑いを晴らす為に「洛中洛外図屏風、源氏物語屏風の各一双」を謙信に贈った。何れも狩野永徳の筆になる。しかし、信長が色々な手立てで上杉領内に手出しをしてくる事を責め、信長に手切れを告げた。信長は誰が讒言したかと陳謝した。しかし、謙信はそれを信ぜず、三万の兵を率いて越中の神保安芸守の籠る「木舟城」を攻め立て、ついで能登七尾城、加賀松任城を攻め、松任城城主蕪木右衛門の首を織田信長に送り付けた。この時に朝倉義景の残党の下間和泉が反乱を起こし、織田信長は三万の兵を率いて敦賀を攻めた。この頃、北陸各地は戦乱が続いたと云う。神保氏張は織田信長の妹と別れ、神保氏長を残して信長の妹は「稲葉貞通」の後妻として再嫁した。
「本能寺の変」で明智光秀に従った「斎藤利三」の妻はこの稲葉一族で在り、その娘は徳川幕府で「大奥」を形成して権力を振るった「春日局」(お福)に当たる。

(※この時に「赤丸浅井城には下間和泉居城せりと言う。」と「越中志徴」に記載されている。)

■『※注; [北越太平記] では「神保安芸守長純」 と記載しているが、織田信長の妹が嫁いだのは守山城の「神保安芸守氏張」であり、「神保長住」は越中守である。頼山陽の著作「日本外史」でも木舟城に「神保安芸守長住」を攻めたとされているが、明らかに是は「神保安芸守氏張」の間違いである。「神保氏張」は福岡町木舟城の佐々軍と共に、高岡市柴野城寺島牛介、赤丸浅井城中山直治と共に能登末森城に前田利家軍を攻めている。
神保氏には惟宗姓神保氏と平姓良文系神保氏の二系統が在り、現在の東京神田神保町は「惟宗姓神保氏の屋敷」が在った事から名付けられており、「良文系神保氏の屋敷跡」は別に在る。
平姓良文系神保氏は元々「中村」等を名乗っていたが畠山氏から賜姓されて「神保」を名乗ったとされ、「神保氏張」はこの能登守護畠山氏から「守山城神保氏」の養子に入っている。系図に拠れば、この氏族は古くから「守山城」の城主として在城しており、惟宗姓神保氏の「神保長職」が射水市の牧野城に室町幕府第十代将軍足利義稙を牧野に迎えて臨時政権を樹立した為に、この守山城の良文流神保氏との混同が見られる。

■「能登畠山氏」の祖は元々「秩父平氏」の畠山重忠の家系で在ったが、畠山重忠が北条氏に攻め滅ぼされて、その未亡人の夫として源氏の足利義純が入り「畠山家」を継いだ。従って、能登守護に成った能登畠山氏はこの畠山義純の子孫が継いだ為に「源氏系畠山氏」とされる。

■「神保氏張」は上杉謙信家臣⇒佐々成政家臣と成り、佐々成政の肥後国への転封に伴い肥後に同行。佐々成政が一揆の対応を誤り豊臣秀吉から切腹を申し付けられた後は、放浪して江戸に赴き徳川家康に仕官して徳川家旗本と成りその家系は幕末迄存続した。
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