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勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴「越中吉岡庄」の赤丸村と因幡国高草郡「吉岡庄」 ! ! ⇒ 「鞍馬寺」と吉岡一族のその後?

2017-08-13 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「鞍馬寺」が繋ぐ「越中国吉岡庄」と「因幡国吉岡庄」!!






『越中吉岡庄』は旧富山県西礪波郡赤丸村の「郷社延喜式内社赤丸浅井神社」「赤丸浅井城」を中心として、白河上皇の時に京都 「上賀茂神社」 の庄園として初見され、藤原摂関家長者「藤原頼長」の庄園と成り、「保元の乱」で勝った「後白河上皇」の「後院領吉岡庄」となった。その後も「後院領」として南北朝時代の南朝大覚寺統の後醍醐天皇迄、皇室領として伝來し、後醍醐天皇第八皇子「宗良親王」が南朝支援者の拡大、強化の為に「越中吉岡庄浅井城」に来訪の時に、この庄園を「五位庄」と名付けられたと加賀藩の奉行の記録「宝永誌」(加賀藩の旧家に伝わった記録を筆書きで書写した紐綴じ製本の写しが富山県福光町図書館の閉架に秘蔵されている。)に記載されている。この庄園は「後白河上皇」の時に、「源頼朝」が配置した「吉岡成佐」が地頭であったが「後院庁」へ庄園からの上がりを納付しなかった為に「後白河上皇」の側近の「藤原経房卿」が頼朝に対して苦情を書き送っている。その回答文書が「吾妻鏡」に「吉岡成佐の不法事件」として掲載されている。その結果、「吉岡成佐」は頼朝により交代させられたが、「吉岡庄」「吉岡成佐」の命名、素性については何処にも明示がない。越中国司だった大伴家持が赴任した「因幡国(鳥取県)」には、大伴氏の子孫の「吉岡氏」の記録が残る。


【越中国吉岡庄と因幡国吉岡庄】
大伴家持が国司を務めたと言うのは著名だが、因幡国(鳥取県)にも赴任している。大伴家持が天平宝字2年(758年)に国司として任官した因幡国(鳥取県)に、越中に在った「越中吉岡庄」と時代は異なるものの周辺状況が近似した「因幡国吉岡庄」が室町時代に在ったと云う。
この庄園は平安時代に成立した吉岡保を基にし、因幡国吉岡庄は現在の鳥取市に在った青蓮院門跡領の庄園であり、1399年(応永6年)に大内義弘追討の祈祷の賞として足利義満から寄進されて成立したが、翌年には庄内の一部の「吉岡保」が京都の鞍馬寺に再寄進され、荘園支配関係が入組んだ為、このドサクサに在地の豪族「吉岡氏」が荘園を押領した。文明6年(1474年)頃には吉岡左近将監が、鎌倉寺領という口実で吉岡庄(吉岡保)を領地としたため、青蓮院門跡雑掌から訴えられている。吉岡氏は南北朝以来因幡国山名氏の家臣として繁栄し、鎌倉寺の庄官で在った様だ。
【◎山名氏の本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁・鎮守府将軍・源義家の子・義国を祖とする名門・新田氏の一門。新田義重の庶子・三郎義繁(または太郎三郎とも)が上野多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)を本貫として山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称した。山名氏の祖の義範は鎌倉時代には早くから源頼朝に従いて御家人となり、頼朝の知行国の一つである伊豆の国主に推挙され伊豆守となる。源伊豆守の公称を許され源氏の門葉として優遇された。後に源氏同族の足利氏に仕える。(※「ウィキペディア参照」】
(◎山名氏家臣 [因幡国人] 伊田氏、武田氏、草刈氏、中村氏、加陽氏、佐治氏、毛利氏、矢部氏、吉岡氏、福田氏)

「青蓮院」では「鞍馬寺」による吉岡保支配を否定してこの困難を乗り切ろうと考えて戦国初期に吉岡保の存在を否定したが、結局は吉岡庄そのものの実体がなくなり吉岡庄は吉岡氏による在地支配が行われる事になる。元々、この地には「葦岡長者(ヨシオカチョウジャ)」が平安期から拠点を構え、吉岡庄内の吉岡温泉は葦岡長者が発見したと伝わる。戦国期には吉岡氏がこの湯村の地に「吉岡城」を構えて勢力を持ち、さらに湖池山の西岸には防己尾城(ツヅラオジョウ)を築いて1581年(天正9年)の秀吉軍の鳥取城攻めでは大いに悩ましたと伝わる。
(※「日本史大事典」平凡社)→(※「吉岡温泉」〒680-1442 鳥取県鳥取市吉岡温泉町281)


【赤丸浅井神社を中心とした越中吉岡庄(後の五位庄)の吉岡成佐の事!】
時代は遡り、白河上皇の時には「越中吉岡庄」は上賀茂神社の庄園となったと言う。
(※「山野川湊の中世史」久保尚文)
その後、この庄園は藤原摂関家の庄園となり、「保元の乱」の時には藤原摂関家長者「藤原頼長」の庄園で在ったがこの戦いに勝った「後白河上皇」はこれを没官して「後院領」として、「蓮華王院領(三十三間堂)」の粮所として寄進された。その後、源頼朝政権が各地に地頭を配した時に「越中吉岡庄」には「吉岡成佐」が地頭で在ったが、押領を働いたとして、頼朝は後白河上皇から抗議を受け、成佐を更迭している。吉岡成佐の拠点は吉岡谷の東砦、西砦であったと云う。今も吉岡谷には数軒の吉岡さんが住宅を構える。「越中吉岡庄」は「後醍醐天皇」迄天皇家庄園として伝領したが、その第八皇子の「宗良親王」により「五位庄」と命名されたと伝わる。(※「宝永史」)後に、一時期「下鴨神社」の庄園となり、室町幕府になると「足利義満」により五位庄は足利義満所縁の「相国寺(金閣寺は塔頭寺院)」に寄進され、後には五位庄の半分が足利家菩提寺の「等持院」に寄進された。越中吉岡庄の吉岡成佐が何処に転封されたかその後の消息は判らない。しかし、「足利義満」の頃、因幡国に吉岡氏が勢力を持った「越中吉岡庄」が「足利義満」によって現れ、この庄園の一部が「鞍馬寺」に寄進され、ついには吉岡城を拠点として戦国末期迄吉岡氏はこの地に生残った。
「越中吉岡庄」(後の五位庄)の赤丸村にも古くから「鞍馬寺」が勘請され、48坊もの寺院が在ったと云う。この寺の旧地域は現在も「鞍馬寺 アンバイジ」と呼び、往古、「川人山鞍馬寺」が栄えていたが一向一揆が盛んな時代に一向宗(浄土真宗)に改宗して「法筵寺」と改名したこの寺は赤丸浅井城主の中山氏に追われて福岡町一歩二歩の寺侍浜木氏の地に追われ、現在も無住の寺院として存続している。この本尊は今、浄土真宗井波別院瑞泉寺の客仏として宝蔵に祀られている。


【越中国吉岡庄と因幡国吉岡庄】
因幡国吉岡庄と越中吉岡庄は余りにも共通点が多い様に思われる。吉岡氏は源氏の山名氏の家臣の中に見られ、頼朝は吉岡成佐を越中吉岡庄の地頭に任命している。この吉岡氏は因幡国では鞍馬寺の庄園管理に関わっている。又、山名氏の本拠は河内源氏である事から、「吉岡谷」近くの赤丸城の山裾に在って、現在、赤丸から高岡駅南に移転している「衆徳山総持寺」の開基の総院と云う僧や「天景寺」等もあるいは河内源氏の関係者であったものか?
⇒【※総持寺の千手観音像は河内源氏三善(源)貞広が創建した河内金剛寺から伝わったと云い、天景寺は源氏の笹竜胆を寺紋とし、源氏の赤松氏所縁の寺院と伝わる。】



『吉岡氏』が「因幡国の吉岡庄」では「藤原伊勢人」が創建した京都鞍馬寺の庄園管理に携わり、「越中吉岡庄」にも京都鞍馬寺を勘請した「川人山鞍馬寺」が在った事から、因幡の吉岡庄と「越中吉岡庄」との共通点が有り、しかも、かつて、「保元の乱」以前の「越中吉岡庄」は藤原摂関家、藤原氏長者「藤原頼長」の庄園で在った。
(※赤丸村の「川人山鞍馬寺」はその後、高岡市福岡町一歩二歩に移り、「浄土真宗法筵寺」に成り、現在は無住に成っている。)
藤原頼長の師匠に儒師の藤原成佐と云う人物がいたが、時代的にはこの人物は少し古く、しかも早くして亡くなった様だ。しかし、古くは先祖の名前を襲名したり、「通字」と言って代々共通の一字を名前に入れる習慣が在ったから、この人物の藤原一門が「越中吉岡庄」の地頭として配置されていた可能性も排除できない。
京都の「鞍馬寺」は空海が朝廷から賜った「教王護国寺」(✳東寺)の建設責任者であった「藤原伊勢人」が私人として建立した寺で有り、赤丸村の浅井神社48坊の中心寺院「川人山鞍馬寺」も京都鞍馬寺を勘請したものであり、その庄園管理に携わっていたならこの「吉岡氏」は因幡国の吉岡氏の同族であったかも知れない。
又、豊後(大分県)を拠点とした戦国大名の大友氏に従った吉岡氏の系譜は【大友⇒野津⇒吉岡】と別れたとされ、因幡国の吉岡氏はこの同族であったものか?
学者の中に「大友氏」は「大伴氏」の末裔であるとする意見もある様で、越中国に国司として赴任していた大伴家持の子孫と称する一族が新湊や福光に残っている事から推定して、同じく家持が国司であった因幡国の近くの豊後国にその子孫が残っても不思議ではない。宮本武蔵と対決した足利将軍家指南の京八流吉岡一門がこの豊後吉岡氏の一族であったとされ、京八流は鞍馬寺で源義経に剣法を教えた吉岡鬼一法眼が創始者と伝わる事から吉岡一族と鞍馬寺・源氏との因縁は深い。
「義経記」に拠れば 「源義経」は頼朝に追われて奥州に下った時、倶利伽羅峠から山裾の街道を下り、五位庄(当時は吉岡庄)に至り、赤丸浅井神社(元正天皇の二宮の創建)の前の「二位の渡し」から船で「如意の船渡し」「六渡寺川下りルート」で小矢部川河口の「六渡寺渡し」で降りたとされる。(✳「義経記」小学館版、岩波文庫版の解説参照、「如意の城」=「五位の城」=「赤丸浅井城」、「越中志徴」に記載の記事は推測で「守山の城」「守山の渡し」とするが、学者の解説ではこれは森田柿園の錯誤としている。古くは小矢部市「石動の渡し」、赤丸村浅井神社前の「二位の渡し(後に五位の渡し)」、「守山の渡し」が官営で有り、加賀藩時代には、この船頭には「屋敷」と銀の手当てを与えて、「諸役、雑事」の免除を行った。加賀藩は特別にお鷹狩り場の後の向野新村[✳「お鷹場新開」と云う開発地]に在った「五位の渡し」を重視して越中西部の権力者沢川村の「御扶持人十村田畑兵衛」配下の住民2名を専属の「船渡し役」に任命して渡し場に屋敷を与えて、藩主の鷹狩りの際には渡し場の確保をしている。 「御扶持人十村」とは幾つもの集落を束ねた「平十村役」を更に幾つも束ねた権力者で、 藩主から扶持をいただき、藩主の行事に参加して、名字、帯刀を許されて山地を管理する山廻役を勤めた。 )(✳「福岡町史」、「草島道調査報告書」富山市日本海文化研究所紀要第11号、「加賀藩農政史考」小田吉之丈、若林喜三郎)

【✳「義経記」は「勧進帳」の原作で有り、この「二位渡し」と云う船乗り場で弁慶は義経を扇子で打擲した。古くは小矢部から赤丸、国吉辺りは小矢部川が山裾を通り、赤丸浅井神社前で庄川の支流、花尾村から谷内を通る谷内川と合流して「阿古ケ淵」と云う広大な淵となっていた事から旅人は浅井神社に拝礼して神社前の渡し場から船に乗り、「如意の渡し」(二位の渡し)(✳「赤丸浅井城」を「如意城」(五位の城)と呼んだ。)から船で「如意の舟渡し」(六渡寺川下り)と呼んだ川下りルートで「六渡寺村」迄下ったとされる。高岡市国吉の水道公園に古い小矢部川についての説明看板が在る。元富山大学山口教授の県民大学講演に拠れば、浅井神社前には古く「川人の駅」が有り、川を渡れない人の宿や馬、武具が配置され、まさしく「川渡の駅」で在っただろうとされる。小矢部川の対岸の「高岡市渡り」にも、渡し場の神社跡と石仏が現在も残されている。(※「義経記」岩波書店、小学館版 解説参照)】

京都鞍馬寺で育った源義経の奥州下りの時、越中吉岡庄の領主後白河上皇の皇子には熱烈な義経支援者守覚法親王が居た事から、義経が「赤丸鞍馬寺」の影響力が強い吉岡庄を通過した理由もどうもこの辺が理由と思われる。古く越中吉岡庄の領主の藤原頼長は奥州にも多くの庄園を持ち、奥州平泉の藤原氏に庄園の管理をさせていた事からも、元々は越中吉岡庄と奥州は一帯の関係で有り、源義経の義父・常磐御前の再婚相手が奥州藤原氏の政治顧問で在った事から、義経が赤丸鞍馬寺の在った吉岡庄を通過した背景が窺われる。
(✳源義経の剣道師範の「吉岡鬼一法眼を祀る御堂」が京の鞍馬寺に在るが、この人物は謎の人物とされ、素性は明らかでは無い。陰陽師であったとも言われる。)



こう考えると 「吉岡」の名前の謎は深まる。 それに地元に伝わる古図の「吉岡庄図」について、「芦岡庄」と記載されている事からも、因幡国吉岡庄には「葦岡長者」の伝承が在る事との共通性が感じられるのだ。



「越中吉岡庄吉岡成佐の不法をめぐる後白河法皇への源頼朝の書簡」(※「富山県史」他掲載)



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