赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴●富山県の『後白河上皇』の庄園「越中吉岡庄」▶▶南北朝時代の『後醍醐天皇』の治世迄続いた皇室庄園の記録。

2021-04-11 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








■『延喜式内社赤丸浅井神社』を郷社として栄えた『越中吉岡庄』は『藤原摂関家長者藤原頼長』の庄園で在ったが、「保元の乱」で平清盛、源義朝の連合軍に敗れて、『崇徳上皇』は讃岐に流され、『藤原頼長』は首に矢を受けて死亡した。その後、『越中吉岡庄』は『後白河上皇』の「後院領」と呼ばれた庄園に成り、その後、後鳥羽上皇以降も後醍醐天皇迄、皇室庄園として伝領した。

・「藤原摂関家長者藤原頼長」・「後白河上皇」~大覚寺統後醍醐天皇迄伝来した「越中吉岡庄」


◆【保元の乱】で「崇徳上皇」と「藤原頼長」は「後白河上皇」軍の平清盛、源義家等に討伐されて、「崇徳院」は讃岐に流され、「藤原頼長」は首に矢を受けて死亡した。





🔻「人車記」(※別名「兵範記」)(※「陽明文庫陰影版」)、「東京文理科大学所蔵版 兵範記」、「東京大学所蔵版 保元記」には「保元の乱」の詳細記録が遺されており、その中には「越中一処(所) 吉岡庄」と記載されている。

■「兵範記」(※東京文理科大学所蔵 活字本)






■『人車記』(※別名)
『陽明文庫』は、京都市右京区宇多野上ノ谷町にある歴史資料保存施設。
公家の名門で「五摂家」の筆頭である近衛家伝来の古文書。以下はその撮影されたもの。










■『保元記』(※「保元の乱」を記したもの。「東京帝国大学蔵版」)







■「人車記」
≪※近衛家本の陰影本、兵武卿「平信範」(1112年~1 187年)の日記、別名「兵範記」≫には、「保元の乱」で敗れた「藤原摂関家長者 藤原頼長」の個人庄園が後白河上皇の「後院領」に編入された事が記載されている。その中には「越中一処」として「吉岡庄(富山県高岡市福岡町赤丸周辺)」や「一青庄ヒトトショウ(石川県能登町)」が記載されている。保元二年三月廿五日の官報告示には、この時に没官された頼長の庄園29庄が掲載され、この告示には「左大史 小槻宿弥」の署名が在る。
「藤原頼長」は藤原氏でも主流を為した「藤原道長」の子孫に当たり、代々、摂政や関白を輩出した藤原一族の「長者」を継いだ一族で、辣腕を奮った「左大臣」として「悪左府頼長」と記載される。「藤原頼長」は兄で在り、養父でもある「藤原忠通」との相続問題や「後白河院」と「崇徳院」の皇位継承を巡る争いから後白河院側から先制攻撃を受けて、首に矢を受けて死亡し、崇徳院は讃岐(四国)に流されて死亡して長く怨霊として朝廷を苦しめたと言う。その為、累代の天皇は崇徳院が祀られた四国の「金比羅宮」に度々、勅使を遣わして都にはその慰霊施設も造っている。
「越中吉岡庄」は「白河天皇」が上賀茂神社の庄園として寄進されて以来、著名な神社や皇室の庄園として続き、室町時代には三代将軍足利義満が相国寺(※「鹿苑寺金閣」)に寄進し、その後も歴代足利将軍が足利家菩提寺の「等持院」、「等持院」の庄園として寄進している。『越中吉岡庄』は長く、時の最高権力者や京都の『上賀茂社』、『下鴨社』等の有名な寺社の庄園として続き、その為、『越中吉岡庄』と、南北朝末期から『五位庄』となったこの庄園には時の権力者により「都の雅を写され」と伝わる様に『清水寺』、『鞍馬寺』、『上賀茂社』、『下鴨社』、『愛宕山』、『熊野社』、『貴船社』等の著名な寺社が多く勘請され、特に後醍醐天皇の皇子宗良親王が比叡山座主、妙法院院主を勤められた関係から『極楽寺』や『七の社』をこの庄園に勘請されたと云う。『赤丸村』は後醍醐天皇の軍旗の『赤丸の御旗』に因み、『南朝の牙城』として長く続き、高岡市に在る「総持寺」(※元赤丸村)には南朝の天皇行在所(※皇居)と成った『河内金剛寺』から『後鳥羽上皇所縁の黄金の千手観音像』が贈られている。その遺跡も上杉謙信、前田利家に占領された時にうち壊され、焼かれて、今は『赤丸浅井神社』が残るのみに成っている。


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