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勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴🏯 『赤丸浅井城』中興の「石黒光景」と「越中石黒氏のルーツ」⇒「加賀林氏」の一族「石浦為輔」と石黒一族の「イ浦為輔」 は同一人物か?

2017-09-24 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
『石黒光景』が中興した『赤丸浅井城』のイメージ
(※古い形の山城で在り、麓には鎮守として『延喜式内社赤丸浅井神社』が在る。)









■「加賀林氏」の系統に「石浦氏」が在る。「石浦郷」の氏神は金沢市兼六園の入口に「石浦神社」がある。「越中石黒氏」の系統には祖先に「イ浦」(石浦か?)が登場する。石黒氏の由緒では、藤原氏の系統のイ浦氏が神社に祈願した所、石から突然に童子が表れたとする逸話があり、これは、養子に入った石浦氏の子供が跡を継いで石黒氏を名乗った事を説明しているものと見られる。





「石黒系図」では「イ浦為輔」が系図に登場し、「加賀林系図」では「石浦為輔」が登場する。この「イ浦」が「石浦」で有れば、この石浦氏の「為輔」と石黒氏の「為輔」は同一人物ではないだろうか?

■「石黒系図」では、「石黒庄」の庄官として都から派遣された「藤原氏」が「石黒を名乗った」とされ、系図でも林氏と石黒氏は数回に亘り婚姻して二氏は戦乱の度に同盟して天皇家の軍隊として戦っている。しかし、この系図をよく見ると、元々、越中石黒氏は加賀林氏の一族「石浦氏」を祖先に持ったものと見られ、石黒氏の系図に「石から産まれた童子」が石黒氏の祖先にいる事は出自の秘密を隠し、神秘的な人物・一族として記載したものと見られる。石黒氏は越中の古代氏族の「利波臣」の末裔とする系図も在り、越中統治の為に越中利波氏の名跡を継いだ一族としている。「利波臣」は「古事記」に拠れば『孝霊天皇の子の彦刺方別命』の末裔『高志利波臣』を祖先としている。又、別の系図では「孝元天皇」の子孫で「神功皇后」に従った勇将『武内宿弥』を先祖とする系図も在る。「系図」では父方の系統や母方の系統を名乗ったり、跡目を相続した事も在った様で、藤原氏の系統についても「聖武天皇」の妃の「光明皇后」の父「藤原不比等」が意図的に系図の改竄をしたとする意見も在り、真実は分からない。
【「大鏡」に拠ると、『藤原不比等』自体が「天智天皇」の子供で在り、「中大兄皇子」が「中臣鎌足」と共に蘇我氏を誅殺した時に中大兄皇子の愛妾の腹に居た子供で在り、皇子は褒美としてこの愛妾を鎌足に下げ渡して、「産まれた子供が男なら自分の子供とする様に!」と告げたと言う。この時に「中臣氏」は「藤原氏」を賜姓されたが、後に、「元正天皇」は「勅令」を出して『藤原氏は不比等の子孫だけが名乗り、元々の中臣氏は旧姓に戻り祭祀を担う本来の職務に戻る様に!』と命じている。従って、本来は「藤原」を名乗った一族は「天智天皇の子孫」で在り、「藤原不比等」の子孫に限定される。】

(※「林一族」)


(※「石黒氏の歴史の研究」)



■「越中吉岡庄の所有者の後鳥羽上皇」が引き起こした「承久の乱」では「加賀林氏」は上皇側で戦い、同族の「富樫氏」は鎌倉幕府軍に従って勝った為に林氏は凋落した。これ以降、加賀富樫氏が勢力を拡大して行き室町時代には幕府の要職に就任している。「承久の乱」では「加賀林氏」と縁組していた「越中石黒氏」も「後鳥羽上皇側」で戦っている。
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