赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

📚📃 越中の『利波臣志留志』と「宇治拾遺物語」、「今昔物語」記載の『留志長者教』!!

2017-06-22 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸


























東大寺の大仏造営の時に寄進者筆頭に記される「利波臣志留志」は「越中石黒氏の祖」とされ、大仏造営の為に聖武天皇が行基等に勧進を行わせた時に率先して「米五千石を寄進」したとされる。(※「東大寺要録」では[米五千斛])
古い物語で「宇治拾遺物語」や「今昔物語」には、インドの古い経典の『留志長者教』『盧至長者教』が紹介されている。
この経典では、「昔、天竺に強欲な主人が居て、陰で一人で食を貪り、家族にろくに飯も食べさせない者で在ったが、ある時にこの留志長者が出掛けたスキに帝釈天がこの長者の姿になって現れて、米蔵の物を全て周囲の者に分け与えて仕舞われた。帰って来た留志長者は驚いたが、帝釈天はそこで『布施』や『慈愛』の心を留志長者に言って聞かせられた。その為に、この強欲な留志長者も改心して仏道に帰依した』と言う筋書きである。この物語は当時、民衆にも広く広がっていたものか、この著名な2つの物語に取り上げられている。
『三蔵法師菩提留志』ははるばる天竺に仏教経典を求め、翻訳僧として唐の国に膨大な経典をもたらした。この経典は、日本から遣唐使として渡った僧により我が国に伝えられ、日本に仏教文化を花開かせた。各地の真言宗寺院には「三蔵法師が日本に来た」と伝える寺も在り、仏教=三蔵法師として考えられていた様だ。
東大寺に多額の、今の価値では3億円近く(※奈良文化財研究所)の巨額の寄進を行った「利波臣志留志」とはどういう人物だったのだろう? 文字通りにこの「志留志」を解釈すると、「三蔵法師菩提留志」や「留志長者」の様な菩薩を目指して付けられた名前ではなかったか? 正に「菩提留志を目指しす人」と云う意味ではなかったか?
(※志留志の後ろの「志」は「サカン」と言う古代の官職の事。)
とすれば、東大寺大仏造営の為に巨額の寄進を率先して行った「利波臣志留志」とは、既に出家した者ではなかったか? 東大寺勧進僧の「行基」はその墓誌に「本姓は高志氏で在った」と記載されており、一方、「利波臣」は古事記によれば「高志の利波臣」となっている。この「高志氏」は元々、百済からの渡来人とも言われており、御存じの様に、古くは福井県から山形県の西部迄を「高志国 」と呼び、「高志氏」とは密接な国で在ったと見られる。 …… とすれば、「行基」と「利波臣」は共通のルーツを持っていたと考えられる。同族の「行基」が聖武天皇からの特命を承けて東大寺勧進を推進していた事や、「利波臣志留志」と同じ時代に天皇家の護衛も行っていた「大伴氏」の「大伴家持」が越中国司として越中に滞在しており、同時に東大寺庄園開発に当たっていた事も有って、「利波臣志留志」にとっては、従来、「郡司」にしかなれなかった「利波臣」としても立身出世の千歳一隅の時期でも在ったと見られる。「志留志」は、当初、米三千石を寄進して、その後に再び「井山庄100町」を寄進して、遂に「外従五位下員外介」として「国司」の待遇を受けた。「有職故實」によれば、下級官吏の従六位以下になると服装に於いても「裸足」で在ったともされ、報酬も微々たるものだった様だ。その中で、利波臣の中では唯一、「利波臣志留志」のみが一代限りに於いて「国司」として処遇されている。当時は、国家への寄進額によって職位や報酬が定められており、「孝霊天皇の末裔」と名乗っていた「利波臣」ですら、地方豪族はなかなか出世出来なかった。当時は「買官」の制度が在り、官への寄進額により「位階」を買う事が出来た。

聖武天皇は東大寺大仏造営の為に東大寺に庄園4000町の開墾を認められ、天平19年(747年)東大寺に「利波臣志留志」は「米五千石」(※東大寺要録)を寄進し、外従五位下となり、神護景雲三年(769年)には東大寺に自らの庄園100町(井山庄)を寄進した。
⇒《※「続日本紀」には「米三千石寄進」と有り、後に寄進した「庄園100町」(※一町当たり米19石と試算されている)の収穫と合わせて、東大寺では「米五千石寄進」と記載していると見られる。》

東大寺で毎年三月に行われている「お水取り行事」では大量の御経の転読と併せて、「東大寺修院過去帳」と言う東大寺大仏寄進者名簿が読み上げられて、その中には「奉加利波志留志」と必ず読み上げられている。

この利波臣志留志は蘇我氏の系統の武内宿祢の末裔としていたが、一方、藤原利人将軍の系統の林氏と縁組して藤原氏も名乗ったようだ。古代士族の姓(かばね)に「臣」(※蘇我臣入鹿) と付くものと「連」(※物部連守屋)、「公」「君」と付くもの等が有る。「臣」は王家から分かれたヤマト系の皇別氏族で「連」は朝廷に労役や生産物を貢納する人々を統率する伴造に与えられ、「公」「君」は大王家出身の地方豪族に与えられた。※(他には直、首、史、村主等)
ここで、「利波臣志留志」は孝元天皇の末裔(※「越中石黒系図」⇒古事記では孝霊天皇)とする皇室系の一族であるから「臣」が付けられている。「利波臣志留志」は無位の官僚からいきなり大量の米や庄園を東大寺に寄進し、天平19年(747年)九月にいきなり外従五位下に叙せられ、宝亀十年(779年)二月には伊賀守に任ぜられた。又、越中員外介として越中国の砺波・射水・新川三郡の東大寺庄園などの検校を行っている。この時に、大伴家持も東大寺庄園の検校の「僧平栄」を歓迎して宴を開いた事が万葉集に記載されている。
(※「検校」は、元々は平安・鎌倉時代に置かれた寺院・荘園の事務監督の役職名であったが、室町時代以降は盲目の官僚の最高位の名称とされた。 日本では推古天皇 32年(624年)に僧尼を監督する職として置かれたが、後には大きな社寺の総務を監督する僧官の名称となった。)

(参考)


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