赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴🏯 越中吉岡庄「石堤長光寺」の開基【(織田陸奥守氏知(小田氏朝?)】⇒『田原(俵)藤太』(藤原秀郷)と大石内蔵助!!

2017-06-15 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村



富山県高岡市福岡町土屋村には「小山氏由緒」が残される。「✳「土屋村史」」


元藤原摂関家長者の藤原頼長領で保元の乱で後白河上皇に没官された「越中吉岡庄」(後の五位庄)と呼ばれた庄園は、「五位庄五十三ケ村総社・五位庄郷社赤丸浅井神社」に伝わる所に拠ると、近代とは相当範囲が異なる様だ。赤丸浅井神社は五十三ケ村から毎年、初穂米として各戸より米一升を徴収する権利を朝廷から与えられていたと伝わり、今も赤丸村ではこの習慣が残る。(現在は奉納金に代わっている。)浅井神社に伝わる五十三カ村は赤丸浅井神社由緒に拠ると「五十三箇村 旧五位庄廿五ケ村國吉郷廿六ケ村宮島郷二ケ村」と記載されており、これが古くの「吉岡庄」の範囲と推定される。
この「吉岡庄」は、「吾妻鏡」に記載の「源頼朝の書状」にも残るが、古文書に拠れば「吉岡谷の吉岡成佐」や石堤村の長光寺を開いた「織田氏知」等がこの庄園の地頭であったと伝わる。この「織田陸奥守氏知」については同時代に該当の武将は見当たらず、藤原秀郷の末裔の宇都宮氏、八田氏、小山氏等の一族に「小田氏知」が存在した。(小田氏知が「陸奥守」であった事は確認されない。) ⇒(※小田氏朝か?)

【註】小田氏:鎌倉公方足利満兼の関東八屋形(八家)の一。常陸国小田( つくば市)の領主。常陸国筑波郡小田邑(現在の茨城県つくば市小田)を本拠とした。 関東八屋形(八家)とは宇都宮・小田・小山・佐竹・千葉・長沼・那須・結城の各氏。
小田氏の祖の「八田知家」は保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝側について戦い、功績をあげる。治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵に早くから参じており、同年には下野国茂木郡地頭職を安堵された。寿永2年(1183年)野木宮合戦に参加。元暦元年(1184年)8月の源範頼率いる平氏追討軍に従軍。文治元年(1185年)4月、前年に源義経が無断任官で頼朝の怒りを買った際、知家も右衛門尉に任官しており、頼朝から「鎮西に下向する途中に京で任官するなど、怠け馬が道草を食うようなものだ」と小山朝政と共に罵倒されている。文治5年(1189年)7月の奥州合戦では千葉常胤と共に東海道大将軍に任ぜられ、福島の浜通りから奥州藤原氏を追い詰めた。源頼朝の御家人。(✳「Wikipedia」)

✳小田孝朝『延元2年/建武4年(1337年)ー応永21年6月16日(1414年7月3日)』は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。小田氏の第9代当主。「小田氏の乱」を起し、追討されたが足利義満の指示で許された。小田氏朝はその子。

「陸奥国多賀城」は蝦夷統治の最前線で、蝦夷統治を担当した将軍を「征夷大将軍」と云う。武士の棟梁の位として、後には幕府を開く為に必要な位になる。「陸奥守」の記載は、小田氏の祖の藤原秀郷や越中石黒氏の祖の藤原利仁も「征夷大将軍」になっている事から「その末裔」と云う事を表したものか? (藤原利仁の娘は秀郷の孫の文脩の室で有り、途中で混血がある事から、先祖由緒では往々にしてこの二つの系統の混乱が見られる。)

(※藤原秀郷は通称「俵藤太」と呼ばれるが、藤原秀郷は江州[近江]の栗田郡田原、大石を領有したので「田原の藤原秀郷」を「俵の藤太」と呼んだ。藤原秀郷は東北・北陸を主管して征夷大将軍となる。又、近江の大石に残る秀郷の子孫は「大石氏」を名乗って子孫は織田信長に対抗して足利将軍を守ったと云う。更にこの子孫は赤穂藩家老と成り、大石内蔵助は主君の敵の吉良上野介義央を討ち取り、忠義の士とされた。大石内蔵助を祀る大石神社は赤穂に在り、皮肉にも、後に赤穂藩の領主となった織田信長の小姓の森蘭丸の一族の森家資料もこの神社に在る。⇒※「大石内蔵助」福本日南著 国立国会図書館蔵)

(※藤原秀郷は大和国(奈良県)高市郡田原郷に生まれて田原藤太と呼ばれた。下野大掾藤原村雄の長男で田原に住んだ太郎の意。又、下野国(群馬県邑楽郡千代田町)も秀郷の誕生地と伝わる。)
(参考:小田氏系図小田氏知について www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02007d.htm 、「日本の名字700傑 小田氏」参照)

「赤穂大石神社」 兵庫県赤穂市上仮屋旧城内



ちなみに、足利将軍家を廃した織田信長の祖の「織田氏」は福井県織田町の剣神社の神宮の末裔で足利一族の斯波氏に仕えて、後に尾張で勢力を拡大したと云われる。織田氏は平氏を名乗ったが実際上は書面に「藤原」とも記載している。織田氏は、小田・御田・雄田等で通用された当て字読の姓でもあったらしい。織田氏は越前国丹生(ニユウ)郡織田荘(現在の越前市織田町)発祥の古代氏族忌部(インベ)姓で織田町の「剣神社」に奉仕した神官の末裔とされる。『古語拾遺』では忌部氏の祖先神「天太玉命」は「高皇産霊神(タカミウブスナノカミ)」の子であるとする。一説には桓武平氏重盛流の伊勢平氏とされる系図も残るが、源氏の足利将軍に代わる平氏を祖と主張する為に作られた系図とも云われる。忌部氏も神事に奉仕したところから藤原氏同族の中臣氏と混同され、織田信長も藤原姓の署名を用いたと見られる。厳密には、「藤原氏」の呼称は藤原不比等の末裔以外は称してはいけないが、戦国武将の由緒を高める為の呼称と見られる。⇒赤丸浅井神社の祭神はこの「高皇産霊神(タカミウブスナノカミ)」であるが、おそらく、大伴氏の氏神として祭られたものと見られる。

■『*[藤原不比等];文武天皇は天智天皇の子の不比等の末裔以外は「藤原」を名乗る事を禁じ、その他は旧の「中臣」を名乗り、神事に奉仕すべしと命じた。「藤原不比等」は天智天皇の側女の子で、妊娠していた時に中臣鎌足に与えられたと「大鏡」に記されている。』
【詔して曰はく、「藤原朝臣賜はりし姓は、その子不比等をして承けしむべし。但し意美麻呂らは、神事に供れるに縁りて、旧の姓に復すべし」とのたまふ。(文武二年八月丙午条)】

この織田氏と南北朝期に活躍した小田氏は繁栄した時代が大きく異なる事から、長光寺開基の「織田氏」は「小田氏」の誤りと見られる。確かに、「織田氏」の主家であった足利一族の斯波高経(1361年、康安元年、正平16年)、斯波義将(1368年、応安元年、正平23年)は南北朝期に越中守護になっているが、織田氏は斯波氏の家臣であったもののその時に「織田氏」は越中に見られない。周辺の状況や小田氏が南朝の支援をしていた事から推察すると、「小田氏」の方がぴったりくる。ましてや、後醍醐天皇の庄園「吉岡庄の地頭」をしていたとすれば、南朝を支援した小田氏しかいない。
足利一族の桃井直常は一族に反して南朝の支援をし「五位庄の戦い」(1371年、応安4年)で敗れ、姿を消した(✳「花営三代記」)とされるが、この時にも「織田」の名前は出て来ない。「織田氏」が吉岡庄の地頭であれば、桃井勢の有力武将だっただろう。
「織田氏」は、織田信長の妹が高岡の守山城城主の神保氏張に嫁いでおり、加賀藩士森田柿園の著書「越中志徴」でも「赤丸の喜田氏信長に通ず」と記載されている事から、信長が越中に進攻してきた前後には織田氏の勢力は確かに赤丸にも及んでいる。しかし、「宗良親王随身の織田氏知」となると時代は南北朝になる。そこで、調べると「小田氏知」という武将は実在したのだ。明治三十二年十月和田文次郎著「砺波誌」には「氏知は後醍醐天皇第五皇子宗良親王の士にして応安中石堤の地方を領し同二年薙髪して僧と為り長光寺を建て寺主と為れりと云ふ」と記載され、又「富山県西砺波郡役所大正十二年発行 富山県西砺波郡要覧」には「石堤城(現在の赤丸村) 応安年代に織田陸奥守氏知」と有るが、これを立証する資料は見当たらない。又、加賀藩士冨田景周(2500石)が記載した「越登賀三州史」の「赤丸 浅井」の項に「浅井とは赤丸村に浅井神社あれば也。式内の神也。」とし、「本丸、二丸、堀切東方、堀切南北深沼田、又、同庄石堤村領山有堡迹、興赤丸相隣。今為陸田。不可混。」と記載して、赤丸浅井城と近くの石堤には砦が在ったと記載している。この「砦」について高岡徹氏が「富山市日本海文化研究所紀要 第6号 富山市教育委員会 ・富山市日本海文化研究所発行」の中で、この砦を「麻生谷砦」(✳仮称)として考察、紹介されている。その中で、この砦は麻生谷集落にある「新生園」の裏山に当たり、南北朝期にごく一時期的な拠点として使われた遺構かも知れないとされている。位置的には、戦国時代の柴野城と赤丸浅井城の間で有り、砦の下には「石堤 長光寺」と「織田氏知」の墓所がある所から、南北朝期に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王に従った織田氏知の居城ではないかとされている。明治43年の西礪波郡役所が発行した「富山県西礪波郡紀要」には「開基は礪波郡吉岡庄の領主織田陸奥守氏知にして出家して超圓と号す。応安二年(1369年、正平24年)当寺を草創す」と長光寺の縁起が掲載されている。又、長光寺の裏、織田氏知の墓所の後ろから裏山に通じる道があり、現在は平地になっており、何かの施設跡かも知れない。

【南北朝時代の小田氏】宗良親王は1369年(応安2年/正平24年)には信濃守護を兼ねる関東管領上杉朝房の攻撃を受け、1374年(文中3年/応安7年)、ついに頽勢を挽回できぬまま36年ぶりに吉野に戻り、この頃から南朝側歌人の和歌を集めた和歌集の編集を開始していたが、再び出家している。
「長光寺由緒」に拠れば、織田氏知(小田氏朝?)は応安2年に出家したとされる。応安2年には南朝の宗良親王が信濃で苦戦された時期に符合する。
長光寺は後に、織田信長に対抗した浄土真宗興正寺末であり一向一揆の拠点になった寺と云われ、織田氏知が創建したならこの時の長光寺の対応も違っていたのではないだろうか?

■この時期に鎌倉公方足利満兼の家臣には「小田氏朝」が見られ、「結城の乱」を起こした「結城氏朝」(※小田氏からの養子) が居る。小田氏は八田知家を祖とし、鎌倉時代には常陸国の守護・源頼朝の後家人を務めていたが北条氏により守護職や荘園を奪われた為、南朝方の後醍醐天皇に味方し北条氏の打倒に参加し、足利氏が後醍醐天皇と対立すると南朝方になって戦った。しかし、興国二年(1341年)に北朝方に降伏し、その後は足利尊氏に接近して旧領の一部も回復している。




●この時代に、関東管領から越中富山城を賜わった成田氏がいる。成田氏は、熊谷市を拠点とし、十三代顕時は上杉憲実に従い戦功をたて下総守となり、更に戦功を立て、関東管領足利政知(堀越公方)より、越中富山城を賜ったといわれる。成田顕泰は、現在は富山市にある光厳寺(後に前田家の墓所となった)を開いている。藤原鎌足の後裔といわれる武蔵国忍城城主で後に出家した成田顕泰が、当初、砺波郡増山村で開基となり長禄寺を設立(一四五八年)した。その後、射水郡守山城外に移って光厳寺となる。この時の守護代は神保惣次郎という。この「武蔵国忍城」は映画「のぼうの城」の舞台なった城である。


【小田一族】関東管領は上杉氏。鎌倉から南北朝期に活躍した小田治久(一二八三~一三五三年・尾張権守・常陸国小田氏)は、当初は鎌倉幕府、後に後醍醐天皇に仕えたが足利尊氏に敗れ、その後北朝方として戦った。その後裔に「小田氏あさ」有り。兄の治朝(一三六二~一四〇三年)は小山義政の乱(一三八六年)に加担した為、父孝朝と共に室町幕府鎌倉公方足利氏満に追討され、敗れて那須氏に預けられ没する。茨城県土浦市に治朝開基の宝珠山海蔵寺有り。曹洞宗。本尊阿弥陀如来。孝朝は小山氏の乱の後一部所領没収されただけで許され、後には同族の中条流から派生した小田流剣法を創始し、和歌にも没頭して、勅撰和歌集である『新千載和歌集』には尊氏に召されて詠んだ歌が載せられ、『新拾遺和歌集』にも採録された。頼朝を支援した千葉一族で、畠山、和田、加藤、宇都宮、渋谷、千葉、加藤、葛西、熊谷等が同族。小田は藤原北家宇都宮氏の傍流で八田氏を祖とする。

【小田氏の系統】小田氏には、1)古代の物部氏族小田連(摂津)、2)小田臣(備中)、 3)藤原北家八田氏流(常陸)、4)藤原北家塩谷氏流(下野)、 5)清和源氏小笠原氏流(甲斐、信濃)、 6)清和源氏満快流(信濃) 、7)秀郷流藤原姓結城氏族(陸奥)、8)藤原姓成田氏流(武蔵)、9)中臣氏流、10)清和源氏満政流、11)小野姓横山党(武蔵)、12)菊地氏流、13)豊後清原氏族、14)妹尾氏流(備中)、15)安藝山県氏流 の他、丹波、越前に小田氏有り。越中では室町幕府奉公人に(永享以来五番帳)「小田又次郎、「小田掃部助」有り。小田伊賀守、小田右馬助、又、足利義政祇候人小田又六の名有り。小田又次郎和憲は「カタバミ紋」であった。(見聞緒家紋)越中砺波郡五位庄(旧吉岡庄)には「カタバミ紋」「剣カタバミ紋」の家系が現在も多い。(✳「富山県姓氏家系大辞典」角川書店)

石堤長光寺の開基は「小田(織田?)【陸奥守】氏知」と云われる。石堤長光寺開基の氏知が「陸奥守」を名乗っている所から、7)秀郷流藤原姓結城氏族(陸奥)がその開基なのか? 同じく石堤の西光寺の開基も藤原氏秀郷流井口氏を祖とすると「西光寺由緒」に記載される。(※「姓氏家系図」によると井口、齊藤、宮崎、石黒は「利仁流」とされる。西光寺由緒の誤りか? 藤原氏は天智天皇の子の[*大鏡]藤原不比等を祖とし、藤原頼長の摂関家直系、利仁流、秀郷流の系図は別々であり、秀郷流は奥州藤原氏が有名。摂関家、藤原氏長者の藤原頼長が越中吉岡庄(後の五位庄)の領主の時に奥州藤原氏の周辺にも庄園を所有して、奥州藤原氏に税の徴収を委託していた事から、同族の小田氏の一族が頼長の庄園の吉岡庄でも税の徴収をしていた可能性がある。奥州とは青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部を含み、奥州藤原氏は一時期、陸奥、常陸を支配した様だ。藤原氏の財力の一部は奥州の庄園から上がる金、馬、農産物であったと云う。(※「藤原頼長」)


【小田氏と小山氏の吉岡庄に残る系統】
[小山氏の乱]室町時代に小山義政が鎌倉公方足利氏満に起こした反乱。名門の小山氏と宇都宮氏の勢力争い。小山氏は敗れたが、討伐軍に居た『小田氏が恩賞への不満から小山氏の嫡男をかくまって居た為、氏満から追討された。』小山氏は後に親族の結城氏が継いだ。この結城氏が起こした「結城の乱」の時に「小山氏」の末裔は「越中五位庄」の「土屋村」に逃れて、その末裔は今も土屋村に残り、地域では「親っ様」と呼ばれて加賀藩時代も村役を務めた。

[越中吉岡庄に残る「小山氏」の系譜]
高岡市福岡町赤丸村や隣の三日市村には「小山」という一族が有る。この一族は「オヤマ」と呼ぶが、三日市の小山家は昔から「こやまどん」(小山殿)と呼ばれる名門である。この家の「由緒」には、「私先祖下野国之住人小山四郎朝与申候而、奉仕頼朝公右衛門尉或兵衛尉ニ相成、----其後結城之乱之節、越中国江罷越---」と記載され、鎌倉幕府の小山氏の末裔が結城の乱の時、砺波郡土屋村にやって来た事が記載されている。
(※「小山家由緒」高岡市福岡町の土屋村誌参照)

【永亨の乱】永亨十年(1438年)、室町幕府第六代将軍足利義教に対して、鎌倉に陣した鎌倉公方足利持氏が反抗した為、持氏は諌める家臣の関東管領上杉憲実を逆に討とうとした。その為、上杉は将軍義教に支援を求め、結果、持氏は敗れて自害する。
【結城の乱】永亨十二年(1440年)、鎌倉公方足利持氏の遺児3名を奉じて鎌倉公方恩顧の武将の結城氏朝(下総結城氏の第11代当主。小山泰朝の次男。 )は新田、田中、佐野、今川、木戸、宇都宮、小山、桃井、里見、一宮、野田、矢部、下河辺の諸将等を味方として反乱を起こしたが、結城城で降伏。持氏の遺児春王丸・安王丸は将軍足利義教に殺害されたが、幼い永寿王は一命を許されて土岐持頼に預けられた。この永寿王は文安五年(一四四九)一月元服して足利成氏と名乗り鎌倉公方に復帰する。父を殺された成氏は諸国巡礼に出向いた上杉憲実の子の嫡男憲忠を享徳三年(一四五四)十二月に殺害し、古河へのがれて「古河公方」を名乗る。一方、幕府は足利政知を任命したが、乱を恐れて伊豆に留まり「堀越公方」となった。室町幕府は、不在になった鎌倉には関東管領山内上杉氏を据え、長尾氏を執事に任命した。※嘉吉元年(1441年)の幕府軍の総攻撃で結城城は炎上し、結城氏朝は嫡子の持朝とともに自害し結城氏は没落した。敗れた結城氏は白河結城氏後継に小峰氏から養子として直朝を迎えている。持氏の遺児の足利成氏が鎌倉公方に復帰した時、結城氏は氏朝の末子結城成朝が再興を許されたがその後は衰退の一途をたどる。成朝は成氏の命を受けて関東管領上杉憲忠を謀殺し「享徳の乱」が起こる。足利成氏は古河に逃れて古河公方と称した。
✳石堤長光寺境内に「織田氏知」の墓が遺されており、小田氏系図には「小田氏知」の名がある。この結城(小田)氏朝と氏知は同じ人か? 果たして石堤長光寺創建の小田氏知は、土屋村に残る「結城の乱」の後に越中土屋に逃れた小山氏と関係があるのだろうか?


【藤原秀郷伝説 ー藤原秀郷と龍神】
◎(wiki:【藤原秀郷=俵藤太の百足(ムカデ)退治伝説】
近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を7巻き半する大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという。(秀郷の本拠地は下野国―栃木県)
(伊勢神宮には「秀郷が百足退治に際して龍神から送られた」という伝来の太刀が奉納され、「蜈蚣切」(蜈蚣切丸、とも)の名で宝刀として所蔵されている。 )

◎赤丸浅井神社、石堤長光寺の山並に連なる高岡市の二上山にも藤原秀郷の伝説が有る。
民話【高岡市二上山の悪王子伝説】
昔々、越中の「二上山」に強い力を持つ神様が住んでおり、天候を操作して越中の人々に豊かな穀物を与えていました。が、その代わりとして月に5人、一年間にして60人もの若い娘を人身御供に要求していました。 地元の人々は嘆き悲しみその悲しみの声は帝(みかど)の耳にも達しました。帝は ついに俵藤太(藤原秀郷。田原に住む藤原氏の頭の意。)に勅命を下し、この邪悪な神の討伐を命じました。秀郷は琵琶湖の龍神を助けて三上山の大百足を退治し、平将門を鎮圧した猛将として有名でした。秀郷が越中の二上山の近く迄来ると一軒の家から泣き声が聞こえて来たので、その家を覗いた所、お爺さんとお婆さんが一人の娘と泣いています。事情を聞くと、夕べこの家の屋根に「二上の神」から「娘を差し出せ」という合図の白羽の矢が立ったと泣きながら話します。秀郷は事情を聞くとその娘の打掛けを頭から被り秀郷が身代わりになると云う。秀郷を乗せた輿は「荻布村」に着き、「俎板橋(まないたばし)」という橋に置かれました。輿を残して運ん村人達は一目散に逃げ去りました。二上山に夕陽が落ちて暗くなると突然、一陣の風が吹きつけて秀郷の乗る輿は空高く舞い上げられて「二上山」の山頂に運ばれて行きました。 真暗な闇の中で秀郷は刀や弓を持ち、じっと気配を伺っていると、少し風が吹いて、地面が揺れ初め、地鳴りと共に大きな光る輝く二つの目がゆっくりと近づいて来ます。秀郷は素早く自慢の弓を満月に引き絞ると次々に矢を放ちますがいくら射っても矢は化物に跳ね返されます。最後の一本になって願いを込めて渾身の力で矢を放つと、確かに手応えが有りました。次いで腰の刀を引き抜いて斬りかかり、渾身の力で斬って斬って斬り捲ります。どれ程の時間が過ぎたものか東の「立山」からの朝の光が殺された「二上の神」を照らし出します。するとその化物は二上山を「七巻き半」も巻き込む位の「大蛇」の姿でした。その後、「二上の神」は「悪王子社」として「前の御前」に祀られ、俵藤太は「奥の御前」に祀られました。しかし、この伝説は今も射水神社の「築山行事」に受け継がれ、「築山」を日暮れ前に壊さないと「悪王子」が取り憑き、大暴れしてその年は米が不作になるとされています。
【二上山の伝説より】

【「石堤長光寺」の寺紋「玉持ち五爪の龍紋」 と藤原秀郷】
⇒「龍の爪紋」は藤原秀郷流で用いられたと云う。当初は藤原秀郷=龍神の発想から神社の神紋にも使用された様だ。小田氏同族の宇都宮氏は"左三つ巴"、小山氏は"右二つ巴紋"で、一般的には藤原秀郷流では水の流れを模った二つ巴、三つ巴紋や「藤姓」の下り藤紋を使用しているケースが多い様だ。藤姓宇都宮氏流小田氏は洲浜紋という紋をしており、巴紋の変形ともみられる。これ等は龍が水神であると同時に、龍の爪紋が簡略された場合もあったとみられる。寺院では「珠」は「宝珠」ともされ、龍の彫刻も多く見られる。しかし、長光寺の「玉持ち龍の爪紋」は全国でも見受けられないが、氏族の系統からすると「天智天皇の子孫の藤原秀郷流」を意味しているとすると「五爪の龍」の意味も通じる。一般的には「三爪の龍」が使用されるが、皇帝しか使用できない「五爪の龍」に、この寺の歴史が通常ではない事が推察できる。日本の天皇でも孝明天皇迄使用された「袞衣(こんい)」と呼ばれる中国風の赤い衣装の龍の爪は四本であり、中国皇帝は五本の爪であった。とすると、この「五本の爪」が「石堤長光寺」の寺紋になっているのは、少なくても天皇家以上の家紋を用いていたと言うことになる。「龍の爪紋」は常陸の国信太郡竜崎村を起源とする龍崎氏等が使用し、常陸の藤原秀郷流「龍崎氏」は茨城、千葉、東京都、神奈川等の関東に多いとされる。
鎌倉時代に越中には「臨済宗」の寺院が多く建立されている。北条氏は建長寺他の臨済宗寺院を建立し、比護している。高岡市赤丸村の「赤丸浅井神社」は徳川と豊臣の戦乱のきっかけとされる臨済宗の「方広寺」と同じ「両部神道聖護院派山伏」だったが、鎌倉時代には赤丸から伏木・新湊にかけては鎌倉五山系列の臨済宗寺院が多く在ったと伝わる。後醍醐天皇の皇子の「尊珍」は聖護院門跡で有り、赤丸を中心とした「越中吉岡庄」は当時、後醍醐天皇の庄園だったと云う。(✳「宝永史」) 現在の高岡市に在る古刹で尺八・虚無僧の総本山「国泰寺」も臨済宗で有り、南北朝時代には後醍醐天皇が篤く信仰され比護されたと云う。室町時代に入ると足利義満は臨済宗相国寺・金閣寺を建立し、赤丸周辺の五位庄(元の後醍醐天皇庄園越中吉岡庄)をこれ等の寺院に糧所として寄進し、その後も足利家菩提寺の等持寺・等持院領として寄進している。臨済宗では「龍」は仏の教えを助ける八部衆の一つで「龍神」と呼ばれる。従って、臨済宗の寺院には天井絵や彫り物として「龍」が使用されている。加賀藩時代にも氷見阿尾城城主の子孫の菊地大学は赤丸村の山崎氏に国泰寺維持への協力依頼の文書を送っている。この様に「吉岡庄」「五位庄」は臨済宗の影響も長く受け続けた地域である。
●鎌倉の古刹の各寺院の龍の絵は、江戸時代迄に書かれたものは「三爪の龍図」で、近年に書かれた鎌倉建長寺の龍は「五爪の龍図」で有る。この「石堤長光寺」の「五爪の龍」が「宋の皇帝から贈られたものか、創建に関わった一族の五爪の龍」で無い限り、旧い時代には厳格に使用を禁じられたものであった。(✳天皇でも「四爪の龍」しか使用されていない。)

[藤原秀郷の後裔と家紋]
[下野国]佐野氏、足利氏 (藤原氏)、小山氏、長沼氏他 [武蔵国]比企氏他 [常陸国]佐藤氏、水谷氏、江戸氏他 [下総国]結城(小田)氏他は藤原秀郷の末裔とされる。
一方、足利氏、斯波氏は「丸に二両引き紋で円の中に二本の横棒」、織田氏は「神紋由来の織田木弧紋」を用いており、子孫が別々の紋を用いたとしても、藤原秀郷流の紋を使ったとは思えない。「龍」は滋賀県大津市の「勢田橋龍宮秀郷社」では【祭神:大神霊龍王 藤原秀郷公】として龍王の藤原秀郷を神としており、藤原秀郷を龍神として信仰する歴史があった様だ。
※藤原秀郷流系図
藤原秀郷→→→→頼行→行尊(太田)→有綱→正光(小山)→朝光(結城)



【その後の結城氏の系譜】結城氏は1590年豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して小山氏、小田氏の旧領の一部を与えられ、初め宇都宮氏から養子の朝時を迎えていたが、後にはこれを廃して徳川家康の次男で豊臣秀吉の養子になっていた羽柴秀康を後継者に迎え、結城秀康と名乗る。結城秀康は1604年越前に移封され、名字を「松平」と改姓した。又、白河結城氏の末裔は水戸藩家老(1000石)となり、小山氏、宇都宮氏と共に水戸藩御三家となった。※徳川家康の次男秀康(家康が正室・築山殿の侍女に産ませた)は秀吉の養子となるが、秀吉の子供である秀頼が生まれると結城晴朝の姪である鶴姫と 婚姻を結び結城氏となった


【北陸に残る藤原秀郷の末裔[八田氏]】小松市には小田合繊や、金沢には宇都宮書店等が有り、大和百貨店の社長の宮家の親族には金沢ニューグランドホテルの社長を務められた八田氏がある。

【奥州と越中吉岡庄】
東大寺大仏造営の時、東北の陸奥国小田保( 宮城県涌谷町※石巻近く ) の金山から金が発掘され、聖武天皇は狂喜されたと云う。大伴家持(後には陸奥国多賀城に赴任した)が越中国司の時、聖武天皇に「金を産出した事を祝う歌」として「海行かば」の有名な歌を贈っている。
東大寺大仏造営の為に資金を提供した富山県と大伴家持、越中と陸奥国に勤務した大伴家持、金を産出した陸奥国「小田保」と「小田氏」、奥州を統治した藤原秀郷の子孫奥州藤原一族と奥州藤原氏に奥州の庄園を管理させていた越中吉岡庄の領主の藤原頼長、南北朝期に後醍醐天皇の皇子が統治された陸奥国と後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」ーーこの様に見ると、赤丸村浅井神社を核とした「越中吉岡庄」と「奥州、陸奥守国」の関係の深さが解ってくる。

茨城県筑波市小田には広大な小田城趾が残る。筑波山系の宝篋山南西麓にある中世の平城で、陸奥国小田郡小田保を発祥の地とする小田氏が常陸国筑波郡小田邑に入って城を築いた。
元弘三年五月の後醍醐天皇の建武の中興の時に小田氏は南朝派の東国武士団の先駆けとして新政権に参画した。建武の中興が挫折し、足利尊氏軍の高師冬軍に囲またがその時京都の公家北畠親房が入り小田城を守った。これは常陸合戦と呼ばれる。北畠親房は後醍醐天皇の薨去を知り、神代から後村上天皇の即位迄を記した南朝の正統性を示す歴史書「神皇正統記」をこの小田城で書いた。北朝軍の猛攻で小田城は降伏し、北畠親房は関城へ逃れた。
この時、南朝の武将で越中石黒太郎光弘の直系の福満城(福光)城主石黒重之も北畠親房に従ってこの常陸国小田城の合戦にも参戦していたと云う。(※「尾張石黒大介系図」富山県姓氏家系大辞典)


※【常陸国中世武家の系譜と在地基盤に関する基礎的研究】[糸賀茂男(常磐大学人間科学部助教授]に、「小田氏関係史料の研究」として[小田氏故地陸奥国小田保、小田氏流高野氏故地陸奥国高野部の踏査を行った]とされている。】

【室町時代の五位庄】
1336年(建武3年)に足利尊氏が室町幕府を創立すると、畠山家はこれまでの功績によって越中・河内・紀伊の守護に任じられた。足利義満の時に越中五位庄の半分は義満が建立した相国寺(金閣寺)に寄進され、室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護畠山満家に預け置かれた。 名古屋市の大須観音の古文書には畠山満家の三回忌が「浜総持寺」で執り行われた記録がある。(※射水市松山学芸員調査によるとこの「浜総持寺」はその時の読経の文書から、現在高岡市内に在り黄金の千手観音像を祀っている「総持寺」が赤丸村から高岡市に移る間に一時期、射水の海岸寄りに在ったものと推定されると言う。)



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