赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

●『妙法院』・『三十三間堂』と『京都大仏』⇒「古地図」と『洛中洛外図』に見られる豊臣秀吉が造営した『京都大仏』!!

2017-06-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






豊臣秀吉は天正十三年(1585年)に関白と成り豊臣の姓を賜った。翌年に秀吉は京都大仏の造営を発願して、天正十六年(1588年)に蓮華王院三十三間堂の北側、妙法院の西側に大仏造営が始まった。この場所には元々「仏光寺」が在ったが洛中に移転させられ、この年には「刀狩令」が発せられた。文禄四年(1595年)には天台宗方広寺大仏殿の住職に聖護院道澄(照光院)が任ぜられた。その後、この周辺には「照光院」や巨大な二十一間の経堂や庫裡等が順次に建てられて、文禄五年には大仏開眼供養が行われる予定だったが、七月に慶長の大地震が起こり本尊の大仏が大破した。慶長三年八月十八日に豊臣秀吉は亡くなったが、倒壊した大仏の台座に信濃善光寺の阿弥陀如来を移座して大掛かりな供養会を開き、大仏殿の東の阿弥陀ケ峰の麓に豊国社が建てられたものの、秀吉の死は伏せられて、家臣に秀吉の葬儀が盛大に執り行われた様に葬儀次第やその様子を作文して書写させて各地にバラ撒いた。慶長四年、豊臣秀頼は、秀吉の大仏が木造だった為に今回は焼けない様にと金銅仏で造る事にしたものの、慶長七年(1602年)には大仏鋳造の火に因ってその大仏殿が全焼した。慶長十三年、秀頼は再度大仏造営に乗り出し、慶長十九年には大仏殿方広寺が完成して八月には大仏開眼供養が行われる予定になったが、その直前の六月二十八日に、方広寺鐘楼に吊られた鐘の銘文に「国家安康」の文字が在るとして徳川が言いがかりをつけ、その為に開眼供養は延期された。その結果、豊臣と徳川の最終決戦が開始される事に成る。その翌年、元和元年(1615年)に豊臣家は滅びた。
その時に聖護院道澄は大仏寺から追われ、その管轄は妙法院に移され、住職も妙法院が任命された。この時に蓮華王院三十三間堂も妙法院の管轄下になった。大仏は金銅仏だったが寛文二年(1662年)の大地震で大破して、その後木造で再建されたものの寛政十年(1798年)の落雷で大仏殿もろとも焼け落ちたと云う。



「越中吉岡庄」は、元々摂関家長者藤原頼長領だったが、「保元の乱」で勝利した後白河上皇に没官されて上皇の庄園の「後院領」に成った。後白河上皇はその御所の法住寺殿の中に蓮華王院(三十三間堂)を建立して、「越中吉岡庄」をその糧所として寄進された。その後、後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄は皇室領として伝領し、室町幕府の第三代将軍足利頼満の時に京都の相国寺(鹿苑寺金閣舎利殿)に寄進され、続いて足利家菩提寺の等持寺、等持院の庄園として続いた。

妙法院は、後白河上皇自らが第十五代門跡となられ、第二十四代には後醍醐天皇皇子尊澄法親王が就任され、第三十代には足利義教の猶子の教覚准后が就任される等、歴代の門主は天皇の皇子や藤原氏、源氏、公卿の子息等が就任されている。「越中吉岡庄」やその後の「五位庄」の時代にも赤丸村は天皇家や、時の権力者の庄園で在った事から、この妙法院や聖護院、方広寺等といつも関連して激動の歴史を刻んで来ている。

加賀藩前田家は豊臣恩顧の大名で在ったが、表向き徳川政権に従う形をとっていたものの、背後では秘かに独自の路線を採っていたらしい。後白河上皇以来の「後院領」で在った越中吉岡庄、越中五位庄の赤丸村の「川人山鞍馬寺」、「赤丸浅井神社」は聖護院派本山派修験道で在った為に、徳川幕府と組んだ唯一神道を唱える「吉田神道」の攻撃を受け、豊臣恩顧の聖護院派と云う事から徳川幕府からの監視の目は避けられなかった様だ。「聖護院」は後白河上皇の皇子が門跡として初めに入られた為に、後白河上皇の庄園で在った赤丸村の「川人山鞍馬寺」、「赤丸浅井神社」はいつの頃からか聖護院派に成った様だ。赤丸浅井神社の宝蔵には現在も「聖護院宮御用」と記載された奉納荷駄に付けた「献納札」が保管されている。

しかし、加賀藩第十三代前田斎泰は赤丸浅井神社に神号の掛軸を下賜してこの軸から「赤丸浅井神社」の「額」を作り、神社拝殿に掛ける事を許可し、加賀藩の板橋下屋敷には越中大岩山不動明王像を祀り、その近くの小山には赤丸清水山を模して「赤丸山」と銘々した築山を築いていた。この場所に神社や仏像が祀られていたのかは不明だが、前田家は赤丸浅井神社が皇室と特殊な関係で在り、豊臣の信仰した聖護院派で在った事から秘かに庇護していたらしく、吉田神道の石堤浅井神社との本家争いでも赤丸浅井神社を正当な延喜式内社と認定して、石堤浅井神社に勝手に持ち込まれた吉田神道の祭具の撤去を石堤浅井神社神官に命じている。
(※この記録の写しは「皆月家文書」として金沢市立図書館に保管されており、加賀藩板橋下屋敷図には「赤丸山」の記載が見られる。→赤丸村皆月家は五位庄の組合頭を務めた家系。)









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