赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

📕 🐎 源氏の「二人の義経」 !! ⇒「源義経主従」の東海道奥州下向説の錯誤。

2017-09-13 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村

源九郎判官義経像





源氏に「二人の義経」がいた事はあまり知られていない。一人は近江源氏の「山本冠者義経」でこの系統は甲斐源氏の祖の森羅三郎義光の後の三代目に現れる。官位は伊賀・若狭守で「吉記」「延慶本平家物語」「源平盛衰記」に、木曽義仲に味方した「相伴源治」の十一名の中に「山本兵衛尉義経」「山本左兵衛尉義恒」として記載されている。源(山本・山下)義経は安元二年(1176年)十二月に延暦寺の根本中堂衆を殺害し、延暦寺の強訴により佐渡に配流されている。「保元の乱」以後の情勢は戦功に対する恩賞の不満が源氏にクスブリ続け、源(山本・山下)義経は治承4年(1180年)11月には平家の有力家人で平宗盛の後見の飛騨守景家の一族を近江で殺害している。本拠地は湖東平野のほぼ中央部の近江八幡市馬淵町の馬淵庄の「馬淵城」を拠点とし、延暦寺、園城寺領の集中地帯であった事からこれ等の寺院勢力とも対立していた。この場所は北陸道や東海道、京、畿内を結ぶ戦略上重要な位置に有り、木曽義仲の味方としては戦略上大変重要な場所であった。木曽義仲が入京すると後白河上皇は一部の「相伴源治」の分裂を画策し、親義仲派と反義仲派に割れたが、源(山本)義経は親義仲派として伊賀・若狭の国主に任命されている。源(山本)義経の子、錦部冠者(錦織冠者義広)は近江兵僧連合の代表として、比叡山に逃れた後白河上皇を護衛して京へと帰還させている。



一方、もう一人の源義経は誰もが知る源頼朝の弟で、実の父は源義朝、母は常盤御前。義理の父を平清盛に持ち、常盤御前は平清盛との間に女子を設けている。この子の法名は女人高野として名高い「河内金剛寺」の過去帳に記載されている。後白河上皇から無断で官位を受けて兄の源頼朝から追討される。奥州藤原氏に向けて逃避行する物語が「義経記」だが、「義経記」が室町期に創作されたとして歴史的な価値は少ないと云う学者がいる。又、「義経記」では敦賀から福井県を経て、石川、越中に到り、倶利伽羅峠を越えて五位庄に至り「二位の渡し」から船に乗ろうとして関所の「平権の守」に見とがめられて、弁慶は咄嗟に義経を打擲してその疑いを晴らすというあの有名なシーンがここで出てくる。学者は「実際には美濃から表日本のルートで奥州を目指した」とか、「義経記」の記載が当てにならないとか主張される方もいらっしゃる様だ。しかし、能の「安宅」でも歌舞伎の「勧進帳」でも北陸ルートを通過した点は共通している。
義経の美濃通過説は「吾妻鏡」に、「伊勢美濃国を経て奥羽へ赴いた」と記載されている事が根拠だが、「吾妻鏡」の記載は伝聞を記載しており、幕府は義経が奥羽に到着する迄は正確な情報を把握しておらず、幕府の必死の探索にも関わらず情報が入らない事も記載されている。
ただ、「勧進帳」の見せ場の「小松安宅関」のシーンは全くの創作であり、高岡市が伏木河口に「義経と弁慶の像」を建てた時には小松市から高岡市に対してクレームが来たと云う。
史実を知らない人達のコップの中の争いとでも言うべきか? 実際に「義経記」を検証すると、後世に作られた為、場所は「五位庄」での出来事になっているが、実際は後白河上皇の荘園「越中吉岡庄」での出来事であり、「越中吉岡庄」は南北朝期の後醍醐天皇まで皇室領として伝領し、後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が「五位庄」と任命されたと云う事が加賀藩の記録「宝永誌」(※福光町図書館に副本在り。)に記載されている。
この「越中吉岡庄」は、高岡市福岡町赤丸の「赤丸浅井城・浅井神社」を中心とする往古は「53カ村」の荘園で有ったと浅井神社の記録は伝える。古文書を調べると、この「赤丸浅井城」が「義経記」記載の「如意の城」であり、「二位の渡し」とは「元正帝二位の宮御創建の赤丸浅井神社」の前に有った「二位の渡し」(近年まで残っていた後の五位の渡しの事)である事が判る。又、「六渡寺の渡し」とは小矢部川上流から河口迄の船下りルートを指し(※庄川と小矢部川が合流していた部分から河口迄の広い部分を六渡寺川と呼んでいた。)、高岡市や射水市が主張してきた「六渡寺村内の渡し場」の事では無いと云う事が判る。小松市や射水市の主張は「赤丸浅井神社由緒」「浪合記」「宝永誌」「小矢部川古図」等の本当の古文書に触れていない為の誤解であり、「勧進帳」や「安宅」こそ史実に合わない全くの創作だと判る。

「源義経」が二人居た事、義経の奥州下りのルートと山本義経が勢力を持っていた滋賀や伊賀・若狭がエリアとして重なり、時代的にも二人の義経は木曽義仲と密接な人物だった事から、地域の伝承が重なっているのかも知れない。美濃は甲賀とも近く、奥州下りの物語に熱狂した人々が各地に「ゆかりの場所」を作ったと見られる。富山県の名所になっている富山湾の「義経岩」も本当の所は古墳だと聞いた事が有り、義経が能登へ立ち寄ったという伝説も、義経の妻が能登に流罪になっていた平時忠の娘であったからであろう。しかし、「義経記」の内容は詳細の地理を検証すると極めて細部迄調査して構成され、単なる「伝記」「物語」では無く、ドキュメントに近い事が解ってくる。

・「治承・寿永の内乱論序説」浅香年木著 法政大学出版局 参照
『政治』 ã‚¸ãƒ£ãƒ³ãƒ«ã®ãƒ©ãƒ³ã‚­ãƒ³ã‚°
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