赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚📃 【越中国利波郡】 「平成28年西山歴史街道展」・越中の伝説上の「利波臣志留志 」の実在記録 !! ⇒ 初公開「東大寺上院修中過去帳」(※高岡市福岡歴史民俗資料館)

2021-02-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






■【高岡市西山歴史街道整備事業】
東大寺の大仏造営の時に「米五千石」を寄進した越中の豪族の記録が公開された。「東大寺」、「奈良国立博物館」の御協力で、「利波臣志留志」の名前が記入された古文書「東大寺修院過去帳」の現物写真の貸し出しが初めて認められた。
この「修院過去帳」は毎年三月、「東大寺二月堂」で開催される「お水取り行事」で読み上げられる重要な文書で、東大寺大仏造営に関わった聖武天皇以下、寄進者の名簿で在り、「利波臣志留志」はその寄進者筆頭に「米五千石寄進者」として記載される。

■「五位庄赤丸村」には古くから「利波臣が赤丸浅井城を建設してその後裔の石黒氏が累代居城とした」と伝えられる。(※南北朝の頃、越中石黒氏の石黒光景が赤丸浅井城を再建した。この人物は「越中石黒系図」では源平盛衰紀に登場する「石黒光弘」の父に当たる。)





■《石黒系図の利波臣系図》


■《日本書紀、古事記記載の高志利波臣系図合成》


「孝霊天皇」は、『日本書紀』では「大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)」、『古事記』では「大倭根子日子賦斗邇命」とされる。

※【日子刺肩別命】⇒「利波臣」の祖先神とされる。
・孝霊天皇と意富夜麻登久邇阿礼比売命の子
・高志之利波臣、豊国之国前臣、五百原君、角鹿海直(敦賀)の祖とされる。
●越中の「日子刺肩別命」 を祭神とする神社。
【荊波神社】 富山県砺波市池原南山601
【荊波神社】 富山県南砺市岩木5024
【臼谷八幡宮】 富山県小矢部市臼谷6967













「東大寺上院修中過去帳」⇒『利波臣志留志が米五千石を寄進した。』



「東大寺二月堂神名帳」⇒『越中井波町の高瀬神社が記載されている。』







■「上院修中過去帳」※僧が転読する過去帳の写本
(※「利波臣志留志」には「シルノサクヮン」とカナがふって在る。この階位は養老令による官位では「上国」で在った越中国では「従八位上」の「志(目) サカン」と言う位で在った事が分かる。―「文徳実録」仁寿二年では(目) 、p61)
「利波臣志留志」は「利波臣志留」と言う人物で「志 サクヮン」と言う当時の役職で在った人物と云う意味で有り、当時の役職ー正八位下【大志】、従八位上【少志】と言う位階から当時の地方官の役職を示している。当時の「四部官制」と言う役職により「カミ、スケ、ジョウ、サカン」は様々な文字で表されており、「神祗官」では伯・副・佑・史、「省」では鄕・輔・丞・録、「職」では大夫・亮・進・属、「寮」では頭・助・ 允・属、「国」では守・介・掾・目と異なった文字を使用するが、すべて『かみ』『すけ』『じょう』『 さかん』と読み、【兵衛府、衛門府、検非遣使】では「督」、「佐」名、「尉」、「志」を使用している。「利波臣」は武人としてこの「志」を当てた官職だった様だ。

★しかし、修院過去帳に記載される寄進者名簿の利波臣以外は名前の末尾に「官名」が記されていない。或は、東大寺の読み仮名が誤りとも思われる。「志留志」で「シルシ」と読む現代の読み方が正解か?






■平成28年の「お水取り特別展」では利波臣志留志が東大寺大仏造営の時に米五千石を寄進した事を記載した「上院修中過去帳」の現物が初めて出品された。
(特別展図録はミュージアムショップで購入。¥1,500- ⇒送付可。)





(※「青衣の女人」より)


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