赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴📃📃 「高岡市関野神社」と「延喜式内社赤丸浅井神社」の争い⇒両部神道と唯一神道の激しい争論の歴史!!

2017-10-18 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●明らかになった「赤丸浅井神社別当 鞍馬寺」(※西法院)と吉田神道の「高岡市関野神社」・「石堤浅井神社」の争論の実態。




高岡市の前田利長を祀る「吉田神道 関野神社」が加賀藩に提出した文書控え
(※金沢市立図書館)



■赤丸村組合頭「皆月家」の古記録に「砺波郡石堤村一件 寛政13年・1801年」と言う記録が在る。


これは「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」が1760年から1765年にかけて争った事件である。
赤丸村の「川人山鞍馬寺」は「赤丸浅井神社」・「石堤浅井神社」・「舞谷八幡宮」の三社の別当寺で在ったが、「川人山鞍馬寺」は赤丸城の中山氏に追われて福岡町一歩二歩に逃げ、その後継として鞍馬寺の七つの寺坊の内「西法院」(西宝院)だけが残って「鞍馬寺」の後継と成り、赤丸浅井神社の神官も兼ねていた。当時は両部神道では「神前読経」と云う習慣が在り、神社で読経する事も日常行われていた。従って、この三社の維持の責任は「西法院」に在った為に、石堤浅井神社の改築費用も西法院が調達していたと云う。
しかし、吉田神道の唯一神道を唱えた高岡市の「関野神社」の神官「関三河守」は、高岡市月野谷村の清水神官を焚き付けて、それまで石堤浅井神社に祀っていた毘沙門天等の三体の仏像や鰐口等を突然、清水神官に取り除かせて、それを隠してしまったと云う。
その為に門跡寺院(天皇の一族が門跡と成る皇室所縁の寺院)「聖護院」の末寺で在った「川人山鞍馬寺」は聖護院本山や加賀藩に訴えを起こした。この争いは表向きは「関野神社関三河守」と「聖護院」の争いと成ったが、その陰で困った氏子は両方に分かれて争った。
その上、この争いには領内から各戸、米一升を集める権利が絡んでいた為に、争いは長期化した。

■「鞍馬寺側」は「昔は石堤浅井神社の祭礼は小矢部市の埴生八幡宮が執り行っていた」と主張して、一方、関野神社の関三河守は前田家の氏神と言う立場を利用して無理矢理石堤浅井神社や高岡市の熊野神社等の簒奪を進めようとした。しかし、「赤丸浅井神社」には「浅井城主の浅井左衛門佐」を通じて三代藩主利常や四代光高が初穂米の徴収権を二上山養老寺、石動山天平寺と共に安堵していたと主張し、熊野神社も前田利長が「先宮熊野社」の称号を与えていた為に、これ等の両部神道の各寺は「既に加賀藩の認可を受けている」と主張した。その上、歴代藩主が「太刀やお金等を寄進していた」と言う書状が出た為に、さすがの関野神社も加賀藩に楯突く事が出来なく成った。しかも、この裁判には皇室所縁の聖護院本山も調査に乗り出してきた為に加賀藩は「速やかに石堤浅井神社から取り除いた仏具を返して、清水神官が持ち込んだ祭具は月野谷に持ち帰れ」との判断を下した。

「赤丸浅井城」と鎮守の「赤丸浅井神社」















「後醍醐天皇皇子宗良親王」が創建され、「先宮」と前田利長が命名した「熊野社」




▼これ等の加賀藩主から寄進された刀剣は第一次世界大戦前迄残っていたが、戦争の為に供出する事を怖れて土中に埋めた為に、戦後掘り起こした時には錆びてしまっていたと古老は伝える。又、明治十年頃の「浅井神社宝物帳」には「第三代前田利常、第四代前田光高からの書状」も記録されているが、現在はその行方も分からない。






この時に高岡市関町の「総持寺」も仲裁に乗り出して、「石堤浅井神社は清水神官が奉仕している。石堤浅井神社は寛文7年に三社権現から神号を許されて世俗的には川人大明神又は、河人神社と呼ばれてきた。」と説明し、一方、赤丸舞谷の「清水山観音堂」は「西法院」の持ち寺で在り、総持寺の持ち宮の「石堤村水の宮」は氏子が奉仕していると説明して文書を提出している。
加賀藩とも密接で、日頃、西法院共懇意にしていたとされる「総持寺」の仲介は大きかった様だ。
総持寺が仲介に出たのは、総持寺を代々護持してきた門徒総代の 池田家は元々、赤丸浅井神社の門前に屋敷を構え、赤丸浅井神社の周辺を取り囲む様に一族が屋敷を構えている赤丸浅井神社と密接な一族で在る事も在り、又、この池田家は石堤地内に大きな新田を開発していた一族で在った事も有るようだ。現在の高岡インター周辺の「池田地区」もこの池田家が開発した地域で在る。
(※「石堤村史」)

「赤丸浅井神社古墟図」(※「加賀藩士森田柿園」が残した森田柿園文庫 所蔵)
(※石川県立図書館)



高岡市関町「衆徳山総持寺」






高岡市関町の「総持寺」は嘗て、赤丸村舞谷に在ったが、「五位庄」が室町時代に足利義満の庄園(※「相国寺」の庄園と成る。)に成った時に赤丸村を離れて高岡市の現在地に動いたと伝承されている。









▼その後、加賀藩第十三代前田斎泰は「赤丸浅井神社」の扁額「浅井神社」を揮毫して赤丸浅井神社に奉納し、加賀藩江戸板橋下屋敷には「赤丸山」と云う築山を築いている。


「加賀藩第十三代前田斎泰が揮毫した赤丸浅井神社の扁額」






しかし、明治維新で維新政府が「両部神道の廃止」を宣言して廃仏毀釈運動が激しくなると、嘗て敗北した関野神社関神官は廃仏毀釈運動を主導して、二上射水神社を養老寺から離して高岡古城公園に移動させ、石堤浅井神社には「郷社 延喜式内社」を唱えさせ、石動山天平寺は全山廃止にした。その報復も激しく、その時に赤丸浅井神社の西法院の墓の石仏は全て首を切られて打ち捨てられた。今はその石仏の首が修復されて赤丸浅井神社の背後の古い墓地に静かに立っている。

赤丸村の向野新村は石堤村の「山本助九郎」と福岡町に菅笠を伝えた大野源作の子孫「大野次兵衛」が開発し、各々を「助九郎島」、「次兵衛島」と呼ぶ。又、石堤村と赤丸村は血縁関係が多く、一時期は向野新村の大野氏が石堤村を含む総代に就任した事も在る。その密接な集落に高岡市の関野神社は拭いされない憎しみを植え付けた。一部の石堤村の村役は関野神社・清水神官に取り入り、数々の文書を創作して清水神官に提出した。その偽文書は高岡市の歴史家「飛見丈繁氏」に渡り、飛見氏はそれを基に数々の論文を作成・発刊した。高岡市の有力者で、富山県議会議員・歯科医師で高岡市関町の総持寺住職の奥様の兄でも在った飛見氏の影響力は大きく、「高岡市史」の編纂者はその創作資料を独断専行して採用して「高岡市史」を発行した。間違いだらけの資料を採用して独断専行して編纂された「高岡市史」について、高岡市在住の歯科医師「桜木成一氏」は『ある贋作物語』や総持寺研究書等を刊行して、「高岡市史」のデタラメを追及された。しかし、この論争は「総持寺の奥様の兄に当たる飛見氏」の主張を遺して双方の主張はそのまま現在に引き継がれた。これ等の著作は全て高岡市中央図書館に所蔵されている。
(※「高岡市史」はこのトラブルの為だろうか「資料編」は発行されなかった。)

この時の高岡市の「吉田神道関野神社」の「横車」は、明治維新になり、加賀藩の権威を背景に「廃仏毀釈運動」を主導した事から正当化され、両部神道の神社は口を塞がれ、吉田神道の裁可を受けていた神社も一斉に口をつぐんだ。戦後、新しい神社庁は全ての神社を対象に発足したが、高岡市では皇室所縁の伊勢神道では無くこの吉田神道の影響力が大きい。
高岡市民は関野神社が作り上げた高岡市内の射水神社を崇敬し、「曳き山祭り」は関野神社の祭礼だと端から信じており、現在の高岡市の歴史や高岡市曳き山祭り等の由緒にも強く影響している。この一件はそもそも吉田神道の横暴に端を発したが、この思想は高岡市教育委員会に深く入り込み、現在も尚、真実が追及される事も無く、地域を分断する様な重いしこりを遺している。正に高岡市の歴史や文化は吉田神道がでっち上げた歴史の上に構築されており、何も知らない市民や学生は真実を知ろうともせずに加賀藩の威光を今も頼りにしている。
『社会』 ã‚¸ãƒ£ãƒ³ãƒ«ã®ãƒ©ãƒ³ã‚­ãƒ³ã‚°
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