赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

📄📘📖 信西の孫『小督』の妹は長谷部信連の妻⇒長氏と五位庄赤丸村!!

2017-09-24 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸







「平家物語」の冒頭を飾る「長谷部信連」は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将で能登の国人長氏の祖である。
長谷部信連は胆勇を誇った人物で滝口武者として強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられ、後に後白河上皇の皇子の以仁王に仕えた。治承4年(1180年)に以仁王は源頼政と謀って平氏追討の計画を進めていたが、計画が発覚した時、長谷部信連は以仁王を三井寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するも検非違使の源光長に捕らえられ、後に平宗盛に詰問されるが屈する事なく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。『平家物語』巻第4「信連」に拠れば平清盛はその勇烈を賞して信連を伯耆国日野郡に流した。平家滅亡後、源頼朝は以仁王の遺臣の信連を安芸国検非違使所に補し、能登国珠洲郡大家荘を与えた。信連の子孫は能登の国人として存続し、長氏と称し能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。加賀前田家に仕えて後は知行所として越中国五位庄赤丸村を与えられた。(※「吾妻鏡」、「小矢部市史」)
越中国五位庄赤丸村は保元の乱[平安時代末期の保元元年(1156年)7月)]の前は藤原摂関家藤原氏長者藤原頼長の所領の「越中吉岡庄」であったが、後白河上皇と信西の企てで藤原頼長は崇徳上皇をお守りして戦う事になり、敗北して崇徳上皇は恨みを残して讃岐に配流され、藤原頼長は首に流れ矢を受けて父の忠実に助けを求めるも拒否されて失望の中に亡くなった。「越中吉岡庄」は直ちに没官されて後白河上皇の「後院領」になった。(※「平範記」)
知恵者の信西は巧みに悪左夫と呼ばれた藤原頼長を追いつめて乱に至ったと云われるが、元々信西も鳥羽天皇、崇徳天皇にも蔵人として仕えた人物で、藤原家から高階家に養子に入り、高階通憲と名乗っていた。藤原一族の高階家は院の君臣、藤原摂関家の家司として活動した家系であり、鳥羽上皇の時には北面の武士として仕えていた経歴の持ち主である。しかし、実務官僚としての無力感から出家を思い立った時に藤原頼長は通憲の出家を止めようとしていたとも云われ、鳥羽上皇も出家を止めようとしたと云う。しかし、通憲は天養元年(1144年)に出家して「信西」と名乗った。保元元年(1156年)7月に鳥羽法皇が崩御されるとその葬儀を取り仕切り、鳥羽天皇が後継者とした二条天皇を即位させようとする信西は崇徳上皇、藤原頼長と対立して、両者を挙兵に追い込み勝利する。信西はその後は自らの縁者を要職に就けるなど権力を欲しい侭にしたした為、反信西派は平治元年(1159年)12月、清盛が熊野詣に出かけて都に軍事的空白が生じた隙をついて院御所の三条殿を襲撃する。これが平治の乱である。この時、信西は逃亡するも発見されて獄門台に首をさらされた。
信西(高階より復姓して藤原通憲:1106年~1160年)の三男は桜町中納言こと藤原成範(フジワラシゲノリ)で、その娘「小督局」は初め清盛の娘である建礼門院徳子の紹介で宮中に上がったが、高倉天皇は中宮の徳子よりも小督局を寵愛するようになり、清盛は怒って宮中から追い出してしまう。この小督の物語は『平家物語巻六』に登場する他、有名な能の『小督』にも登場する。『小督』は高倉天皇の寵愛を受けて範子内親王を生んでおり、その直後に出家したとされる。同じく藤原成範のもう一人の娘は「長新大夫信連室=長谷部信連」の妻であったとされる。何と信西の血脈は長谷部氏により能登、越中に伝わっていた事になる。[吾妻鏡30巻文暦2年(1235)6月29日条には長谷部信連の子の長谷部朝連(三郎左衛門尉)の記載がある。]
富山県小矢部市岡の「法性寺」は越中石黒氏の所縁のお寺としても名高いが、この寺の住職は代々、能登の国人長谷部氏の末裔の「長一族」初瀬部氏である。又、この寺からは五位庄石堤村の「長光寺」との養子縁組が古くから行われ、現在の住職も「法性寺」からの養子縁組である。「法性寺」も「長光寺」も浄土真宗の古刹で加賀一向一揆の拠点になったと云われ、「長光寺」は越中吉岡庄(南北朝以前の五位庄)の地頭をしたと古書に伝わる「小田(織田)氏知」が開いた寺と云われる古い寺院である。五位庄のこの地に古くから越中・能登の領主畠山氏の家臣でもあった長氏の勢力も浸透していたものか、この地には意外に長氏の痕跡が残る。
しかも、「歴史は巡る」という事か、その昔は「保元の乱」で敵対した藤原氏長者の藤原頼長領であった「越中吉岡庄」はその後の加賀藩時代には、敵対した「信西」の子孫所縁の能登国人長谷部氏の末裔の長九郎佐衞門が知行地とし、長谷部氏の子孫が今も尚、五位庄の多くの信徒を抱える浄土真宗の古刹の住職になっている事に断ち切れぬ歴史の因果が感じられるのである。





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