赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴「東寺百合文書」(※「教王護国寺」)に見られる越中の庄園『おいの庄』(※「五位庄」)!!

2017-10-03 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
『おいの庄』は越中国の『五位庄』の事。棟別銭課税の書状には高岡市の『まきの』、『六動寺』、天皇勅願所で在った『石動山』等の記載も有る。この文書は室町時代の文書で在り、この時期には『吉岡庄』は『五位庄』に代わっていた事が判る。足利義満は『五位庄』を京都の相国寺(※「金閣寺」)の庄園として寄進した。(※「富山県史」)



「おいの庄」は「後院領」⇒「御院領」⇒「御位領」⇒「御い庄」⇒「おんい庄」⇒「おいの庄」と転化したものと見られ、後には「五位庄」になったものと見られる。
赤丸浅井城を居城とした越中石黒氏が「大夫」(※五位の役職)で在り、その先祖の「利波臣志留志」が東大寺大仏造営の時に「米五千石を寄進」して「従五位下員外介」の国司待遇となった事から、「五位庄」になったと伝承される。しかし、加賀藩奉行の記録「宝永誌」では、「後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が浅井城に在城の時に五位庄と名付けられた」と記載される。
「東寺文書」には明確に「五位庄」と記載されたものも在り、「国立歴史民俗博物館」では平成28年に「おいの庄」は「五位庄」の事として庄園データーベースが修正された。

















「東寺」は「空海」が唐から帰国した時に朝廷から賜った寺で、東寺には「空海」が唐から持ち帰った80粒の真正仏舎利が天皇勅封の壺と東寺長者管理の壺に分けて保管されていた。
高岡市の総持寺の『国指定重要文化財木造千手観音座像』の顔の胎内には「奉納仏舎利」の記載が二ヶ所に在り、この千手観音像が伝えられた「河内金剛寺」には、住持持仏の胎内にこの東寺の仏舎利壺から、「後醍醐天皇」が二粒、「東寺長者文観」が三粒の仏舎利を納めたとする「仏舎利施入状」が遺されている。









総持寺は「越中吉岡庄」の時代は赤丸村に在った(※「国宝概説」)が、室町時代には赤丸から海岸近くに一旦、動き、更に現在地の高岡市関町に移った様だ。(※「名古屋大須観音文書」)


「畠山家文書」に記載される室町時代の越中⇒室町時代の「五位庄」は守山から富山湾に繋がっていた。


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