赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴 源頼朝家臣「越中吉岡庄地頭相良頼俊(沙弥迎蓮)」の記録(※「相良家文書」東京大学資料編纂所DB)と知行地「肥後球磨郡誌」!!

2017-07-11 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「越中吉岡庄」は南北朝末期に「五位庄」に改名されたと云う。
(※「宝永誌」福光町図書館蔵)


「保元の乱」で「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の「後院領」と成り、上皇はこの庄園を「蓮華王院三十三間堂」に寄進された。




「五位庄郷社 延喜式内社赤丸浅井神社」


■「相良氏」は遠州(静岡県浜松市相良町)相良郷を本貫地として「相良」を号し、源頼朝の旗揚げに功労が在り、肥後球磨郡人吉庄を知行され、北条時政の「畠山重忠追討」(※元久2年・1205年)に功在り、「承久の乱」(※承久三年・1221年)では幕府側で戦い、 「元寇」(※文永の役・1274年、弘安の役・1281年)では肥後菊池氏と共に蒙古と戦って華々しい軍功が在り、次々に知行地を拡大して、子孫は徳川幕府の家臣に成っている。













【相良家3代目 沙弥迎蓮】
相良氏は鎌倉幕府の源頼朝の命を受け、遠江国榛原郡相良庄(静岡県牧ノ原市相良)から熊本県に在った「人吉庄」に来て地頭になった。建久9年12月、肥後国球磨郡人吉庄に下向し人吉城に拠る。後に肥後人吉藩主相良家(2万2100石)となる。
相良頼俊(生年不詳、延慶4年1月25日(1311年2月14日)死去)は、鎌倉時代中~後期の武将で相良氏の第3代当主。(相良長頼の三男。通称は相良六郎。)
当初は大村の佐牟田に住み「佐牟田六郎」と称した。寛元4年(1246年)3月5日、父の長頼から(熊本県)「人吉庄」の南方にある「経徳名」外を、また建長3年(1251年)3月22日に「成恒庄」を譲り受け、建長6年(1254年)には兄の頼親より家督を譲られ当主となる。
その後、正嘉元年(1257年)9月14日に「成恒庄」の、その二十日後には「刁岡(とらおか)名」の地頭職を安堵され、同年、剃髪し「六郎法師沙弥迎蓮」と号す。
文永11年(1274年)の「文永の役」、そして弘安4年(1281年)の「弘安の役」では「菊池武房」と共に蒙古軍と戦って武功を挙げ、弘安10年(1287年)、家督を子の「相良長氏」に譲り隠居、延慶4年(1311年)に死去。法名は「迎蓮」。
元寇の「弘安の役」の後には美濃の東大寺庄園「茜部庄」や越中の蓮華王院領「吉岡庄」の地頭をしていたと見られる。


■「後白河上皇」は「保元の乱」で「藤原頼長」を追討して「越中吉岡庄」を「後院領」として、自ら創建された「蓮華王院三十三間堂」の庄園とされた。「源義経」の探索を口実に源頼朝は「越中吉岡庄」に「地頭吉岡成佐」を配置したが、年貢未進の責めを受けて交替させられている。その後、直ちに「相良氏」が配置されたかは不明。




★「美濃茜部庄」は、鎌倉時代に頼朝家臣で大江広元の子の長井時広が地頭になり、代々これを相続して東大寺とは度々 訴訟を繰り返して勢力を拡大するが、南北朝時代に後醍醐天皇が没収し、東大寺に再寄進した。その後の地頭は不明だが、応仁の乱の頃には完全に東大寺のもとを離れた。15世紀後半に終焉を迎えた。

■「肥後球磨郡誌」に見られる「相良氏」⇒添付資料参照(※国立国会図書館DB)














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