赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🏯 🐎 織田信長の武将達⇒ 佐々成政の故地「尾張比良城」と 越中石黒氏末裔の長谷川氏の「尾張如意城」

2017-10-03 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村
「越中で激突した戦国の武将達」


「佐々成政の多彩な系図」


「佐々成政生地の尾張比良城」と「越中石黒氏後裔、長谷川氏の尾張如意城」

[石黒氏の後裔長谷川氏が勘請した名古屋大井神社の「塩竃神社」由緒]

(塩竃六所大明神)
 石黒大炊助藤原重行は、後醍醐天皇の皇子宗良親王を貴船城に迎え、建武の中興に功績のあった越中国奈呉郷貴船城主石黒越中守藤原重之の子で、勤王の志を継ぎ度々兵を挙げたが、遂に越中国を去り一時奥州へ移る。後亀山天皇の明徳四年(一三九三年)に至り、奥州千賀に鎮座される塩竃六所大明神の御分霊を奉斎して、尾張国春日部郡如意郷に来て潜居し大井神社に合祀する。以来氏神とともに崇敬され現在に至る。


織田信長の祖は越前町織田(福井県丹生郡越前町織田)の剣神社の神官で、足利一族の管領斯波氏に従って尾張に出て尾張守護代となり、後に斯波氏の跡を受けて清洲城を拠点にしたと云う。織田信長は板東平氏の官職「上総介」を名乗り、美濃の国の天台宗円徳寺に寄進した梵鐘には「大壇那上総介平信長公」と刻ませている。信長は清和源氏の足利家傍流今川氏、甲斐源氏の武田氏、近江源氏の佐々木氏、村上源氏の北畠氏、遂には清和源氏の嫡流の足利将軍家も追放したが、「天下布武」の志も半ばの天正十年(1582年)に美濃源氏の明智光秀によって京都の本能寺で討たれた。織田信長の生涯は正に源氏との戦いであった事が判る。
(※「織田氏系図」 平清盛→重盛→資盛→親真(織田)→→→→→信秀→信長)
(※信長の妹の市が嫁いだ浅井氏は藤原氏。)
(※織田信長は当初藤原氏を名乗り、後には平家を名乗った。)

「織田信長譜」⇒平家の子孫が福井県織田町の劔神社の神官の養子になったと記されている。(※「織田信長譜」愛知県立図書館)


信長が討たれた「本能寺」は越中の富山県大門町(現射水市)浅井城跡に日蓮宗本門法華派を開いた足利、斯波の一族で桃井直常の子孫の「日隆聖人」が開き、織田信長に鉄砲の情報を伝えていたと云われる。本能寺は織田信長が宿泊する為に砦の様に改造されていた様だ。又、越前朝日町に逃れた桃井直常の孫の幸若丸が編み出した「幸若舞」は織田信長初め、戦国武将に愛されて一子相伝で江戸末期迄伝承された。特に織田信長は幸若舞の「敦盛」を好んだと云われる。越中五位庄赤丸村、石堤村や福光町には明治初年迄その舞手の「舞々人」が住み、各地を巡業していたと云われる。「幸若舞」は、一子相伝とした為に衰退して、現在では九州のみやま市や織田信長の先祖の地の福井県越前町織田(旧織田町)の隣地の越前町(旧朝日町)に僅かに伝承されている。


富山県高岡市の守山城主「神保氏張」は、源姓足利家一族の能登畠山氏から神保氏(平姓良文流。初代は山辺六郎・頼尊。中村、土屋、土肥、新開、二宮の祖。守山城主二宮氏が神保氏に改名)に養子に入り、元亀二年(一五七一年)に越後の上杉謙信と越中の神保氏張が激突した関野夜戦では、氏張は神保清十郎・神保正武・久瀬但馬守・ 益木中務丞・遊佐信濃守・小島甚介(柴野城主寺島牛介の兄)・倉光・鞍知・寺崎・唐人等総勢七千余騎を率いて越中・関野(現・富山県高岡市)で戦ったが、上杉謙信の夜襲で大敗を喫して関野を奪われた。その後、氏張は京都に流浪して、天正初年頃織田信秀の息女(信長の腹違いの妹・お市の方の姉)を妻として、天正三年(1575年)に子息の氏長が誕生し、天正六年4月には初めて京都で信長と会見している。(※「信長公記」)しかし、信長の家臣の佐々成政に従って能登末森城で前田利家と戦い、成政の九州転封に従って肥後熊本に移ったが、成政の失脚、切腹により熊本に流浪した。天正十七年には徳川家康に召し出されて徳川幕府の旗本になり、文禄元年(1592年)江戸で亡くなった。氏張の妻は何時かは分からないが氏張の失脚に伴い実家に帰り、美濃三人衆の一人の稲葉一鉄の子の貞通に再嫁した。その息女は信長の子息の三吉郎信秀に嫁いでいる。
※「佐々成政」の娘は、織田信長の七男信高、神保氏張の孫(氏長の子の氏則)の妻になっている。(※「佐々成政系図」参照)

前田利長正室玉泉院(永)の生母は織田信長の側室(元和四年、1618年、三月三日没)であった。素性はハツキリしていない様だが、天正二年(1574年)に「永」が産まれており、織田信長への輿入れはこれ以前になろう。「加能郷土辞彙」(日置謙著)では「前田利長の室玉泉院夫人の生母で、織田信長の側室。金沢八坂鶴林寺の境内にその墳墓がある。同寺が越中守山に在った時、元和四年三月三日逝去して春誉妙澄大姉と号し、遺体を寺中に移されたのを更に転送したものといふ。」と記載される。高岡市の瑞龍寺は前田利長の菩提寺で、僧堂の外部には織田と前田家の分骨廟が在り、「織田信長、その夫人。織田信忠。前田利長、利家の分骨廟」である。しかし、系図を考えると、織田信長夫人の墓は正室の「濃姫」では無く、「信長側室、利長夫人玉泉院の母親の墓」と考える方が筋が通る。瑞龍寺の墓所には「信長側室」の木札が置かれている。(※「織田信長総合事典」雄山閣発行)

又、「近江国安土古城図」安土見寺 [ソウケンジ]所蔵(※「織田信長」 旺文社発行 )に拠れば、安土城には、「羽柴秀吉、徳川家康、菅屋九右衛門、堀久太郎(堀秀政)、長谷川屋敷」が在った。「石黒氏の歴史の研究」※石黒秀雄著 に記載の「尾張石黒光慶系図」に拠れば、「越中石黒氏の主流の石黒重行は応永年中(1394~1427年)の南北朝の騒乱で尾張春日部如意属山田庄に移り、母方の長谷川を名乗り、後に斯波氏に属し、如意味鋺を領した」とされており、同じ斯波氏の代官の家系の織田家中には「尾張出身の長谷川与次(戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、号は可竹、嘉竹。子に長谷川秀一。弟に長谷川橋介)」がいた。永禄12年(1569年)8月の伊勢の大河内城の戦いに名があるのが初出とされ、野田城・福島城の戦い、志賀の陣に参加。元亀2年(1571年)5月の1回目の長島一向一揆攻めで佐久間信盛らと共に侵攻し、信長嫡男の織田信忠が尾張と美濃の一部を領有すると信忠の軍団に組み込まれ、天正2年(1574年)7月の3度目の長島一向一揆攻では信忠の指揮下に入る。天正6年(1578年)元旦に行われた茶会では信長が12人の家臣を招いて茶を振舞ったが、与次も織田信忠・明智光秀・羽柴秀吉・丹羽長秀などの重臣に混じり招待されている。また同年1月4日の信長の茶会には9人の招待客中にも与次は名を連ね、天正9年(1581年)に信長が秀吉を招いて開いた茶会にも与次は信長に同伴している。天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で信長が討れ、羽柴秀吉に接近して織田三法師(後の織田秀信)の傅役を務めた。弟の長谷川橋介は信長が弟信行(信勝)を謀殺した際に初めに斬りつけた3人のうちの1人とされている。又、子息の長谷川秀一は織田信長の小姓として寵愛され安土城下の馬場の築造を担当。徳川家康、羽柴秀吉は安土城外に屋敷を構えたが、長谷川秀一は安土城内に「長谷川屋敷」を構えている。本能寺の変の時には安土見寺 [ソウケンジ]で徳川家康の接待役を担当していて助かったが、家康と共に伊賀を越えて三河に逃れた。賤ヶ岳の戦いには秀吉に従って近江の肥田城主となり、天正12年小牧、長久手の戦い、天正15年の九州遠征に参陣。天正13年、越前東郷十五万石を領して羽柴東郷侍従と称し、朝鮮に出兵したがそこで亡くなった。弟の秀康も羽柴東郷侍従と称したが、子孫は絶えたと云う。長谷川秀一の菩提寺は福井県福井市東郷二ケ町「霊泉寺」。
(※「織田信長」が謀殺した弟の信勝[信行]の子の信澄の妻は明智光秀の娘であり、光秀にとって信長は娘の夫の父を殺した敵でもあり、その姑を実際に殺害したのは長谷川橋介等であった。長谷川橋介はその後、織田信長の不興を買い、徳川家康に走ったが三方ヶ原の戦いに参戦して戦死している。)

佐々成政の生まれた「尾張比良城」は、長谷川氏が居城とした「如意城」の近所に在った。佐々家には家老の井口太郎左衛門がいたとされ、この井口氏も石黒氏の同族とされる。
越中石黒氏の同族とされる斉藤、長谷川、堀等が織田信長の家臣団におり、系図の詳細は明らかでは無いが、これ等の一族が加賀藩の家臣にもなっている。織田信長の祖は室町幕府の斯波氏の被官で在り、越中で戦った桃井直常や斯波高経・義将は足利一族で同族であった。越中吉岡庄が室町期に足利家所縁の相国寺(金閣寺)や菩提寺の等持寺、等持院の糧所とされていた事等から、越中吉岡庄には、成田、小田、小山、結城、土屋、中村等の室町幕府重臣の痕跡が多く残っている様だ。

藤原北家→魚名流→利仁流と続く利仁流越中石黒氏同族とされる「掘氏」は、各地に広がった。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家等の家臣に「掘氏」が在り、高岡市長を長く勤めた「堀二作」、「堀健治」の「堀氏」が在り、映画最盛期の日活の社長を勤めた「堀久作」等各所にその姓が見られる。織田信長、豊臣秀吉に仕えた堀秀政は信濃住人堀秀郷重の子で、越前北ノ庄(福井市)に18万850石を領して、後に越後春日山に45万石で移封されている。その子の秀治は家康に仕え、その子忠俊は家康の養女を妻としたが、家臣堀直政(奥田直政)の御家騒動で改易になる。一族は越後蔵王3万石、下野真岡、烏山2万8000石、信濃飯田2万石を領して、天保年間には堀親宝(チカシゲ)が若年寄・老中各となり、幕末の米騒動対策等を担当して明治維新を迎えたと云う。
(高岡市名誉市民の三協立山アルミ創業者竹平政太郎氏は赤丸村向野新村の柴田トモヨを妻としたが、この仲人は高岡市名誉市民の堀健治氏だったと言う。高岡市の極楽寺由緒には、地元の国人「柴田氏」は南朝の宗良親王に仕えたとされており、石黒一族は赤丸浅井城に宗良親王を迎えた南朝の忠臣であり、系統は定かではないものの奇縁を感じる。竹平政太郎氏の墓所は石黒氏別邸の跡と云われる小矢部市岡702の「宝性寺」に在る。)

藤原氏に藤原不比等の4人の息子が興した藤原四家がある。「大鏡」と言う古書に、「藤原不比等は妊娠中に母と共に天智天皇(中大兄皇子)が中臣鎌足に下げ渡した」人物で、実の天智天皇の子供であったと記載される。又、その子の宮子を「夫人 ブニン」とした文武天皇は「不比等以外の藤原氏は中臣に戻り、不比等の系統だけに藤原と称する事を認める。」と勅令を出している。
その藤原四家には、
・藤原南家 - 藤原武智麻呂(680年 - 737年)
●藤原北家 - 藤原房前(681年 - 737年)
・藤原式家 - 藤原宇合(694年 - 737年)
・藤原京家 - 藤原麻呂(695年 - 737年)がある。
⇒藤原北家本流(摂関家流)に、房前から続き「房前系」「真楯系」「魚名系」等が有る。「真楯系」は大きく繁栄し、この系統から 藤原道長 -藤原頼通 -藤原師実 -藤原師通 -藤原忠実 -藤原忠通(養子に藤原頼長※関白・「越中吉岡庄*赤丸村他」の領主 )-近衛基実 -九条兼実 (忠通三男)等を排出して「摂政・関白」を受け継いだ。一方、「魚名系」からは「秀郷流」、「利仁流」が出ている。
*「秀郷流」⇒奥州藤原氏、西行、結城氏、小山氏、八田氏、宇都宮氏、小田氏等
*「利仁流」⇒魚名→鷲取 →高房→時長→利仁流(石黒・富樫・林・加藤・後藤・進藤・竹田・斉藤・疋田・堀・遠山・仙石等) (※「日本の名字」実業之日本社 参照)
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