赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

📚「新撰姓氏祿」に見られる武内宿彌と大伴氏⇒赤丸浅井神社創建の「石川朝臣広成」と浅井城石黒氏の祖「利波臣志留志」のルーツ!?

2017-07-15 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸



高岡市万葉歴史館の大伴家持像











「新撰姓氏祿」鈴木真年編 部分(※国立国会図書館)


平安時代初期 弘仁6年(815年)に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑である『新撰姓氏録』には「神別」「皇別」 等の区分をして、各氏族のルーツを分類、整理している 。
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その中で、大伴宿弥、佐伯宿弥は「高皇産霊尊五世孫天押日命の後裔」として同族とされ、「高志連」も「天押日命十一世の孫大伴室屋大連公の後裔」とされ、この一族とされる。

【374 左京 神別 天神 大伴宿祢 宿祢   高皇産霊尊五世孫天押日命之後也 初天孫彦火瓊々
杵尊神駕之降也。天押日命。大来目部立於御前。降乎日向高千穂峯。然後以大来目部。
為天靱部。靱負之号起於此也。雄略天皇御世。以入部靱負賜大連公。奏曰。衛門開闔之
務。於職已重。若有一身難堪。望与愚児語。相伴奉衛左右。勅依奏。是大伴佐伯二氏。
掌左右開闔之縁也
375 左京 神別 天神 佐伯宿祢 宿祢 大伴宿祢同祖 道臣命七世孫室屋大連公之後也】

【440 右京 神別 天神 高志連 連   高魂命九世孫日臣命之後也    
441 右京 神別 天神 高志壬生連 連   日臣命七世孫室屋大連之後也  
542 大和国 神別 天神 高志連 連   天押日命十一世孫大伴室屋大連公之後也】

●大伴氏は大和朝廷で物部氏と共に軍事を担当した。先祖の天忍日命(アメノオシヒノミコト)は天孫降臨の時に武装して瓊々杵尊(ニニギノミコト)を先導し、神武天皇の東征の時に道臣(ミチノオミノミコト)は神武天皇の大和入りの先導をしたとされる。京都市の延喜式神名帳の「伴氏神社」は、現在は住吉三神を合祀して「住吉大伴神社」となっているが、この神社の祭神は元々、この二柱を祭神としていた。允恭朝(第十九代允恭天皇)の時に、大伴室屋が出て、雄略天皇の時に大連となった。以後、大伴談→大伴金村と続き、金村は武烈天皇や福井県から出た継体天皇の擁立に活躍して大連として大伴氏の全盛期を迎えた。継体天皇には蘇我氏の祖の武内宿弥が付き添い、福井県敦賀に巡行したとされる。蘇我氏と大伴氏が勃興した時期である。大伴氏は特に外交面で手腕を発揮したらしく、朝鮮半島の任那四県の割譲をした際に不正が在ったとして、継体天皇の後の欽明天皇の時に物部氏に追求され失脚する。その後、蘇我氏、物部氏が台頭した為に衰退したが、大化の改新で功が在り大伴御行、その弟の安麻呂とその子大伴旅人は大納言に迄昇進した。しかし、桓武天皇の時に平城京から長岡京に遷都しようとした時に、遷都の責任者の「藤原種継事件」に連座して一族は失脚して、この時に大伴家持は首謀者として巻き込まれて、死後にもかかわらず財産没収、葬儀も許されない等の罰を受けた。淳和天皇の諱が「大伴」であった為に、弘仁十四年(823年)には名を「伴氏」と変えたが、応天門の放火事件で後に大納言にもなった伴善男が遠流になる等の事もあり(応天門の変、伴大納言絵詞等の絵図が有名)、藤原北家藤原良房や嵯峨源氏源信等との対立の中で大伴氏は決定的に没落した。同族の佐伯氏も大伴氏と共に宮城の門の開閉に当たり、大伴門、佐伯門を守備して、乙巳の変では佐伯連子麻呂が蘇我入鹿の暗殺に当たり、後の天武天皇の時の「八色の姓」に際しては「連」から「宿彌」を与えられたが、「橘奈良麻呂の変」や「藤原種継暗殺事件」に関与したとして処罰を受けて衰退した。
(※富山県庄川町に在った「東大寺庄園石粟庄図」には、「奈良麻呂地」との記載が在る。)

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又、「建内宿祢」、「蘇我石川宿祢」の後裔とされる「石川朝臣」、「田口朝臣」、「桜井朝臣」や石川朝臣が後に賜姓された「高円朝臣」は同族としている。「利波臣」については2系統の系図が在るが、「越中石黒系図」に記載される「高霊天皇の系統の武内宿弥の系統」を採用すると、蘇我石川宿弥、石川朝臣、武内宿弥の系統としてこの姓氏祿として一致してくる。

【65 左京 皇別   石川朝臣 朝臣   孝元天皇皇子彦太忍信命之後也   日本紀合
66 左京 皇別   田口朝臣 朝臣 石川朝臣同祖 武内宿祢大臣之後也 蝙蝠臣。豊御食炊屋姫
天皇[謚推古。]御世。家於大和国高市郡田口村。仍号田口臣 日本紀漏
67 左京 皇別   桜井朝臣 朝臣 石川朝臣同祖 蘇我石川宿祢四世孫稲目宿祢大臣之後也  
68 左京 皇別   紀朝臣 朝臣 石川朝臣同祖 建内宿祢男紀角宿祢之後也
71 左京 皇別   林朝臣 朝臣 石川朝臣同祖 武内宿祢之後也   日本紀合
181 右京 皇別   高円朝臣 朝臣 出自正六位上高円朝臣広世也 [元就母氏。為石川朝臣
続日本紀合 】






●蘇我氏は大和国(奈良県橿原市曾我町)の「宗我都比古神社」を氏神とし、この地が発祥の地の一つとされる。蘇我氏は孝元天皇の皇子の「比古布都押之信命」(ヒコフツオシノマコトノミコト)の子の「武内宿彌」を祖とし、「皇別」に入れられる。蘇我氏の系譜は、「石川(河)宿彌」→「満智宿彌」(マチスクネ)→「韓子宿彌」(カラコスクネ)→「高麗宿彌」(コマスクネ)→「稲目宿彌 」と続く。応神天皇の二十五年、百済の木満致が大和朝廷に仕えて「満致宿彌」となったとして、『蘇我氏は百済系の渡来氏族』とも云われる。「武内宿彌」の後裔とされる「利波臣志留志」が従五位下に任じられた時に、帰化人が与えられた「外」の付いた国司の「外従五位下」と成り「員外介」になっている事もこの一族が「帰化人」の系統とされていたからだろうか?
又、河内国石川郡には大河の「石川」が流れており、その沿川に栄えたとも言われ、大和国葛城発祥とする説等が在る。蘇我氏は天皇を超える程の勢力を持ったが「乙巳の変」(イツシノヘン)で蘇我入鹿が中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足等に暗殺され、蘇我蝦夷も自殺して果てた。大化改新では、唯一、蘇我氏の中で中大兄皇子に協力して、暗殺事件では素知らぬ顔をして奏上文を読み上げて蘇我入鹿を安心させた蘇我倉山田石川麻呂は右大臣に昇進するも讒言で自殺に追い込まれた。しかし、その後継者は「蘇我氏」を憚り、「石川臣」となって活躍している。石川麻呂の娘の「遠智媛」(オチノイラツメ)は天智天皇の「妃」と成り、後の持統天皇を産み、もう一人の娘の「姪の娘」(メイノイラツメ)も天智天皇の「妃」と成って、後の「元明天皇」(※文武天皇、元正天皇の母)を産んでいる。石川麻呂の弟の蘇我連子(ソガムラジコ)は天智天皇の時に大臣と成り、その娘の媼子(オンシ)は藤原不比等に嫁して、武智麻呂(ムチマロ)、房前(フササキ)、宇合(ウマカイ)を産み、藤原氏のその後の全盛を迎える人物を産んだ。
又、この一族からは文武天皇の「嬪」の「石川刀自娘」(イシカワトジノイラツメ)が出たが、藤原不比等が娘の文武天皇の夫人宮子の子「首皇子」(オビトオウジ)を天皇(※聖武天皇)にする為に、もう一人の紀竈門娘(キノカマドノイラツメ)と共に、「嬪と名乗らざらしむ」(※「続日本紀」)として追放した「貶黜事件」(※位を下げて追放した)で、その息子の「広成」と共に追放された。
この子の「広成」はその後元正天皇の勅令で「親王」として「石川朝臣」を賜姓され、「内舎人」と成って聖武天皇の「恭仁京」(クニキョウ)に赴任し、後には「高円広世」(タカマドノヒロヨ)と賜姓されている。「赤丸浅井神社三社誌」に拠ると、この「石川刀自娘」の子が「赤丸浅井神社」を再建され、隣接の「赤丸浅井城」に在城されたと云う。

「続日本紀」は文武天皇から桓武天皇迄の約100年を記載する。
「延喜式内社赤丸浅井神社」は皇室の最高神「高皇産霊神」を祀り、文武天皇の二宮「石川朝臣広成」が中興されたと伝わる。





















 
「利波臣系図」










「古代砺波の地方豪族」(米田雄介著)→「石黒氏系図」「越中国官倉納穀交替記」「平安遺文 古文書編1」等参照
『政治』 ã‚¸ãƒ£ãƒ³ãƒ«ã®ãƒ©ãƒ³ã‚­ãƒ³ã‚°
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