赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴🔷 『沙弥迎蓮』(※相良頼俊)書状に残る『蓮華王院領(※三十三間堂)越中吉岡庄』 ⇒「慶応大学資料」,「東京大学資料編纂所」に遺る『相良家文書』!!

2017-06-14 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「蓮華王院(三十三間堂)」の庄園『越中吉岡庄地頭 沙弥迎蓮(相良頼俊)』の書状 ⇒【東京大学資料編纂所DB】 、【慶応大学所蔵文書】

●「相良家文書」(※肥後人吉藩)に見られる【越中吉岡庄】の記載!!

後白河上皇が自ら創建された蓮華王院には平清盛が三十三間堂を寄進し、上皇はその中に「1001体」の【千手観音像】を祀られた。その「蓮華王院領越中吉岡庄」が肥後人吉の【沙彌迎蓮】(※相良頼俊)によって統治されていた文書が、慶應義塾大学所蔵の「相良家文書」に残されている。(※正応三年、1290年)
その後、相良家は徳川幕臣と成り、幕末迄続いた。

★鎌倉時代に「元寇」で活躍した肥後の「菊池氏」は同族の争いに敗れて、越中氷見に逃れて、「氷見阿尾城」に城を構えたが、前田利家の調略に乗り佐々成政を裏切り、子孫は加賀藩士に成っている。
佐々成政は前田利家との争いに敗れて、肥後熊本に転封された。
「相良氏」→「菊池氏」→「佐々氏」の流れから見ると、歴史的に、歴代の武士が越中と肥後を移動しており、南朝方の武将菊池氏の末裔が越中国氷見の阿尾城に落ち延び、「越中五位庄の戦い」で敗死した南朝の武将「桃井直常」の孫が考案した「幸若舞」が現在迄、唯一、福岡県みやま市に伝来した事も九州地方と越中の強い繋がりを示すものだろう。

★「桃井直常」の三男が赤丸村舞谷(※麻畑地内)に建立したとされる「光釜山西大寺」は現在も高岡市木町に続き、住職は桃井の家紋を使用して自らも「桃井」と名乗っている。
又、室町時代に「将軍足利義材」を越中に迎えて臨時政権を樹立したと云う「越中神保氏」は、薩摩の島津氏の同族「惟宗氏」であり、九州との強い繋がりを窺わせる。



(※正応三年、1290年発給文書)

正応年間の鎌倉幕府の将軍は惟康(コレヤス)親王(7代)、久明(ヒサアキラ)親王(8代)。執権は北条貞時(9代)。伏見天皇は1287年(弘安10年)、後宇多天皇の譲位により即位されて正応と改元。父の後深草上皇が院政を行ったが、即位後2年余りで院政は停止されて伏見天皇の親政となる。1289年(正応2年)、第7代将軍の惟康親王が北条氏により廃位させられて京に戻された。後宇多天皇の皇子の後の後醍醐天皇は正応元年生まれ。









■富山県高岡市に在った庄園『越中吉岡庄』(※室町時代からは「越中五位庄」)の記録が東京大学資料編纂所の『相良家文書』に遺されている。(※「慶應大学所蔵」)
「後白河上皇」は住まいとされた「法住寺殿」に「蓮華王院」を建立され、宝蔵として『三十三間堂』を建立し、そこには『1001体の千手観音像』を祀られた。『後院領 越中吉岡庄』は「後白河上皇」により「蓮華王院」の糧所として寄進された。











「国立歴史民俗博物館庄園DB」の『越中吉岡庄』,『越中五位庄』






■『吉岡庄』の中心施設『越中砺波郡 延喜式内社赤丸浅井神社』(※五十三ケ村総社)







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