赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴高岡市関町「総持寺」の 「国指定重要文化財 木造千手観音座像」に関する争論⇒間違いだらけの「歴史書」を糺す❗

2017-10-02 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●高岡市関町「国指定重要文化財木造千手観音座像」の「胎内名」!!



「富山県史」には昭和39年に解体修理した時のこの千手観音像の胎内名写真が掲載されている。
しかし、「高岡市史」、「福岡町史」等の「史書」にはこの解説が誤って記載される。

■「藤原浄円 大壇那」については鎌倉幕府評定衆の「斎藤長定入道藤原浄円」の事でこの仏像のスポンサーで在る事は明らかだが、何れの史書でもその解説は明確では無い。
■中央部に記載される「金剛位理乗 本願聖人」は「後鳥羽上皇の法名」だが、各史ではこの法名を南北朝時代の「長慶天皇」の法名として理解されている。「後鳥羽上皇」の法名は「金剛位理 良然」、「長慶天皇」の法名は「金剛位 覚理」で在り、良く似ている事と、この仏像が「南北朝時代に製作された」と言う先入観からの学会での誤りであり、それは別の部位に記載される南北朝時代の河内金剛寺の高僧「禅惠」の胎内名に基づいている。この仏像はその胎内名を調べると明らかに「鎌倉時代の製作」で在る。
■「仏所 幸賀 大仏師」に付いては各史では「仏師 幸賀 大仏師」と解説しているが、実は「仏所」は鎌倉時代に京都駅前に在った「慶派仏師」の工房の「七条仏所」の事で在り、専門家である歴史の大家や学会が「この千手観音像の製作時期が南北朝時代である」と決めてかかった事からの誤りである。この「幸賀」は平家に焼かれた「興福寺修復仏師」の中に見られる慶派仏師の事だが、これについても文化庁の学芸員すら「大仁坊幸賀」と言う仏師の事だと解説している。
又、その隣に記載される「同 頼真 小仏師」に付いては「東大寺太鼓修復絵仏師」の中に「絵仏師」として記載される。(※「筑波大学データーベース」)この仏師は平家に焼かれた「興福寺」や 「東大寺」の仏像修復の為に集められていた「南都絵所」と呼ばれた京都の絵仏師の工房の所属の絵仏師である。
「仏師」には木造りを担当する「木仏師」と、彩色を担当する「絵仏師」が在る。当時は分業で行われていたが古くは木仏師が彩色迄行っていた様だ。ここでは、同列に「幸賀」と「頼真」が記載される事から、この二人は共に「絵仏師である 」と学会では決めつけている。しかし、当時は平家に焼かれた大量の仏像修復の為に相当の仏師が京都に集められていた様で在り、「木仏師 の幸賀」と「絵仏師の頼真」のペアーの製作と言う事は考えられないのだろうか?

●この仏像の解明には幾つもの前提条件の誤りが在る。
①胎内銘の別の部位に「正平八年 御入」と記載される事から、初めからこの仏像が「南北朝時代の製作で在る」とされた事。
しかし、この「御入」は、河内金剛寺から南北朝の戦火を避ける為に越中の後醍醐天皇の庄園の「越中吉岡庄(赤丸村)」に在った「総持寺」に「御入り」に成った事を指すものであり、「製作年代」の事では無い。
②文化庁では「この仏像の胎内銘は全て同一時期に記載された」と決めつけているが、他の部位の記名の筆跡は誰が見ても同一人の記名には見られない。その原因は「胎内に記載される記名は全て同一時期に記載された」と する前提条件から来る誤りで在り、この仏像が鎌倉時代に製作されて、長く河内金剛寺の住職が持仏として金剛寺摩尼院(金剛寺住職の宿所)に祀っていた仏像を南北朝時代に慌てて越中の後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」に動かしたとすれば、その矛盾は解決する。
河内金剛寺には「後醍醐天皇の綸旨」が残っており、それによると「京都の東寺保管の空海所縁の仏舎利五粒を金剛寺住職の持仏に納めた」と記載されており、現に総持寺の仏像の胎内には「奉納 仏舎利」と二ヶ所に記載されており、東寺長者「文観」と「後醍醐天皇」が併せて「五粒」を納められたとする記載にも符合する。
③大前提として、東京大学資料編纂所では「越中吉岡庄」は「射水郡に在った」と理解している事である。「東大寺文書」に鎌倉時代の「沙弥迎蓮書状」が在り、それに拠ると源頼朝家臣の「迎蓮」(※相良頼俊)が「当家知行分蓮華王院越中吉岡庄」と記載しており、その「吉岡庄」の部分には編纂所が「新川郡」とわざわざ註記している。
東京大学では「吉岡庄」を富山市吉岡村の事だと決めつけているが、この「吉岡庄」は歴史的に「京都上賀茂神社、下鴨神社」の庄園で在った時代が二回も在り、国立歴史民俗博物館に協議を依頼した所、【富山市吉岡村は歴史的に賀茂神社との関係は見られないが、高岡市福岡町赤丸から加茂村にかけては往古、「上加茂社」、「下加茂社」が在り、その跡地とされる場所が在り、又、「富山県史」でも「吉岡庄は高岡市福岡町加茂村周辺が有望」としている事から「越中吉岡庄は高岡市福岡町」と結論付けて平成26年には「庄園データーベース」を訂正した。】との解答が在った。この決定は大きくて、それまでの誤解がこの前提条件で検討すると全てがクリヤーに成る。
④高岡市内の在家には「総持寺千手観音像の胎内仏」が祀られており、その所有者に確認した所、「鑑定して貰った所、鎌倉時代の製作と言われた」との解答が在った。
⑤「仏像史」や「美術史」等の専門家は、従来、「この仏像は南北朝時代の製作」と言う前提条件から論評を加えており、誰もが「膨大な胎内名」の調査を行っていない。又、エックス線調査等の科学的調査も行われておらず、胎内名の「禅惠」以外の部分については殆どが未調査で在り、更には様々の前提条件の誤りが在って全くちんぷんかんぷんの解釈が従来行われていた。
⑥この千手観音像が昭和12年に国宝に指定された時には「仏像史」や「美術史」の専門家がタッチしておらず、「南朝顕彰」のムードの中で「国宝に指定された」と言う背景が在ると言う。
「越中吉岡庄」が「後白河上皇、後鳥羽上皇~後醍醐天皇へと続いた上皇固有の庄園の後院領」で在り、その場所は「高岡市福岡町」で在ったと言う前提条件からすれば、これ等の誤解は忽ちに解決される。又、この「吉岡庄」の中核施設が「五位庄総社 延喜式内社赤丸浅井神社」とその隣接地に在った「赤丸浅井城」で在り、「利波郡」の郡司の家系の「利波臣」から「越中石黒氏」と続いた一族が「赤丸浅井城を代々居城にした」とされる古書の記載を重ねれば、問題点は消滅する。
⑦古くから「延喜式内社赤丸浅井神社」とその末社の「石堤浅井神社」との間に争論が在り、「本来は赤丸浅井神社の末社で在った石堤浅井神社に吉田神道が神社簒奪の為に介入した」事から「加賀藩が赤丸浅井神社に裁定を下す迄激しい争論が在った事」、又、明治維新の時の廃仏毀釈運動が吉田神道の「高岡市関野神社」の主導で進めらた事から「門跡寺院聖護院末」で修験道で在った「川人山鞍馬寺」の伝統を受け継いだ「赤丸浅井神社」も強制的に「唯一神道として再出発せざるを得なかった事」から赤丸浅井神社は不利な立場に追い込まれて、そのドサクサの間に再び「石堤浅井神社の清水神官」は「延喜式内社、郷社」を名乗り始めた。
この事が「二つの延喜式内社浅井神社」として現在も混乱を生んでいるが、元々は高岡市関野神社が主導した廃仏毀釈運動に便乗した「歴史の詐称」で在り、石堤村を管内にしていた旧高岡市では前田家の氏神とする関野神社や石堤浅井神社の立場に立ってこの二社を「論社」と呼び同列にしようとする企みが現在も続いている。因みに現在の赤丸浅井神社の扁額は「加賀藩第十三代前田斎泰」の揮毫による。
























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