赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

💠🔹「越中吉岡庄成佐不法の事」とする「吾妻鏡」の後白河上皇の文書の背景 ⇒「源義経」の逃避行を助けた後白河上皇!!

2017-08-09 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸






『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日、源義経は兄頼朝の追捕を逃れて、伊勢・美濃を経て奥州へ向かい正妻と子らを伴って平泉に身を寄せたとされているが、この情報は伝聞によるもので確実ではなかった様だ。
文治3年(1187年)3月2日付で、後白河上皇から「越中吉岡庄」の地頭「成佐」が不法を働いたから交代させよとする文書が頼朝に発せられた事から「直ちに交代させます」とする返書を頼朝が返している。
これは、時期が一致する事と、後白河上皇の皇子「守覚法親王」が義経の縁者で在った事から、義経を支援していた後白河上皇が、義経の逃避行を助ける為にそのルートに当たる自らの庄園の「越中吉岡庄」の地頭成佐を排除しようとしたものと見られる。


■「保元の乱」、「平治の乱」に登場した「源義朝」は熱田神宮神官の藤原季範の娘(由良御前)を正室として、側室には常盤御前、三浦義明の娘、波多野義通の妹、遠江国池田宿の遊女が居た。正室「由良御前」の子供として頼朝、坊門姫が産まれた。常盤を母としては、今若、乙若、牛若(源義経)が産まれた。弟の「源範頼」は母を池田宿の遊女として産まれたが熱田神宮神官藤原季成に養育され、季成の娘の藤原成子は後白河上皇に嫁して守覺法親王・以仁王を生む。
【頼朝、木曽義仲はこの以仁王の平家追討の令旨を受けて平家との戦いに望んだ。以仁王の皇子「北陸宮」は越中(朝日町)で越中宮崎氏の保護を受け、義仲は朝日町に諏訪大社を勧請している。】
源義経が奥州に落ち延びた時にこの守覚法親王が背後で支援したと云う。法親王は福井県の「久河北荘」(※旧吉田郡河合村・森田村→この庄園は九頭竜川以北の大荘園で古代の足羽郡川合郷の名を継いで「河合荘」とも言われた。)を所有していた為に、越前大野の平泉寺に参詣した義経主従にとっては安全な道筋であったのだろう。
[※この庄園は藤原氏長者藤原頼長の縁者の仁和寺相応院の僧「隆憲」が仁和寺御室の守覚法親王に寄進した所領がその前身となり建久元年に見作田(現在耕作される田。見=現)60町が二品守覚法親王の「親王家領」となった。
越中吉岡庄は元々、摂関家長者藤原頼長の庄園で在ったが「保元の乱」で没官されて後白河上皇の「後院領」になった経緯が在り、守覚法親王はこの二ヶ所の庄園を通じて支援していた可能性が高い。]
『政治』 ã‚¸ãƒ£ãƒ³ãƒ«ã®ãƒ©ãƒ³ã‚­ãƒ³ã‚°
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