赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴🏯 越中国赤丸村舞谷に在った「衆徳山総持寺」の秘仏「千手観音像」

2017-06-14 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村







2015年11月15日に年に一度の秘仏「国指定重要文化財 木造千手観音坐像」が御開帳された。高岡駅南の瑞龍寺裏にたくさんの石仏に囲まれた「総持寺」が有る。以前、国宝に指定された時の「国宝概説」にはこの観音像は「元赤丸に在った」と書かれている。国宝に指定された時は南北朝時代の後醍醐天皇、その皇子の宗良親王、後村上天皇の時代の作とされたが、胎内銘墨書には「金剛位理卿」という後鳥羽上皇の法名や、鎌倉幕府評定衆の「藤原浄円」(*斉藤長定) が大檀那として、興福寺の仏像を修復した『幸賀』が「仏所 幸賀 大仏師」として記載され、南都絵所の絵仏師「頼真」の名前等の鎌倉時代の人物の名前が記載されている。(*卿と云うのは三位以上の位。) 又、顔の内側には「奉納仏舎利」と2か所に記載されている。この仏像が伝来したとされる河内金剛寺には後醍醐天皇と当時の高僧文観が東寺の仏舎利(空海が唐から持ち帰った)の内から5粒が金剛寺住持の持仏に納められたとする文書が残されているが、その仏像は河内金剛寺には見当たらないとの事だ。この仏像は国宝に指定された時には胎内銘の「禅恵」という高僧の名前や「正平八年御入」という文字だけが調査され、南北朝時代の正平八年(1353年)に造られたとされたが、他の胎内銘は全く調査もされず今に至った。もし河内金剛寺に残る勅書通りにこの観音像に空海が唐から持ち帰った「仏舎利」が5粒(普通は1粒)も納められているなら歴史的な発見になるだろう!赤丸村を中心とした「吉岡庄」(後の五位庄)は藤原頼長が保元の乱に敗れて以来、後白河上皇に没収され、その後の後鳥羽上皇や後醍醐天皇に至るまで歴代天皇に受け継がれた「後院領」と呼ばれた富山県内唯一の皇室直轄領である。地域的な歴史を踏まえるとこの仏像が何故赤丸に伝来したかが推定される。福岡町馬場村と赤丸舞谷村の中間に「吉岡谷」が有り、ここに吉岡成佐という武将が住んでいた事が「吾妻鑑」に記載されており、この武将は石黒氏が居城とした「木舟城」の一帯も開発したと伝わる。吉岡谷の並びには総持寺が元在ったと伝わる総持寺跡が「観音堂遺跡」として残されている。この一帯は南北朝時代に宗良親王が在城されたと伝わる「赤丸城」の麓に当り、近くには宗良親王の御創建と伝わる高岡の「極楽寺」が有ったと伝わる極楽谷、極楽寺跡もある。2013年12月1日迄開催されていた高岡市福岡民俗資料館「西山歴史街道をゆく」という特別展示では、この赤丸城の井戸から発掘された井戸の滑車も展示された。

藤原浄円斉藤長定の記載(尊卑分脈 藤原氏系図より)
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