赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴💥🔥 嘘の歴史・消される歴史💢ー合併した「高岡市教育委員会」の虚偽まみれの真実 !!

2017-08-21 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村
💢「ん」💢❓【地図からも消された赤丸村】
⇒⇒⇒地域住民の信仰すら消そうとする「高岡市」











高岡市の名刹「衆徳山総持寺」
(※あいのかぜ鐵道高岡駅南)






高岡市と福岡町が2005年に合併してすでに10年以上も経過しているが、高岡市での扱いは今も差別的だ。高岡市生涯学習センターと言う市民学習のホームページには福岡町全体は表示もされず、奈良時代から続き、皇室庄園「後院領吉岡庄」から「五位庄」、西礪波郡と続いた輝かしい歴史を持つ五位庄の中心地「赤丸村」と、その中心に在った「五位庄53ケ村総社郷社赤丸浅井神社」はその地図からも抹殺されている。「赤丸浅井神社」の参道の杉並木は「高岡市指定文化財杉並木」で在りながら、このやる気のない扱いで有り、合併した時から申し入れている「学校の通学区域」の見直しや「交通網整備」等はその都度、歴代の市長が「前向きに善処します❗」と住民説明会で発言して懐柔して、今も何らの対策はされず放置されている。いや、その上に高岡市は「中心市街地活性化法」に基づいた街作りをするとして、最早、赤丸地区の窒息と自然死を待つ姿勢に変わって来ている。これは正に詐欺的手法で有り、高岡市の悪政を示している。黙らせて置けばその内に忘れて、住民も居なくなるだろうと言う意図的な悪意すら窺えるのだ。学校、役所、銀行、警察、幼稚園、保育所等の利便施設は全て無くなり、商業施設も潰れて、若者は耐えきれずに、その不便さに飽きて次々に村を去り、高齢化した村の回復の困難さに拍車をかけている。しかも、公共交通網のバスも隣地の石堤迄来ておりながら、旧高岡市の石堤で折り返し運転をして、非効率的な運営が行われている。正に「中心市街地活性化法」の意図する「街作り」が進んでいる。高岡市の施策は正に周辺町村の枯死政策だ。正に現在も加賀藩政を引き継ぐ高岡市の占領政策の延長線で、着々と周辺の自然死政策が進行していると云うべきか? 赤丸村は前田利家と能登末森城で戦った佐々成政とその家臣の柴野城寺島牛介、赤丸城中山氏、守山城神保氏張の牙城で在った事から、加賀藩時代には徹底的な増税と城下の寺社や住民の高岡市街地への移転が進められ、赤丸村の集落は徹底的に壊滅させられ、一面が農地として残った。「加賀藩農政史の研究」等に拠ると、一般的には「4公6民」の税制だったが、赤丸村は65%~75%の高率の課税がされたと云う。現在高岡市街地に在る「総持寺」「天景寺」「極楽寺」「鎚の宮」「西大寺」「光慶寺」等の殆どの名刹は赤丸村や国吉村から動いた寺社で有り、一旦は守山城城下等に移転させられた後に高岡の町建てと共に再度、市街地に移転させられた歴史を持つ。従って、高岡市街地の名刹は「元赤丸村に在った」と云う歴史を抹消して「守山から移った」とか「牧野から移った」として、「赤丸村から移った」と言う事を封印してきた。しかも、「高岡市」の「高岡」についても、富山新聞社発行の「富山県大百科事典」には【「高岡」は元赤丸村に在った「高岡山 コウコウサン 総持寺」から取り上げられたもの】と言う。後付けの「鳳凰鳴けり高き岡に」と言う詩経の一節について、「前田家は、いずれは天皇を高岡に迎える積りだったんだ」と見事な意見を高岡ケーブルテレビは主張している。(※「歴史都市 高岡ふしぎ帳 第4話」)
この一節は、「衆徳山総持寺」が赤丸村に在った時に小高い山の上に立地し、この寺の千手観音像の胎内には「後鳥羽上皇の法名」や「本願聖人」の文字が記載されている事を示しているとするのが正しいと思われる。何故なら、赤丸村に在った総持寺は赤丸浅井神社48坊の一つで在ったと伝わり、赤丸浅井神社は後白河、後鳥羽上皇以来の皇室庄園「越中吉岡庄」の鎮守社で在り、南朝の後醍醐天皇迄皇室庄園として続いたとされる。
【※後白河上皇の時には蓮華王院(三十三間堂には1001体の千手観音を祀る)に寄進されている。】
「鳳凰鳴けり」は、赤丸村の歴史的な背景から考えると、隠岐に流されて血涙を流されたと云う「後鳥羽上皇」を表していると考えるのが妥当だ。又、「後鳥羽上皇」は保元の乱で讃岐に流され怨霊と化した「崇徳上皇」やその時に殺された「藤原摂関家長者藤原頼長」の怨霊に恐れおののいたと言う。何と、赤丸村を中心とした「越中吉岡庄」は元、その「藤原頼長の庄園」だったのだが、「保元の乱」で敗れて後白河上皇の「後院領」と呼ばれた皇室庄園になったものだ。今、かつての「高岡山総持寺」は「衆徳山 ストクサン 総持寺」と名乗っている。
かくて、デマは真実と成り、事情も調べないマスコミ、歴史家?がデマを「歴史」として作り上げていると感じられるのだ。

●赤丸村の西部(浅井神社、赤丸城周辺の地域)から加賀藩は住民を五位庄の外れの「和田新村」に強制移動させて、赤丸村の壊滅を図った。







「和田新村」を開発した「和田佐助」は加賀藩によって「磔の極刑」となり、亡くなった ❗ ❗



●赤丸に在ったという赤丸浅井神社48坊と呼ばれた寺院は以下のお寺の名前が解っている。
総持寺、西大寺、聖安寺、性宗寺(浄光寺)、長善寺、宗泉寺(明見寺)、長安寺、善宗寺、法筵寺、天景寺、長光寺、西宝院(東坊)、永賢寺、超願寺、 *鞍馬寺の玉蔵坊、観念坊、寶仙坊、宥坎坊、玄皆坊、寶池坊が何れかは不明。明治に建立された霊寿寺は中山妙心尼が奉仕していた。(※「福岡町史」)
●宗良親王開基の「極楽寺」も元赤丸に在ったと伝わる。(※「越中宮極楽寺由緒」)
又、現在は高岡駅の総持寺前に在る「槌の宮」は神社庁の記録に拠れば「元赤丸に在った」と記録されており、この神社は南北朝時代に赤丸村領三日市に栄えた著名な「宇多刀工」の氏神であったと思われる。

「越中宮極楽寺由緒」に記載される「五位庄赤丸村極楽谷創建の記録」



◎「高岡市の中心市街地活性化方針」



高岡市は「歴史都市」をめざしていると云う。瑞龍寺や曳山、銅器文化だけで「世界に通用する歴史都市」になれると考えているのだろうか?

高岡市の政策は中心市街地しか眼中になく、周辺は限界集落化が着々と進んでいる。



●「加賀藩政の悪政」

加賀藩は佐々成政に加勢した高岡市守山城神保氏張、國吉の柴野城寺島牛介、赤丸城中山直治のお膝元の旧領は70%以上の「酷税」で圧迫した。高岡市は「農地が肥えていたからだ」と云うが、赤丸村等を消滅させる為に人口、寺院等の施設を高岡市街地に移転させ、農地には酷税をかけて住民を苦しませた。(※「舞谷村のむかし昔」参照)
皇室庄園越中吉岡庄、五位庄五十三ケ村の中心地で在った「赤丸村」(舞谷村、高田島、三日市を含む)は長期間の加賀藩の悪政で人口は激減した。





加賀藩、福岡町、高岡市に支配された「赤丸村」は、徃古、巨大な皇室庄園「越中吉岡庄」、「五位庄五十三ケ村」の中心地で在ったが、着々と壊滅に向かっており、既に「限界集落」として、この扱いだ。

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◎「上部」だけの「歴史都市構想」❗ ❗


●高岡市による「国宝概説」の偽造と、それを告発した「ある贋作物語」❗ ❗

明治維新後も高岡市は加賀藩政を踏襲して政策を進めて、前田家の占領政策を延長している。正確に読むと「高岡市史」では明らかに意図的に「赤丸村」の歴史を否定して、歴史資料迄偽造して赤丸村に喧嘩を吹っ掛けている。「高岡市史」の根拠にしている図面には明らかに「追記」「偽造」の痕跡が有り、元赤丸住民の高岡市の歯科医師「桜木成一氏」は「ある贋作物語」と言う書を発行して「偽作の高岡市史」を批判された。この書籍や「偽造」の根拠となった「飛見丈繁氏」の著作集や資料集も「高岡市中央図書館」に残されている。これ等を検証すると「新生高岡市」が如何に「市史」を偽造してきたかが解る。「高岡市史」には「資料編」が無いとの指摘が有るが、「ある贋作物語」に拠ればこれは当然の事で有り、「偽造資料」を使って流石に「資料編」の発行迄する事は「厚顔無恥」だと思ったのだろう。


「高岡山総持寺」の千手観音像が国宝に指定された時の文部省官報の「国宝概説」を郷土史家の飛見丈繁氏が改変した文書→「高岡市史」が根拠とした部分!!
「総持寺は元赤丸村に在った」とする部分を勝手に改変して「筆者云う。石堤村の誤り。」と改変している。(※「高岡市中央図書館」蔵書に記載されている。)



後から偽造したと見られる「高岡市史」の根拠資料とされるもの。高岡市の名刹「石堤長光寺」が現在、高岡駅南に在る古刹「衆徳山総持寺」の跡地だと主張する。→明らかに偽造した位置の色が違っている。高岡市の編集者は桜木氏の追求にもガンとして現物を提示せず、幻の古文書とされる。(※石堤浅井神社の清水神官が作成したと記載されている。)


「赤丸浅井神社古墟図」
(加賀藩 森田柿園文庫 ※石川県立図書館 蔵)
→赤丸浅井神社の古絵図を模して石堤浅井神社絵図として作製したものを「高岡市史」の資料とした様だ。


平成21年発行の『高岡市開町400年記念誌』では、「総持寺は石堤に在った」として改めて高岡市教育委員会が「虚偽」の歴史を認定して広報誌を発行した ❗
⇒高岡市教育委員会は勝手に改変した歴史を認めずに、「誤りを学会が認めれば対処する」と回答して改めない。高岡市の総持寺の「国指定文化財千手観音座像」が昭和12年に国宝指定された時の「国宝概説」の記載を高岡市が勝手に改変して、歴史を偽造して、現在も広報し続けている ❗ 「国宝概説」は国が発行した官報にも当たるものではないのか?

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●「越中宮極楽寺」についての偽造 ❗ ❗



高岡市の「越中宮極楽寺由緒」には、「元赤丸村に在った」と記載されている。
「高岡市史」では牧野から移ったと記載される。





高岡市二番町の「曳き山」は後醍醐天皇皇子の宗良親王の御座車を使用していたと伝える。
この「曳き山」だけが2輪車で、飾りも熊野神社の鳥居を飾っている。


高岡市二番町の「曳き山」の飾り部分


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●地図からも消された「赤丸村」❗ ❗
「赤丸浅井神社」の勝手な移動 ❗ ❗ あの手、この手での「赤丸村」、「赤丸浅井神社」の抹殺 ❗ ❗
⇒本来なら、合併した新生「高岡市」では「赤丸村」は位置的には地図の中心近くに記載される筈だが、高岡市のホームページでは「赤丸村」は地図からも消されて、福岡町域内からも消されている。

何時の間にか知らない場所に移動した事になっていた「五位庄総社、郷社延喜式内社赤丸浅井神社」!!
⇒石堤浅井神社を「本社」とする為に、正統な本社である「式内社赤丸浅井神社」はとんでもない場所に動いた事になっていた。これを見れば、正に高岡市教育委員会が詐欺的確信犯だ と言うことが解る ❗❗

「赤丸村が地図から消された高岡市の広報画面」





《高岡市に拠れば「赤丸浅井神社」は何時の間にか福岡町の反対の外れに移転させられている!?》


⇒これ等の寺社には、「赤丸村」に信徒がおり、これ等の人々の信条を著しく傷付けている。宗教に対する攻撃は、憲法で認められた「信教の自由」をも著しく侵害している事を高岡市や学者は認識すべきだ。イタズラに宗教を否定して、しかも、明確な理由も無いと言う事は最悪だ ❗
宗教について、高岡市は広報してからの「ごめんなさい❗」は許されない事を肝に銘じるべきだ。宗教の対立を高岡市が煽ってどうする気だ。それぞれの地域にはそれぞれの歴史もある。
射水市の新湊を舞台にした「人生の約束」と言う映画がある。地元が如何に「曳山」に執着しているか、先祖から伝わる文化を如何に大切にしているか。男の友情を表に出した映画だが、背景には「地域で守ってきた宗教、伝統、文化」がテーマである。一度、映画館に足を運んで、「人間社会」について学ぶべきだ ❗❗


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●「高岡市」の市名「高岡」命名のウソ ❗?


「富山県大百科事典」(※富山新聞刊)には高岡市の「高岡」は「高岡山総持寺」の山号の「高岡」を取り上げたものだと云う。(※「高岡史料」参照)









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●「義経記」の「五位庄二位の渡し」の偽造 ❗ ❗

「義経記」の「五位庄の二位の渡し」を、小矢部川河口の「守山の渡し」で在ったとして、高岡市は「標注」を建てて、挙げ句の果てに巨大な「義経、弁慶の二位の渡しの彫像」を建設した。どうして「五位庄」が小矢部川河口に動いたのか? 行政と云えどもやり過ぎだろう。
国土迄高岡市は変更できると考えているのか? 義経主従が奥州に落ち延びた時代は後白河上皇が所有する「越中吉岡庄」と呼ばれていたが、赤丸浅井神社の記録を見ても、「吉岡庄」はせいぜい「国吉名」迄と見られる。⇒「吉岡庄」は沢川村、小野村等の西山の山村を経て、小矢部市の宮島迄が、赤丸浅井神社の初穂米収納のエリアとして含まれる事からその範囲と見られる。しかし、宮島峡から流れ出る子撫川の下流域は浅井神社の記録には見られない。
(※疑問の方は「義経記」小学館版、岩波文庫版の解説を熟読して頂きたい ❗ )


往古、「赤丸浅井神社前」で小矢部川と庄川が合流して「阿古ケ淵」(「吾子ケ淵」「悪王ケ淵」)を形成していたと伝える。この合流地点には「義経記」に記載される「二位の渡し」(後に五位の渡し)が在った。元正天皇は母親代わりになった聖武天皇を「吾子 アコ= 我が子」と宣命で述べている。聖武天皇の弟親王の石川朝臣広成が「赤丸浅井神社を創建した」とされる事から、「吾子ケ淵」が正しいと思われる。この淵には龍が住むとされていたものか「悪王ケ淵」とも呼ばれた様だ。赤丸浅井城城主中山氏が雄龍を射殺した為に雌龍に殺されたと云う伝承がある。



高岡市は地域史を知らない加賀藩の「富田景周」が書いた「越登賀三州誌」のデタラメを信じて、伏木河口に「義経記」の「二位の渡し」が在ったとして、観光宣伝してきた。

(※後に高岡市教育委員会の識者が「これは「●●海陸と言う観光会社の専務が創作したもの」と公式に明らかにして成人式でも小冊子迄配布したが、それでも反動勢力が教育委員会に再びのさばり、現在も高岡市の観光地になっている。かくて、嘘が真実として信じられる。)

「富田景周」は「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」に出てくる「元正天皇二宮」を否定し、「高岡市守山の古国府城の近くに守護町が有るから、如意の渡しは六渡寺村とその対岸の渡しの事がだろう」としている。しかし、この守護町は室町時代に斯波氏が短期間館を置いたとされるだけで、それ以前の守護館は放生津に在った事が明らかだ。これに対して、事実は「元正天皇の二宮が創建された赤丸浅井神社の前で往古、庄川と小矢部川が合流して阿光ケ淵と言う難所に成っていた為、その淵から下流は如意の渡しと呼ばれた舟下りルートを用いた。」と言う事で在り、「義経記」では「如意の城を後にして」と有るのは「五位の城=赤丸浅井城」を指していると説明されている。
(※赤丸浅井城を再興したとされる石黒光景は高岡市福岡町の木舟城城主石黒光弘の父に当たり、石黒光弘は源平盛衰紀に登場する人物で、後の承久の乱の後、敗れた石黒氏は名古屋へ落ち延びて長谷川大飯之と名乗り名古屋市西部に「如意郷」を開き「如意城」を築造している。従って、これ等の事から、「如意城」とは明らかに石黒氏の居城で在った「浅井城」を指している。又、源頼朝が義経探索の為に後白河上皇の庄園の「越中吉岡庄」に配置した地頭の「吉岡成佐」は、福岡町馬場村の「吉岡谷」に砦を設けていた事が明らかに成っており、「赤丸浅井城」がこの「吉岡館」を「守護の館の近ければ」と表現したと見られる。院政が行われた「後院領吉岡庄」の時代には「後院庁」の「後院司」が庄園の管理を担当しており、守護は配置されていない。頼朝の時代に義経探索の為として全国に地頭を配置した時に「後白河上皇の庄園の吉岡庄(吉岡谷)に地頭吉岡成佐を配置した」事が「吾妻鏡」に記載されている。


◎「義経記」記載の「五位庄二位の渡し」 ❗ ❗

(※小学館版、岩波書店版の解説欄を参照)⇒この解説者は「五位庄」の位置を知らない為に、小矢部市内での支流(宮島峡から流れ出る子撫川)の位置や高岡市の守護町の位置が「五位庄」から外れている事を知らなかったのだろう ❗ 近年の「五位庄」には小矢部市宮島は含まないし、高岡市の守護町は小矢部川の「守山の渡し」近くに在り、全く検討違いである。しかし、「義経記」が著されたとされる室町時代に於いては、「足利義満」が「相国寺」に「五位庄」に寄進した時にその範囲は拡大して福野町野尻や森山等も範囲に含まれていたと言う。この「義経記」は鎌倉時代初期の出来事で在り、高岡市教育委員会はこれ等の立地を熟知しながら故意に「二位の渡し」を小矢部川河口に位置付けたのは確信犯と云える ❗❗ それとも、高岡市の「学校教育の総本山の高岡市教育委員会」の先生方はこの子供でも読んでいる「義経記」すら読んだ事も無いのだろうか?
しかも、最近、伏木の小矢部川河口に在る偽物の「如意の渡しの義経・弁慶像」を公費で伏木駅前に動かしたと言うから、正に税金が使用されたのなら之は「背任」に当たるのではないか? 高岡市の税金を●●海陸と言う一企業の宣伝の為に拠出したのならばゆゆしい事だ。以前の東京都と同じく、高岡市は長年、同じ系統の勢力が牛耳ってきた為に政・官・業の癒着は甚だしい。高岡市に本当の規律を回復する為には、高岡市の市民オンブズマンの力量が問われている。









◎「赤丸浅井神社は元正天皇二宮により創建された」とする「赤丸浅井神社三社記」❗ ❗



◎「義経・弁慶の奥州下りの図」と「如意の渡し」
(※「六渡寺川舟下りルート」)を記載した古絵図(※「福岡町史」⇒庄川町図書館蔵)

小矢部川と庄川支流が合流した赤丸浅井神社前の「阿古ケ淵」の下流の川幅の広がった伏木河口迄を古くは「射水川」,後に「六渡寺川」と呼び,赤丸浅井神社前の「二位の渡し」から河口の「六渡寺の渡し」迄の舟下りルートを「如意の渡し」「六渡寺川舟下り」と呼んだ。
又、庄川は「雄神川」、小矢部川は「女神川」とも呼んだと云う。庄川上流には延喜式内社「雄神神社」が在り、小矢部川上流の宮島には延喜式内社「比売神社」、中流の吉岡庄の延喜式内社「赤丸浅井神社」にはびわ湖にも祀られている"河の江の神"「八河江比売神」と言う女神を祀っている。








(※参考)「義経記」が記載されたのは「室町時代」に入ってからだとされる。「室町時代」に、「五位庄」は室町将軍家の庄園で在り、「足利義満」は「五位庄」を「相国寺」(※塔頭 鹿苑寺金閣)に寄進している。その時期には「五位庄」が福野町野尻から伏木港迄と拡がっていた。(※「東寺百合文書」、「畠山家文書」




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●高岡市の和田(五位庄)の「荊波神社 ウバラジンジャ」の歴史の偽造 ❗ ❗

高岡市は開町400年事業として「富山県 高岡市の文化財」を発行した。
その中で【高岡市和田の「荊波神社」の祭神は「利波臣」の祖の「日子刺肩別命」を祀り、式内社を誇称している】と記載している。しかし、富山県神社庁発行の「富山県神社誌」に拠ると、その祭神は「瓊々杵尊・大己貴命・天照皇大神」であると記載されている。
高岡市教育委員会は、和田の「荊波神社由緒」は誇大に称しているとして「呼称」ではなく【誇称】していると記載している。しかし、以下の記事をご覧戴くと、高岡市教育委員会は誇大どころか全く神社庁の知らない由緒を偽造している事が判る。

十禅師;日吉山王(ヒエサンノウ)七社権現の一。瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を「権現」とする本地垂迹説による思想。国常立尊(クニトコタチノミコト)から数えて第10の神に当たり、地蔵菩薩(ジゾウボサツ)の垂迹(スイジャク)とされる。

高岡市の「教育」の司令塔の「教育委員会」はかくもいい加減で、嘘っぱちの歴史を高岡市の税金を使って、恰も真実の様に吹聴し、返す刀で、地元の真摯な信仰を「誇称」と非難している。又、「高岡市史」では、「延喜式内社」自体が疑わしいとして、この神社は比叡山の「十禅師社」を祀ったものだと主張している。高岡市は「十禅師社」の意味も知らないのか?
正に「荊波神社由緒」は、「十禅師」の一つの「瓊瓊杵尊」を御神体としている事を説明しており、高岡市の云う【「利波臣」の祖の「日子刺肩別命」を祀っている。】等は「神社由緒」の何処にも記載してない。かくも、地域住民の信仰対象の神社の「祭神」迄、高岡市は偽造して「高岡市史」で堂々と地域の信仰を非難しているのだ。

又、高岡市は、【この「福田庄」(五位庄の一部)は天台宗の「妙法院領」で、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子宗良親王が妙法院の院主から還俗された事から、越中に入られた時に「まず福田庄を頼られた。」】としている。しかし、この時には既に「福田庄」は敵方の北朝の親王が院主になっており、古文書の記録でも宗良親王の記録は無いとされている。(※「角川地名大事典」)
この一節は高岡市が「赤丸浅井神社」に伝わる「宗良親王の七の社の勧請伝説」を否定する為に「高岡市史」で主張している一節である。「赤丸浅井神社」には「宗良親王が上賀茂社、下鴨社、熊野社、八幡社、愛宕社」等の「七の社」を勧請されて、「李花集」に掲載されている「七の社のかけを離れて」の歌を歌われたとしている。「高岡市史」はこれがお気に召さないらしく、これは「福田庄」で歌われたと主張したいらしい ❗ 「福田庄の七の社」とはどこを指すのかの解説は勿論できる筈も無い ❗ 何故なら、「赤丸浅井神社」は高岡市の福田地区も含む「五位庄五十三ケ村総社」で有り、親が子の神社を否定する筈も無いからだ ❗ 高岡市は「五位庄」が何処迄含んでいたかも知らず、「赤丸浅井神社の由緒」も知らずに、こんなムダな論争を赤丸村に仕掛けて来ている。

【妙法院】;京都市東山区の天台宗寺院。新日吉(イマヒエ)門跡ともいい,天台三門跡の一つ。本尊は普賢菩薩。元々比叡山に在り、最澄の開創と伝える。1164年、後白河法皇が法住寺内に蓮華王院(三十三間堂)を建立し、後に新日吉社を現地に建立した時に比叡山から移して「法住寺」,「蓮華王院」を合わせて管掌させて「妙法院」と号した。赤丸村を含む「越中吉岡庄」は後白河上皇の庄園「後院領」の時に蓮華王院の維持の為に「蓮華王院」に寄進されている。

●「越中吉岡庄」は 後白河上皇により蓮華王院に寄進され、正応3年(1290年)には未だ蓮華王院領であった記載が「鎌倉遺文」に残されている。
【(正応3年※1290年)8月晦日、濫妨候了、又知行分蓮華王院領越中国吉岡庄役夫工米者、自蓮華王院…】東大寺文書四ノ十二(※鎌倉遺文23━32)
(http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller)
※正応年間(1288年~1292年)→この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。⇒1318年に後醍醐天皇が即位され、吉岡庄はその時に南朝の庄園となり、次いで南北朝の争いとなって、1350年(正平8年)に後醍醐天皇の皇子宗良親王が吉岡庄に駐屯された時に、明確に蓮華王院領から後醍醐天皇家の所領として「後院領吉岡庄」から「後醍醐天皇家領五位庄」(天皇は後醍醐天皇皇子の後村上天皇)と改名されたと見られる。(※「宝永史」参照)⇒宗良親王が妙法院院主、比叡山貫主(天台座主)から還俗された後は北朝の親王が歴代妙法院院主となっている。
◇『時代年表』
1281年 元寇 - 弘安の役。再び、元・高麗軍(約14万人)が侵攻してきたが総攻撃の前に台風で壊滅する。
1282年 北条時宗が円覚寺舎利殿を建立。
1284年 北条貞時が執権となる。
1285年 霜月騒動、有力御内人(内管領:平頼綱)と有力御家人(安達泰盛)の争い。有力御家人の壊滅。
1286年 両統迭立の議が起こる(大覚寺統(南朝)、持明院統(北朝))
1293年 平禅門の乱、北条貞時が鎌倉大地震の混乱に乗じて平頼綱とその一族を討つ。
1297年 永仁の徳政令- 日本初の徳政令。
1305年 嘉元の乱- 北条宗方の乱。
1317年 文保の和談-皇位継承を巡る幕府からの和談。
1318年 後醍醐天皇が即位する。(初代南朝天皇)
1324年 正中の変 - 後醍醐天皇による討幕計画で失敗。
1326年 嘉暦の騒動- 北条氏の家督争い。
1330年頃 吉田兼好による随筆「徒然草」ができる。
1331年 元弘の乱、後醍醐天皇による討幕計画で失敗。護良親王や楠木正成等が挙兵した。
1339年9月19日(延元4年8月16日 )後醍醐天皇崩御。
(これ等の経過からすると、同じ妙法院管轄であっても「越中吉岡庄」は蓮華王院の独自の庄園として伝領し、「福田庄」はあくまでも「妙法院領」として伝領してきた事が解る。)

これ等の事から、高岡市の云う「福田庄の歴史」は「ウソ」と「虚構」ででっち上げられたものと解る。此処まで嘘が書き連ねられると「高岡市」が「異常」とさえ感じさせられてしまう。何故、福田地区の延喜式内社「荊波神社」の信仰を否定し、かくも誤った認識を持つに至ったかの理由は分からない。






「富山県神社誌」







嘘っぱちの開町400年記念誌「富山県 高岡市の文化財」











■「東大寺杵名蛭庄図」を調べると、この庄園図の左脇には「荊原里 ウバラノサト」と記載されており、庄園の中には「石黒上里」「石黒中里」と記載されている。「延喜式神名帳」には「ウバラノヤブナミ」と記載されているものも有り、この図面には「利波臣志留志」が立ち会った署名がある。 通称【福田(在和田)の「 荊波神社」】の祭神は延喜式内社射水神社の祭神と同じ「瓊々杵命」で有り、県内の他の「 荊波神社」は「利波臣志留志」の祖を祭神としている所から、式内社としては皇室の祖の「瓊々杵命」を祭神としているこの和田の「 荊波神社」が真正と考えられる。「越中石黒系図」に拠ると、藤原氏の石黒氏が途中で利波臣の名跡を継いでおり、古くは藤原氏と石黒氏の系統が別々で在った事から、この「杵名蛭庄」の領主は古くは藤原氏系統の石黒氏だった可能性が強い。現在は、「石黒氏」は福光町石黒庄発祥とされているが、この古い正倉院に在る庄園図に「石黒上里」「石黒中里」の名が見られる事から、真正の「石黒氏」の発祥はこの庄園と深い繋がりを持っていたのではないだろうか?
従って、高岡市の知識人? は高岡市街地以外の文化は全て否定したいらしいが、これ等の検証から、「高岡市」の主張よりも地元の伝承の方が寧ろ主張に根拠がある。
(※高岡市和田の隣地の高岡市池田地区には古来から「イバラ神社」が有り、祭神は「地蔵菩薩」で有り、総持寺の土地を寄進した高岡市細池の池田家の敷地内には、「持ち宮」で在った「イバラの宮」の遺構(石造の地蔵菩薩の板光背)が遺されている。その神社は区画整理に伴って撤去されて地蔵尊だけが何処かへ移され、池田邸の庭には地蔵菩薩の板光背だけが残されて、旧地の写真と共に大切に保管されている。⇒その旧地にはイバラ「※野バラの事」が繁茂する林地が残されている。)



●これ等のいい加減な行政の姿勢の原因は何処にあるのか?
⇒歴史に対する誇りの喪失と無責任さで日本の歴史は歪められ、国民の無関心さが行政の暴走を助長している。



◎【真実が偽造されて日本国から歴史が消える ❗】

自前の「日本国憲法」と「民族の誇り」を持たない日本民族の未来は正確な歴史も持たない腑抜けの民となる ❗ ❗

[憲法14条1項]
14条1項は、「すべて国民は、法の下に平等」を前段、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」を後段とし、後段に列挙されている「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」という差別の具体例を後段列挙事由と言う。

日本国憲法は日本国民に法の下の平等を謳っている。この中の「性別、社会的身分又は門地」について、旧憲法の下では「華族制度」や「家門」という「門地」が有り、家族制度が国の基本になっていた。この弊害を除去した民主憲法として日本国憲法が制定された事になっている。しかし、この内容はアメリカ軍の占領下で強制的な意味も込めて成立した経過があり、従来の日本国家の家族制度の否定が根本にある。
この平等原則は法の執行の際に執行者の裁量でゆがめられ、現実にはさまざまな弊害も出てきている。


●日本の社会はこのままで良いのか ❗ ? 誰が日本社会を歪めたか?
国民、市民の誇りを奪う「国を愛せない議員や役人」の世界。様々な信仰を失った国民 と 国民の信仰も無視する行政 ❗

家族制度の崩壊は地域集落の結合や家族間の結合を破壊して、国民を単なる「労働者」に貶め、国民の自尊心を失わせ、古い秩序の長幼の序や礼儀、国民の象徴の天皇の尊厳の低下をもたらしている。
気になるのは、新聞、テレビ等の皇室報道で「○○さまが来た」とか「○○さまが言った」とかいう変な敬語が使われている事だ。通常は「○○さまが来た」は「○○さまが来られました」で有り、学校で習う「敬語」がマスコミには通用しないという現実がある。しかも、皇室については特に呼称が定められているにも関わらず、公共放送や報道もこれを守らない ❗ ❗

◎皇室関係の正式な呼び方は厳密に「皇室典範」で定められている。
『皇室典範(昭和二十二年一月十六日法律第三号)』
第四章
第二十三条  天皇、皇后、太皇太后及び皇太后の敬称は、「陛下」とする。
○2  前項の皇族以外の皇族の敬称は、「殿下」とする。
皇室典範でこの様に明確に定められているにも関わらずNHK等の公共放送でも守られていない。これは象徴天皇の侮辱になると思われるが、識者や指導者からも異論が出ない社会はどこかオカシイ。

■「個人情報保護法」というのが有るが、これも恣意的な運用で現場は困惑している。「福祉」の分野でも行政から「民生委員」等の嘱託をしておきながら、実際の場面では保護対象の老人等の名簿を行政が「個人情報保護法」に基づいて公開・提供しないという事もある様で、今、まさに、東海・東南海地震の対策で、地元の協力体制が作られなければならない時にも、家族内容、連絡先等の集落の構成内容の詳細が把握・共用できない状況にある。行政は「防災組織」と「自治組織」が地震防災の為には重要と言いながら、集落や団地等の個人情報の収集・共用を認めないという現実がある。政治家・行政は防災対策では「自治組織」の重要性を説いているが、実際にはこの法律で逆に住民の手足を縛り、口をふさいでいる。政治や行政は国民の事を真剣に考えているのだろうか? 公務員は「国民への奉仕」では無く、「国民の支配」に重点を置き、「民事不介入」という言葉が治安や福祉、民生にも大きく影響している。警察は殺害されて事件になるまで動かず、各種詐欺も摘発よりも啓蒙に力点を置く。要は「被害に会ったら考える」であって、対策が事前に実行されない。国防でも「専守防衛」を標榜して、敵国のミサイルで国民が壊滅したらようやく報復すると云うのだから「国民がいなくなったら防衛する」という事に等しい。
「日本国の少子化」が言われ始めて久しいが、何らの対策も実効性が無い。大臣に高給を支払っても若者は結婚も出産もしない。戦前は「お国の為に産めよ増やせよ」だったが、これも戦後はタブーとされ、「個人情報保護法」や「ストーカー対策」により、うっかり相手の事を調べたり、声をかけたりする事もできず、職場でもウッカリ声をかけたりして、ハラスメントと云われて騒がれ、会社から制裁を受ける場合も出てくる。昔は近所や親戚の「おせっかい叔父さん、叔母さん」が必ず居て、年頃の娘の紹介などが日常で行われ、お見合いで結婚する率が高かった。しかし、今は、自分の記載された戸籍しか調べられず、宗教施設でも昔は「過去帳」で親戚関係や係累も調べられたが、現在は本部からの通達が出て「過去帳の公開禁止」を通達している。
「家族制度の破壊」を極端に進めた政策で、今、日本国は消滅に確実に向かっている。いくら政治スローガンで「少子化対策」を唱えても、この実態を知らぬ顔で過ごしている政治家や官僚では何の対策も打てないと言うのが現状だ。若年層は「雇用の自由化」という資本家の論理で、低賃金の派遣やアルバイトで生計を立て、周辺に声もかけられず、調べる事もできない。昔は「盆踊り」等の集落の集まりでロマンスが芽生えたが、社交ダンスも「風俗営業」だと言って取締り、性の描写も「教育上」の理由から極端に抑え込む。人間は確かに高度な発達をした「人間」だが、基本は「動物」で有り「本能」が行動の基本に有る。「他人に迷惑をかけない」というモラルが抜けていなければ、もっと若者に自由を与え、単純労働者として日々の生活にやっとの思いで取り組んでいる若者に早急に目を向けないでどうする? 「女子の生殖年齢を考えると、時間的な余裕は無い。」と云う少子化を懸念する声も自由な世界ではセクハラになるらしい。しかし、これは嫌がらせでもなく、女子を持つ親の心からの願いの声である。
各自治体は「街造り」と称して観光政策を進め、歴史調査や街並み保存に多大の費用をかけている。何にしても時間が掛かりすぎ、その内に日本から人影が消えてしまい、外国人の国になるだろう。防衛の話しをしている内に国内は外国人に占領されるだろう❗
これについても「個人情報保護法」や「核家族化」、「門地の否定」等で、古い古文書や「由緒」等が秘匿され、焼却・廃棄され、売却されている現状がある。明治初期の廃仏毀釈運動で寺院が破壊され、仏像が野原に捨てられ、焼かれ、石仏は破壊された。現在は、行き過ぎた民主化の影響で、歴史を調べる事は「個人情報」に直結し、「門地」を調べる事に他ならない。歴史はあくまでも戦前まで続いていた「家族制度重視」で作られてきた。「由緒」や「歴史」が封印され、単なる「古びた街造り」が本当の観光振興なのか疑問を感じる。
特に最近は歴史の基本の古文書が家屋の新築の際に焼却・廃棄されて無くなってきている。「門地」が否定されたらこんな「由緒」や「歴史」は無用の長物であり、何時迄も保存する理由が無い。歴史が否定され、家族制度、婚姻制度が破壊され、日本国民の愛国心、社会の規律が失われた国家に本当に明日は来るのだろうか?


●「南朝」の後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」の史跡調査⇒『赤丸村』

『赤丸村』は、戦前には「南朝の歴史調査」の為に、多くの歴史学者や宮内省の調査団が訪れた。



高岡市の「越中宮極楽寺」から南朝の後醍醐天皇皇子の宗良親王の「供養表石」が発見されたと伝える地元新聞記事。






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