赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

◎室町幕府時代の「越中五位庄」⇒足利家菩提寺「相国寺」、「等持寺」、「等持院」の庄園!!

2017-07-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








「五位庄53ケ村総社 五位庄郷社 延喜式内社 赤丸浅井神社」
(富山県高岡市福岡町赤丸)







●「足利義満」と「相国寺」庄園『越中五位庄』⇒「東寺百合文書」の「やなた某書状案」!!

「東寺百合文書」には他にも「おいの庄」の記載が有るが、「やなた某書状案」には明確に「五位庄」として記載され、これ等の文書が時期的にも近い事から、国立歴史民俗博物館では「おいの庄」=「五位庄」と認定して庄園データーベースに追記している。








●『五位庄』の記録

「万年編年精要」(※「相国考記」)(応永12年7月11日;1405年)には、「足利義満」が日野夫人の追善領として「五位庄」を京都相国寺に寄進した事が記載される。(富山県史 中世)義満が相国寺に寄進する前は、「斯波氏」の所領であった事が永和二年(※1376年)の「越中守護斯波義将内書案」に見られ、(応永20年;1413年)3月18日付の「斯波義郷奉行やなた某書状案」(※東寺百合文書)により斯波義郷が奉行で在った事が判る。後の、応永22年(1415年)10月には「足利義持」が「五位庄」の半分を「京都等持院」に寄進した事が富山県史中世編に記載されている。(※足利義持御判御教書案・等持院常住記録)

▲足利氏は、菩提寺の「等持寺」(1341年)の建立に続いて、「別院北等持寺」(後の等持院)の建立(1343 年)をしている。
【⇒『等持寺』は京都市の三条坊門万里小路に在った禅宗寺院だが、現在では廃寺となっている。元々、「鳳凰山等持院」と云い現在の「等持院」の場所に位置していたが、貞和5年(1349年)頃、三条坊門万里小路に移転した。『等持寺』は十刹第1位の寺格を誇ったが、室町時代末期に廃寺になった。現在、京都市北区等持院北町には「等持院」が立地している。この「等持院」は足利将軍家の菩提寺で山号は「万年山」と云う。この「等持院」は足利将軍家と極めて密接な「等持寺」と混同される事が多いが、この「万年山等持院」は、元々、衣笠山の山上に在った真言宗寺院で、現在の場所に移って夢窓疎石を開山とする禅宗寺院になった。仁和寺の子院で在り、仏殿・方丈・僧堂・庫裏等の禅宗様の建造物と共に、歓喜天を祀る聖天堂、弘法大師に供奉する御影堂、長講堂・願王殿(雁王殿)・観音院・春日社・稲荷祠等の建造物も建っていたと云う。「万年山等持院」は「仁和寺等持院」「北等持」と云い、「万年山等持院」、「洛北等持院」と呼ばれている。(※「等持院」案内より)】







又、「等持院領五位庄」では、「蔭涼軒日録」(長禄3年10月7日、同4年閏9月6日)に拠ると、度々、年貢の未進が有り、「守護畠山政長」も年貢を納めていない事が寛正2年9月10日の記載に見られる。この庄園は次第に畠山氏に侵略された様で、庄園としては消滅したが、戦国期の(元亀3年)5月24日付の新庄城主鰺坂長実書状には加賀の一向一揆勢が五位庄に乱入した事が見え(※上杉家文書、増訂加能古文書)、天正5年11月23日付の「上杉謙信印判状」には「寺嶋牛介」に五位庄の知行を安堵した事が記載されている。(※金沢寺島蔵人邸文書、富山県史 中世)




「三州地理志稿」には加賀藩時代は57ケ村が五位庄内に在ったと記載されている。(※「角川地名大辞典」)
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