赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

「桓武天皇」と「赤丸浅井神社」の「清水寺」の信仰 ❗ ❗

2017-06-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

高岡市万葉歴史館

















「桓武天皇」(737年~806年) は第五十代天皇(在位781年~806年)で光仁天皇の皇子である。794年には都を平安京に遷した天皇として知られ、在位中に「坂上田村麻呂」を征夷大将軍として東北地方に派遣して蝦夷の討伐により朝廷権力を大きく伸長した天皇である。越中では、749年に大伴家持が東大寺占墾地使の僧平栄を饗応し、750年には墾田地視察の為に砺波郡主帳の多治比部北里の家に泊まり、751年の石山寺「官倉納穀交替記」には、6月27日に郡司の「砺波郡少領」として「外従八位下利波臣虫足」が登場し、この年の7月17日には大伴家持が少納言に任ぜられて翌月には帰朝している。757年には能登国を元に戻して越中国から分離させ、759年11月14日には僧平栄、越中国司等が越中国東大寺墾田地7処の開田図を申上し、同日、「奈良麻呂の変」で官に施入された「越中国砺波郡石粟村官施入田地図」が申上され、この図面には「浅井神」「櫛田神」「荊波神」等の神田と「国分金光明寺」の寺田が記載されている。
⇒(※「赤丸村浅井神社」、「大門町櫛田神社」、「福田村荊波神社 ウバラジンジャ」)
◇「荊波神社」は富山県内に数ヶ所の「論社」が在り、それぞれか延喜式内社であるとしているが、福田村では祭神を二上射水神社と同じ「瓊瓊杵尊」としている。他の神社では祭神を「古事記」で「高志利波臣」の祖先とされる孝霊天皇の子の「日子刺肩別命」としている。しかし、延喜式内社は国家が祖先神としたもので、その祭神は神代の神か、国策で国家の神とされた神々で有り、一地方氏族で、「利波臣志留志」が唯一、国司になったが、他は全て郡司で止まっている氏族の祖先神が国策の神々に列したと云う事は考えられない。「利波臣」は「越中石黒系図」では、祖先を石黒庄の庄官として赴任した「藤原氏」であるとし、石黒氏の分かれの福満五郎の子孫「石黒光久」が「利波臣」の名跡を継いだとしている。しかも、その「利波臣」は先祖を「日子刺肩別命」とは別系統の「武内宿禰」を祖としていると云う。他の「荊波神社」では「利波氏」が神官を勤めたり、「利波臣志留志」の墓所とされる場所が近くに在るからとしている。一方では小矢部市の「谷内古墳」は「利波臣」の墓所であるとされている。「利波臣」の墓所が数ヶ所に在り、その祖先神を祭る神社が数ヶ所在る事はあり得るが、砺波郡で7社しか選定されなかった神社に一地方豪族の祖先を国家の神として祭る事はあり得ない事だ ❗

767年(神護景雲元年)3月20日「利波臣志留志」が利波臣としては唯一、国司の「越中員外介」に任命され、志留志はこの年に東大寺に墾田100町を更に寄進して「東大寺庄園井山庄」となる。この時に志留志は、更に「従五位上」に追任されている。
桓武天皇の即位の前々年の779年には、東大寺大仏造営の時に多額の寄進を行い従五位上と成った「利波臣志留志」は伊賀守に任ぜられた。781年に桓武天皇が即位。784年11月には平城京から長岡京に遷都したが、785年9月に長岡京の建設を担当した「藤原種継暗殺事件」が発生し、桓武天皇の弟の早良親王が主犯とされて流罪となったが、親王は旅の途中で食を断って自害する。長岡遷都は桓武天皇が望み、桓武天皇の命を受けた藤原種継が藤原小黒麻呂・佐伯今毛人・紀船守・大中臣子老・坂上苅田麻呂等と共に長岡の地を視察し、同年長岡京の造宮使に任命されて造営したが、この遷都に反対した勢力が暗闇で藤原種継を矢で射殺したとされる。この事件は大伴一族が絡んでいた為に、主犯は大伴家持とされて、死後にもかかわらず財産は没収され、葬儀も許可されずに放置されたと云う。
(※加賀藩の時に、切支丹が亡くなると、遺体を塩漬けにして、葬儀・埋葬をする事を認めずに放置させたと云う。葬儀を認めないのは一種の刑罰で在った様だ❗)

「藤原種継暗殺事件」は桓武天皇が弟の早良親王を一旦、皇太子にしたものの、我が子を後継者にしたかった為に図った陰謀とも、早良親王が事前に事件の概要を承認していたともされる。早良親王は十一歳で東大寺です出家し、後に優れた学僧を輩出した大安寺に移る。早良親王は「禅師親王」として東大寺の造営に関わり、東大寺の後継者として期待されていたと云う。しかし、光仁天皇は兄の山部親王(後の桓武天皇)よりも弟の早良親王を「愛子」としたと大安寺の碑文に記載されていると云う。周りの貴族も早良親王の立太子を望み、早良親王は皇太子となったが、桓武天皇は実子の安殿親王の立太子を希望したが八歳での年齢であった事から光仁天皇の意思を受け入れたと云う。しかし、その四年後、早良親王は亡くなった。桓武天皇が旧都の平城宮に行幸した時に、早良親王は藤原種継等と共に留守を命ぜられ、「監国」と言う天皇の代理となった。この「監国」とは次期天皇としての皇位継承権を確認する行為でもあった。その留守を預かった時期に信任した藤原種継が伯耆桴麿イカダマロ等と共に大伴継人、佐伯高成も主犯格とされて、その背後には大伴家持がいたとされた。家持は後に名誉を回復されたが、大伴氏、佐伯氏は壊滅的な打撃を受け、東大寺と密接だった早良親王は死後も怨霊として畏れられた。早良親王没後の延暦6年(787年)、桓武天皇の姪の五百井女王は越中の国吉、岩坪辺りに在った「須加庄」を東大寺華厳院に寄進した。
桓武天皇は即位時に東北の蝦夷が反乱を起こし、東北の砦の多賀城は焼きつくされた。延暦十六年に坂上田村麻呂を征夷大将軍として蝦夷の討伐に当たらせた。坂上田村麻呂は胆沢城を築き、鎮守府を移し、降伏した蝦夷の酋長を処刑した。桓武天皇の母は百済系の高野新笠であり、坂上田村麻呂の先祖は漢の高祖を祖先としてその十二代目だと云う。桓武天皇は同じ帰化人の系統として坂上田村麻呂を信任し、大納言正三位に迄、昇進した。しかし、武勇のみを誇る田村麻呂は鹿狩りの時に不思議な僧に出合い、その僧は静かに殺生を説き、田村麻呂はその教えに感銘して仏の目を開き、延暦十七年(798年)には清水寺を創建した。

赤丸村には正確な勧請年はハッキリしないが、赤丸浅井神社の奥山の清水山には往古、観音堂と言う寺が在り、その本尊は清水寺方式の特異な「千手観音像」を本尊として、その中腹には往古、坂上田村麻呂を「将軍地蔵」として祭る「愛宕神社」が鎮座していた。清水観音堂は現在も小さい祠として残っており、この中には千手観音の石仏が本尊として祭られている。
愛宕神社は明治の廃仏毀釈で廃棄され、祭神の「将軍地蔵」は元、赤丸村に在り、現在は高岡駅南に移った「天景寺」の客仏として近郷の火伏せの神として信仰されている様だ。京都の清水寺は「千手観音像」、「将軍地蔵」、「毘沙門天」を祭っているが、「赤丸浅井神社」の別当寺の「川人山鞍馬寺」には「毘沙門」が祭られていた。従って、赤丸の浅井神社周辺には、全体として「清水寺信仰」が具現化されていたのだ。その中腹には清水寺の「音羽の滝」に因んで「音羽の滝」も在った。「赤丸浅井神社」の「浅井神社三社誌」には「国吉郷、五位庄、宮島郷二村」が往古、「吉岡庄」と呼ばれた古代庄園の時の範囲の様だが、その国吉郷の「東大寺庄園須加庄」は桓武天皇の姪の「五百位女王」の旧領で有り、その地域の「赤丸浅井神社」の神域には「清水寺観音像」や桓武天皇が寵愛した坂上田村麻呂を型どった「将軍地蔵」を祭る「愛宕神社」が在った。「将軍地蔵」は戦国期にも戦勝の神とされ、小さい「将軍地蔵」を「兜仏」として「兜」に納めて戦いに臨んだと云う。赤丸浅井神社の祭神が大伴氏の氏神の「高皇産霊神」を祭っているのも大伴氏が朝廷を守護する武人の一族だった事と密接だったのだろう ❗
赤丸浅井神社には武人の神の「八幡社」が摂社として舞谷村に祭られている事も有り、武人が戦勝を祈願したらしい。赤丸浅井神社奥の赤丸公園には武人の「大和武尊」(ヤマトタケルノミコト)も祭られている。
「利波臣」の末裔の「越中石黒氏」の別邸に建つ小矢部市岡の宝性寺にはこの坂上田村麻呂の「兜仏」が保管されている。東大寺を核として、この越中五位庄には桓武天皇の時の文化が現在も生きている。






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