赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴📃勧進帳の真実の舞台は「越中吉岡庄(赤丸村)」⇒「義経記」の五位庄(吉岡庄)「如意の渡し」!!

2017-06-17 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村

源頼朝・源義経



古い時代には小矢部川は西山の麓を流れて、赤丸浅井神社・浅井城の前で庄川と合流して「吾子ケ淵」と言う広大な淵となっていた。「赤丸浅井神社」は「元正天皇二ノ宮の御創建」の由緒を持ち、この宮は聖武天皇の弟に当たる。ここに在った舟乗場を「二位の渡し場」と呼び、浅井神社と隣接する「浅井城」を東大寺大仏の為に米五千石を寄進した石黒氏の居城として「如意の城」と呼んだと見られる。


石川県立図書館に残る「浅井神社故墟図」⇒小矢部川と庄川の合流点の「吾子ケ淵」が記載される。








古書に記載される『義経記』⇒後ろには「赤丸浅井神社」!?








源頼朝が義経の探索の為として配置した地頭の「吉岡成佐」が、庄園の地頭として徴収した収入を納めないとして、「後院領越中吉岡庄」(※赤丸村を含む五位庄の前身で上皇の後院領)の領主の後白河上皇はこの地頭を何とかする様に頼朝に申し入れられた。
(※後院領とは、天皇を退位された上皇の庄園の事。「越中吉岡庄」は後の後醍醐天皇迄、皇室庄園として続いた。その後、五位庄と改名された。「越中吉岡庄」の範囲は富山県立公文書館に保管される「(赤丸)浅井神社由緒」に拠ると、「赤丸浅井神社は国吉郷24ケ村、(小矢部市)宮島郷2ケ村を含む53ケ村の鎮守社」とされており、古くはこの範囲が「越中吉岡庄」の範囲と考えられる。)









高岡市の「衆徳山総持寺」に祀られる「国指定重要文化財木造千手観音座像」は巨大な「如意宝珠」を捧げている。この「総持寺」は「赤丸浅井城」の近接地に在ったが、「越中五位庄」が「足利義満」によって「京都相国寺」に寄進された頃に赤丸村を去ったとされる。(※赤丸浅井神社の伝承)
※この観音像には、「大壇那 藤原浄円」「金剛位理卿 本願聖人」「仏所 幸賀 大仏師」「頼真 小仏師」「奉納 仏舎利」等の多くの胎内記名が記載されている。「大壇那」(※資金を出した人)は鎌倉幕府評定衆の「藤原浄円」(※「貞永式目」の起草者)、「本願聖人 金剛位理」(※祈願した人)とは「後鳥羽上皇」の法名。⇒この庄園は後白河上皇、後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄皇室庄園として続いた。




「義経記」で義経、弁慶主従は「五位庄に至りて」(※鎌倉時代は「越中吉岡庄」と呼ばれた後白河上皇の「後院領」)、「如意の城を後にして」「二位の渡しから舟に乗らんとして」「如意の渡しを過ぎて」と「如意」と言う言葉が出てくる。「如意」とは「如意宝珠」の事で、又は「仏舎利」を意味する。後白河上皇は「保元の乱」で敗れた摂関家長者藤原頼長の庄園「越中吉岡庄」を没官して後白河上皇の「後院領」に組み込んだ。(※「平範記」)
後白河上皇は「吉岡庄」を自ら創建した「蓮華王院三十三間堂」の庄園とされた。この三十三間堂には1001体の千手観音像が安置されており、「吉岡庄」はこの時に正に千手観音像を守る庄園で在ったと云える。










赤丸村に在った小矢部川の「二位の渡し」の前には「如意宝珠」を捧げ持ち、胎内に「仏舎利」が納められた総持寺の「千手観音像」が祀られていた。この観音像は南北朝時代に赤丸村の総持寺に伝わった(※「国宝概説」)とされているが、胎内には「後鳥羽上皇の法名、金剛位理卿 本願聖人」や「(鎌倉幕府評定衆) 藤原浄圓 大壇那」の署名が在り、実際に製作されたのは鎌倉時代と見られる。この隣接地に建つ「赤丸浅井城」の城主はかつて「東大寺大仏造営の時に米五千石を寄進」した「越中石黒氏」で有り、石黒氏は「仏」を信仰して、後に尾張に移った一族は「如意郷」を開き、「如意城」を居城にしている。越中石黒氏は後鳥羽上皇が起こされた「承久の乱」、南北朝時代の「五位庄の戦い」で敗れて一時期、越中から撤退した様だ。従って、ここで云う「如意の城」とは後の「五位の城」の事で有り、「赤丸浅井城」の事である。「赤丸名勝誌」に拠ると、石黒氏は鎌倉時代末期に承久の乱に敗れて北条氏に降伏した時に「新川に去った」とされ、南北朝の五位庄の戦いの後には「足利氏に敗れて、東北を経由して尾張に逃れ、長谷川と改名」して、尾張如意郷に「如意城」を建てたとされる。この経過から義経の都落ちの時には石黒氏の居城で在ったと見られる。「赤丸浅井神社」は後白河上皇の皇子が初代門跡を勤められた「聖護院本山派」の山伏が支配する両部神道の神社で在った。
(※「二位の渡し」では「渡し守」として「平権の守」が登場するが、源平合戦前には越中吉岡庄の一部の国吉名には平家物語、源平盛衰記にも登場する「越中前司平盛俊」が居館を構えて、越中と能登を統治したと伝わる。この人物から「平権の守」が推定されたものと見られる。越中吉岡庄が後白河上皇の庄園となった初期には吉岡庄には平家が入っていたと見られる。


⇒ 平家全盛の平安時代には、「国吉名」に平家の武将「越中次郎兵衛」が館を構えて、目代として能登と越中を治めたと云う。(※「國吉村史」「越登賀三州史」
(※「平家物語」、「源平盛衰記」に「越中前司盛俊」とその子「越中次郎兵衛盛嗣」が登場する。)




「浅井古墟図」川人他治馬画 石川県立図書館(森田柿園文庫)
(赤丸浅井神社は聖護院派の山伏。聖護院は門跡寺院で、熊野三山検校兼務、三井寺筆頭⇒後白河上皇は三井寺で出家。本山派ー熊野本宮派。真言宗。→※「当山派」修験道は天台宗。)






吉岡荘の地頭「吉岡成佐館」のあった吉岡谷


「義経記」に見られる「二位の渡」(五位の渡)と云う船乗り場と「如意の渡」(六渡寺川船渡し)と云う川下りルート❗ (✳「義経記」小学館版 参照)


✳「五位の渡」は昭和時代迄、現在の赤丸村向野に在る「五位橋」の少し上流に在り、加賀藩の時代は官営の渡場だった。(「福岡町史」参照)
「義経記」の解説に見られる「五位山から流れ出る子撫川」は赤丸浅井神社の後方の花尾村から流れ出る「谷内川 ヤチガワ」との錯誤と見られ、昔は浅井神社裏の「音羽の滝」という水量の多い滝もこの川に流入しており、この写真は昭和時代迄赤丸小学校に保管されていたが、平成25年度の高岡市福岡町民俗史料館主催の「第1回西山歴史街道を行く」展にはこの写真が展示されていた。この川は赤丸浅井神社の前で今も往古の小矢部川跡を流れる五位庄用水路とクロスして流れており、この場所で庄川も合流していた事から、相当広大な「阿古ケ淵」と呼ばれた沼地が広がっていた様だ。





✳加賀藩政の時代は赤丸村領三日市に米蔵が在った為、「三日市渡し」と呼ばれた。





加賀藩参勤交代絵図に見られる「五位の渡し」





「六渡寺川船渡し」(如意の渡し)の図


世に知られる「勧進帳」の「石川県安宅の関」の場面は、室町時代に記されたと云われる「義経記」では「越中の五位庄」の事件とされている。義経主従は平氏に焼かれた東大寺復興勧進の聖護院派山伏に身をやつして熊野修験道のネットワークの北陸道を東北の羽黒山へ向かうと云う口実で各地で勧進をしながらの旅であった。赤丸村の延喜式内浅井神社・川人山鞍馬寺は両部神道で聖護院派山伏であった。北陸は奥州藤原氏が信仰して鐘を寄進した白山修験道の福井県の平泉寺や石川県の白山比神社、越中の立山修験道が広がる修験道のメッカであり、越中吉岡荘(後の五位庄)の領主は九郎義経の支援者の後白河上皇であった。越中吉岡荘は元藤原氏長者藤原頼長の荘園だったが保元の乱で後白河上皇に没官された。藤原頼長は藤原氏の長者(束ね)として自分の奥州の荘園を九郎義経(義顕)の支援者の奥州藤原氏に管理をさせていた。
✳「白山比神社」には文治2年2月11日(1186年)源義経が参拝したとされる。白山比神社は全国三千余社の白山神社の総本宮で石川県白山市鶴来町に在る。(義経記)
✳「源義経」は「九郎義経」の他に近江源氏で木曽義仲に従った「山本(源)義経」がおり、当時としては「山本(源)義経」の方が有名人で、義経記の考証でも学者によって混同が見られる。
(✳赤丸浅井城は東大寺大仏造営に際して米五千石【東大寺要録】、荘園100町歩を寄進した利波臣志留志の末裔の石黒氏の居城であった。)



「五位庄」は、鎌倉時代には「越中吉岡荘」と呼び、後白河上皇の「後院領」で、延喜式内社赤丸村浅井神社や浅井城の前の「二位の渡し」の至近距離の加茂地内には地頭の「吉岡成佐館」(✳「吾妻鏡」)が有り吉岡西・東砦が在った。「二位の渡し」から小矢部川河口の六渡寺村迄の川下りルートは「六渡寺川舟渡し」「如意の渡し」と呼ばれた。
(※小矢部川と庄川が合流していた赤丸村の下流を六渡寺川、射水川とも呼び、庄川(雄神川)に対して流れが緩やかな事から女神川とも呼んだ。)

「義経を弁慶打ち奉る事」あらすじ


義経主従は福井県、石川県を過ぎて富山県境の倶利伽羅山(砺波山)の「手向け神社」に詣でて源平合戦の激戦地で祈りを捧げ、小矢部市松永の「五位堂」で一夜を明かす。夜明に「五位庄」で「如意の渡」を船に乗って渡ろうとされた時に、(二位の渡し、五位の渡しの)関守(渡守)の「平氏の権の守」が 「暫くお待ちくだされい。申すべき事がある。この渡リは越中の守護の館に近いところであるからして、以前より仰せ事を賜っておったところ、山伏は五人三人であろうというに及ばず、十人ほども連れだったならば、守護へ子細を報告しないで、渡すことは違法であるぞと仰せ付けられておる。見れば十七、八人も渡られるようす、我等あやしく思うがゆえに、守護へ報告した上でお渡しいたしましょう」と申したので武蔵坊弁慶は憎々しく反論をする。「この北陸道で羽黒の山伏讃岐を見知らぬ者があろうか」と云うと船の中程に乗っていた者が見知っていると云う。権の守は「見知っているならばお前が取り計らって渡してやったらいい」と云う。このやり取りを聞いた弁慶は「我等はただの山伏よ。もしこの中にいるならこれが九郎判官よと名指ししておっしゃれ」と云うと「あの舳先にいる村千鳥の摺衣をお召しになっている人があやしく思われる」と申したので、「あの者は加賀の白山より連れてきた御坊だ。あの1人の為にあちらこちらで人々にあやしまれる事は不埒な事よ」と言ったけれども、判官は返事もしないで俯いておいでになる。弁慶は腹が立った様子で判官に走り寄り船端に足をかけ、その腕をむんずとつかんで肩にかけ、浜へ走り上がり、砂地の上にがばと投げ捨てて、腰にさした扇を抜き、いたわしげもなく、続けさまにうちすえた。見ている人そのむごさに目もあてることができない。北の方(奥方)はあまりの心憂さに声を上げて泣き悲しむほどに思われたが、さすがに人目が多いので、さらぬ体にておいでになる。平権の守これを見て「羽黒山伏程非情な者はない。『判官ではない』とさえいわれたならば、それだけのことであるのに、こんなに容赦なく非情に打ちたたくことの心憂さよ。煎じつめれば、これは自分が疑ったばかりにお打ち申したと云うことになる。こんなにおいたわしいことはござらん。これにお乗り下され」と言って船をさし寄せた。舵取りお乗せして云うことには、「さあ早く船賃をお渡し下さい」と云う。「常日頃、羽黒山伏から船賃を取ったことはないけれど、御坊があまりに乱暴し放題でおいでなので、船賃取って渡すのだ。さあ早く船賃をお渡し下さい」と云って船を渡さない。弁慶は「この稚児(義経)の父は坂田次郎と云って酒田湊はその領内だからお前が出羽に行くときに報復するぞ」と脅す。「何とでも云え。船賃なしではよう渡すまい」と云って船を出さない。弁慶は「仕方がない」と云うなり、北の方(義経の奥方)がお召しになっていた帷(かたびら)のこの上なく美しいのを脱がせて渡守に取らせた。権の守は帷を取って申すには「法によって取るには取ったが、あの御坊のいとわしいゆえに差し上げよう」と云って判官に手渡した。かくて六渡寺を越えて、奈呉の林をさして歩いて行かれる。武蔵坊は「いつまで御主君の身分をお隠し申し上げようというので、現実の主人を打ち奉ることの恐ろしさよ。あの世この世の罪の恐れもおそろしや。八幡大菩薩お許し下され。それにしても何と浅ましい我等が宿世であることよ」と云ってさすがに勇猛な弁慶が伏し転がって泣いたので、お供の侍どもも一つところに顔を並べて、消え入るように泣きうずくまった。義経は「これは人の為ではない。自分の為にしたことだ。こんなに果報拙い義経にこのように志深くついてくるお前達の行く末の果報がいかがと思えば、涙がこぼれることぞ」と袖をお濡らしになった。お供の面々はこのお言葉を聞いてなお一層袂を絞った。そうしているうちに日も暮れたので、泣く泣く道を辿って行かれた。やや暫くして北の方(奥方)が「三途の河を渡る時には着ているものを剥がれると云うが、それに少しも違わぬ風情であったよな」と云いつつ、岩瀬の森にお着きになった。

「小矢部川」


「赤丸の川人山鞍馬寺の聖護院献納札」










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