赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

📚📃「越中吉岡庄」に伝わる黄金の千手観音像の謎??

2017-06-14 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村
高岡駅南にある古刹の「衆徳山総持寺」では秘仏の「国指定重要文化財 木造千手観音坐像」の年一回の「御開帳」と「護摩祈願」が行われています。
(日時)毎年11月
(場所)高岡瑞龍寺の近所です。








「衆徳山総持寺千手観音像の胎内名」




「衆徳山総持寺千手観音像の胎内名に記載される大壇那藤原浄圓」



高岡駅南にある古刹の「衆徳山総持寺」にはその昔から、黄金に輝く千手観音像が有り、南朝の天皇行在所になっていた河内金剛寺の僧「禅恵」の名前が胎内名に有るとして昭和12年には国宝になったが、残念ながらその他の胎内名は殆ど調査もされずに今日に至っている。昭和39年に富山県教育委員会が調査しているが、膨大な「胎内名」には手が付けられていない。残念なのはこの千手観音像が像仏されたいきさつが全く解明されていない事だ。とりわけ、この仏像の胎内のど真ん中にドカーンと書かれている「金剛位理 本願聖人」「藤原浄円 大旦那」の記載については全くどの学者も触れていない事だ。この「衆徳山総持寺」が高岡市街地に移転する前に在った「越中吉岡庄」は長く藤原摂関家の荘園で、その後は後白河上皇、後鳥羽上皇以降も後醍醐天皇迄続いた天皇直轄領の「後院領」と呼ばれた荘園で、「後院司」と言われる役人が管理していた場所である。南朝末に「下鴨神社領」となり、桃井直常、斯波高経の所領を経て室町時代には足利義満により「相国寺」の荘園となり後には足利家菩提寺「等持院」等の荘園として続いた著名な荘園である。しかし、「源平合戦」「承久の乱」「太平記」に出てくる「五位庄の戦い」、管領畠山氏の絡んだ「応仁の乱」や、上杉謙信、織田信長の攻撃、一向一揆による騒乱等、歴史的に絶え間なく戦乱の渦に巻き込まれた。その後も、前田利家が佐々成政を放逐して越中を占領すると、抵抗した一族、地域は徹底的に破壊、消滅させられた。中には赤丸村の様に神保氏張に従った地域は、集落の半数近くが高岡の和田新村へ強制移住させられたらしい。
(※「城端別院文書」「和田佐助寄進状」)   
主要な寺院も高岡市内へ移転させられ、占領地には70%以上もの過酷な税の取り立てが行われ、土木工事などの様々な労役が課せられていた。そむけば磔の刑にし、投獄して弾圧していた。前任の佐々成政は悪人とされ、その伝承は消し去られたと云う。前田利家と佐々成政が戦った「末森の戦い」でまんまと佐々勢をだまして前田を勝利に導いた沢川村田端氏等は辺り一面の所領をもらい、無役十村として権勢を誇っていた。高い税率を逃れる為、山中や荒れ地、川の沿岸等のわずかの土地に米や豆を植えて住民は耐え忍んだ。五位庄では用水の脇に堆積したわずかな土の上には「稲」を植え、田と田の間のわずか10センチ余りの「畔」にも「豆」を植えた。加賀藩は「十村断獄事件」をデッチあげて、「隠し田」の罪で百姓を取り纏める十村役を能登島に流罪にし、肝煎り、組合頭も連座して処刑され、十村役の数人を死亡させている。加賀藩の農政の記録に拠れば、その上、役人は米の計量時にわざと米をコボして役得とした。これ等の混乱の中で古い文化や記録について寺社はその「記録」を失った。現在、富山県の殆どの重要記録は石川県立図書館や金沢市立図書館に保存され、高岡の地元の人達がその歴史に触れる機会は少ない。金沢市内の加賀藩は100万石の財力を謳歌し、同じ加賀藩の高岡市内の商工業者も庇護されて贅の限りを尽くしたが、富山県の加賀藩領は「越中さ」と蔑んで収奪を強めた。金沢市内ではこの時代に「料亭文化」が花開き、旦那衆は「一両めかけ」と呼ばれる位に妾を囲ったと伝わる。越中高岡の人間は「てんびん商売」が当たり前で、金沢の人間は「一両貯まれば妾を囲って贅を尽くした」事を表す諺である。金沢以外の能登地区、富山県は加賀藩の属領として扱われ、越中五箇山と能登島は流人を流す場所であった。

「衆徳山総持寺」の千手観音像の胎内名を調べると、この「越中吉岡庄の歴史」が明らかになる。
「金剛位理 本願聖人」とは「後鳥羽上皇の法名」で有り、「藤原浄円 大旦那」については鎌倉幕府で執権と共に政治を行った「評定衆」の一人の「左兵衛尉藤原長定法師 法名浄圓」※斉藤長定 である。この仏像は恐らく世を恨んで亡くなった「崇徳上皇」を慰める為に、後鳥羽上皇と藤原浄円が慶派の七條仏所にいた「幸賀」に造仏させ、絵仏師として南都繪所の「頼真」を起用したものだ。この事は「吾妻鑑」等にも詳細が記載されており、藤原浄円は後鳥羽上皇が隠岐の島で亡くなられた年の暮れに亡くなっている。後鳥羽上皇が「承久の乱」を起こした時、そのリーダーは能登守もした藤原秀康だが、後鳥羽上皇は戦況不利とみるや逆に藤原秀康を逆賊として院宣を出して裏切った。結果、藤原秀康は斬首となり、後鳥羽上皇は息子の仁和寺道助入道親王により出家し、法名を「金剛位良然」となって、隠岐の島に流罪になる。後鳥羽上皇は生前、崇徳上皇の怨霊を慰めるため、四国の金毘羅宮に祭られた崇徳院の霊に対して勅使を遣わしている。この仏像が崇徳院の為か、承久の乱で裏切った藤原秀康等を弔う為だったのかは判らないが、評定衆を出していた「斎藤氏」は越中で承久の乱の際に後鳥羽上皇に味方した石黒氏の同族の「藤原氏」である。

何故、文化庁や富山県、高岡市、そして学会迄もこの「衆徳山総持寺」の千手観音像の解明に否定的なのかは判らない。現在、この観音像は秘仏として年に一回だけ、十一月中旬に御開帳される。河内金剛寺に残る「後醍醐天皇綸旨」に拠ると、この仏像には空海が唐から持ち帰った東寺保存の仏舎利が施入されている可能性が高い。この観音像の胎内名には何と、大事な顔の内側に「奉納仏舎利」と2か所も墨書が残されている。

後醍醐天皇は宝冠に赤い太陽を示す玉を乗せ、空海が着たと云う法衣を着た肖像が有名だ。後醍醐天皇は建武の中興の為に戦った時には、天皇旗の金の円を「怨念を示す赤い丸に塗りつぶし軍旗にしていた」と伝わる。後醍醐天皇の荘園、越中吉岡庄赤丸村の浅井城には後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が在城されたと伝わり、赤丸城ケ平の中腹にはその屋敷跡と伝わる「親王屋敷址」が残されている。従って、「赤丸村」の名称も「赤丸をシンボルにした後醍醐天皇の所領」という所から名づけられたとも考えられる。「赤丸村」の名称は一四九五年に「五位庄赤丸に住んだ藤原直家が法要を営んだ」と記載されている「東海和尚録」※「富山県史 中世」  が初めてで、古い時代の記録には「吉岡庄」「御い庄」「五位庄」は見られるが「赤丸」という表現はこれ以後である。
尤も、伝承では、浅井神社に草庵を結んだ泰澄大師が元正天皇の弥栄を祈って全ての祭器に赤丸を付けた事が「赤丸村」の始まりだと伝えるが、これは如何にも後から作られた説話と考えられる。東海地方では「茅かやくぐり」の神事と共に「赤丸の神事」と言って「赤ちゃんの額に赤丸印をつけて「疳の虫」を封じる神事が行われている。これが「虫封じ」の祭事ならば、「赤丸浅井神社に蝗害除去祈願の為、一条天皇が勅使川原左京を遣わされた」と伝わる赤丸浅井神社の神事に関わる名称であったものだろうか?

◎「越中吉岡庄」については「富山県史」「福岡町史」等で「福岡町周辺の五位庄のエリアに近いものが吉岡庄だろう」としていたが、歴史書には富山市の吉岡村、氷見の山中に在る吉岡を該当地だとする記載が有った。2014/05/19 に「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構国立歴史民俗博物館」では「吉岡庄は下鴨神社の荘園であった。吉岡庄地頭の吉岡成佐の居館が在った吉岡谷の存在。」等からこの「五位庄の前身がほぼ吉岡庄と考えられる」として意見の統一が図られた。



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