赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔘 富山県の「吉岡庄」(赤丸村)と「奥州平泉」との関係ー【藤原頼長と源義経】!!

2017-09-24 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村

「延喜式」では、赤丸浅井神社の山裾にあったと云う川合駅(川人駅)には駅馬が五疋配置されていたと云う。

藤原基成の父の従兄弟は義経の母の常磐御前が再婚した一条長成で有り、基成の娘は藤原秀衡の正室であった。

■「越中吉岡庄」は元々、藤原摂関家長者・左大臣藤原頼長の庄園で在ったが、崇徳上皇・藤原頼長 対 後白河上皇・源義朝・平清盛の戦いに成った「保元の乱」で頼長が敗れて、後には後白河上皇の「後院領」と呼ばれた庄園と成り、以降、後鳥羽上皇~後醍醐天皇迄天皇家庄園として伝領した庄園である。
藤原頼長は藤原摂関家の長として全国に29庄の庄園を保有していたとされる。この中には、越中吉岡庄、能登一青庄の他、東北には配下の奥州藤原氏に管理させていた5ケ所の庄園が在った。現在の宮城県には高鞍庄(栗原郡)・本良庄(本吉郡)、山形県には大曽根庄(東村山郡)・屋代庄(東置賜郡)・遊佐郡(庄内地方)の庄園が藤原家の庄園として在り、これ等は父の関白忠実から久安四年(1148年)に頼長に譲られた庄園であると言う。藤原頼長の日記の「台記」には仁平三年(1153年)に奥州藤原氏の基衡との税率の変更についての記録が在り、奥州から金25本を金55本に、その他の馬、布、細布、漆、鷲羽根、水豹皮等を5割り増しにした事が記載されている。これを見れば藤原頼長の厳しい徴税の実態が分かるが、越中吉岡庄に於いても同様で在ったと見られる。奥州の五庄は寄進系の庄園と見られているが、越中吉岡庄についても藤原氏である越中石黒氏からの寄進系の庄園とも見られ、吉岡庄は白河上皇が上賀茂神社に寄進されて以来、藤原氏の越中石黒氏の庄園と成りその石黒氏が寄進したものと見られる。

◎「浅井城跡」; 赤丸村に在り。孝霊天皇の第三皇子彦刺方別命の五世孫某砺波臣の姓を賜り(古事記)その後裔累世此地方を領して此処に居舘せり⇒「利波臣」は奈良時代に郡司を務めた越中の豪族で有り、「石黒系図」ではその名跡を継いだのは「越中石黒氏」で在り、「花園天皇の頃から石黒光弘の後裔此地に住し延元中石黒次郎光景此地に城を築きて南朝の為に謀りし事あり興国三年宗良親王を奉迎せり。」とされる。(※「富山県西礪波郡紀要」砺波郡役所発行)


(※「武者の世に」集英社 参照)


義経が福井の「平泉寺」、赤丸村の「二位の渡し」(五ゐの城)を経由した背景を考えてみる。
奥州平泉の藤原秀衡は福井県の平泉寺に鐘を寄進した記録があると伝えられ、奥州との関係が深かったようだ。又、勝山市の平泉寺は白山登山の福井側の登山口に当たり、昔は相当の数の比叡山の系統の僧兵がいたと伝わる。「義経記」を読んでみても弁慶は元々、熊野修験道の僧であり、修験道を中心とした両部神道の寺社の情報は熟知していたものと見え、義経が平泉寺参詣を希望してもアッサリと承諾している。修験道の勧進僧に姿を変えての潜航は、元より日本海側には白山、立山等の修験道のメッカが有り、熊野から白山、立山の麓には両部神道の寺社が展開していた事が背景に有ったようだ。義経の義理の父で常盤御前の再婚相手の「大蔵卿一条長成」が奥州藤原氏の親族で有り、後白河上皇の娘と称する者が平泉に居た事もあってか義経は逃亡先を奥州平泉に定めた。後白河上皇の親王で高野山とも密接な仁和寺宮守覺法親王(母は藤原季成の娘)や藤原範季が密かに義経の支援をし(吾妻鏡第三巻 文治二年十一月*1186年)、又、後白河上皇の親王の静恵法親王が修験道本山派の聖護院に入寺され聖護院が門跡寺院となって全国に二万余りの末寺を抱える大集団で有った事も有り、全国の高野山系、聖護院派系の寺社は義経主従にとっては比較的安全だと考えたものと思われる。

後白河上皇の皇子の仁和寺宮守覺法親王の母は「藤原季成の娘」である。
【 源範頼;源頼朝、源義経の異母弟、蒲冠者、参州、三河守】の背景を調べると、源範頼は
・1150年父を源義朝、母を池田宿の遊女として産まれる。
・熱田大宮司藤原氏[由良御前(源頼朝の母)]が密かに京都で養育。
・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟[勘解由丞季成(藤原季成)]が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育されて「蒲冠者」と呼ばれる 。
・源頼朝は,1147年(久安3年)に源義朝の三男として現在の熱田区旗屋で生まれた。母 は,熱田大宮司の藤原季範(としのり)の娘「由良御前」である。
⇒源義経の義弟の源範頼は藤原季成に養育され、その娘は後白河上皇に嫁して守覺法親王を生む。この関係があったからか、守覺法親王は背後で源義経が奥州に落ち延びた時に支援したとされる。守覺法親王は福井県の「久河北荘」(旧吉田郡河合村・森田村)を所有したが、この庄園は九頭竜川以北の大荘園で古代の足羽郡川合郷の名を継いで「河合荘」とも言われた。藤原頼長の縁者の仁和寺相応院の僧「隆憲」が仁和寺御室の守覚法親王に寄進した所領がその前身となり建久元年に見作田(現在耕作される田。見=現)60町が二品守覚法親王「親王家領」となった。この庄園は義経が平泉寺に参詣する時の安全な経由地であったと思われる。

しかも、越中に入り、小矢部川の船下りルートの渡船場が在った「越中吉岡庄」(後の五位庄赤丸村)は「保元の乱」の後に後白河上皇の荘園となり、頼朝の配下の地頭「吉岡成佐」が配置される前は、保元の乱で敗れた藤原頼長の所領であった。奥州平泉に五か所の荘園を持ち奥州藤原氏に荘園を管理させていた藤原氏長者の藤原頼長は元々、越中吉岡庄、能登一青荘の領主でも有り、直前まで奥州と越中、能登には同じ領主の国が展開していた。源頼朝の家臣の畠山氏や義経の正妻の父の川越氏は同族の秩父平氏であり、義経の逃避行に同行していた川越氏の娘に対しても温情が在ったものか? 畠山重忠や義経の正妻の父の河越太郎重頼は元々、頼朝の旗揚げに参加した後家人で幕府の功労者であったが、頼朝と義経が不和になった一件で同じ様に清盛と戦った義経が敵に成り、しかも、河越太郎重頼の娘と義経の仲人は頼朝と云う複雑な事になった。畠山重忠は義経の愛妾の静御前が頼朝の面前での舞を強いられた時にも不憫に思い自ら鼓の打ち手を希望したとされる。頼朝が地頭吉岡成佐を配置する以前には、壇之浦の戦いに義経軍に従軍して戦功を挙げた「石黒氏の縁者の加賀の林氏」が一時期、越中を治めたと云う。(※「林一族」寺西艸骨著) 当時の越中の責任者が義経のお陰で配置された加賀の名族「林氏」であった事から、越中ではその同族の石黒氏、宮崎氏等が支援し、加賀では林本家と冨樫等の同族が背後で支援したものと見られる。又、石黒氏は福井県の敦賀を発祥として、福井県には三国等も同族を先祖とした地域だ。源頼朝の厳命にも関わらず、義経の行方が分からなかったのは、こうした背景があったからだ。強大な山伏集団を抱えた越前平泉寺には奥州の藤原氏が梵鐘を寄進する程親交があり、石川県では林氏の本拠地の鶴来に在る「白山比咩神社」は平泉寺白山山伏を大量に抱えていた。北陸路は熊野→白山→奥州羽黒山に通じる「修験の道」であり、山伏に扮した義経一行は、英雄としての義経への畏怖と幅広い人脈に大いに助けられていたと見える。「吾妻鏡」には「以前として義顕(義経の事)の消息が知れない」と再三にわたり、記述されている。
この様な背景から、「聖護院派山伏」の赤丸浅井神社の鎮座する「越中吉岡庄」に対する義経の警戒感も鎌倉幕府の領域を通過する関東近辺よりも比較的に少なかったと思われる。「義経記」に拠ると、数回の危険な関所対応を割と簡単に行っている。弁慶の機転とされているが、北陸道各地の義経主従に対する同情と前記の様な背景があって各地の関所を通過したものと考えられる。
(※義経の正妻の父の河越太郎重頼は、義経の探索が進まない事から頼朝に誅殺され、畠山重忠は力強い畠山氏を警戒した北条時政によって騙し討ちされる。秩父平氏畠山氏の後には北条義時の計らいで政子の娘(重忠の妻)が源氏の足利義純と再婚して、「畠山」の名跡を継ぎ、以降は源氏系畠山氏になった。室町時代に管令となり、河内、紀州、越中、能登を領した「畠山氏」は源氏の足利氏一門。)
(※源範頼:源頼朝、義経の腹違いの弟。遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(カバノカジャ)、蒲殿と呼ばれる。藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼして戦功を挙げ、源氏一門として鎌倉幕府に於いて重臣となったが、後には頼朝に謀反の疑いをかけられて誅殺された。)

●「蒲村」は現在の浜松市に合併している。旧区分(遠江国浜松郡)では地図上のNo50が該当する。浜松町はNo11。(Wikipedia参照)

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