赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴🌸🔘「越中五位庄」に伝えられた「連歌」の文化 ⇒「越中五位庄」に残る「舞句」の文化!!

2017-06-20 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸























●「室町幕府第三代足利義満」は「越中五位庄」を室の業子の追善供養料として自らが創建した「相国寺」(※「塔頭 鹿苑寺金閣」)に寄進した。足利義満の母「紀良子」の縁者で義満近臣の「越中蜷川氏」は幕府の「政所代」として、この時に「越中二郡(砺波郡、新川郡)」を統治したという。この「越中蜷川氏」の「蜷川新右エ門」は「連歌」を好み、「宗祇」の高弟として活躍した。







「飯尾宗祇」は、系図には「越中射水臣」の末裔に「飯尾氏」が在り、能登畠山氏を訪ねて「越中五位庄」を訪れ、「里の名の こんかきくけこ ごえのしょう(五位庄)」と歌を遺している。

「宗祇」が「五位庄」に伝えた「連歌」は元々、神社仏閣で開催された「二十三夜」や「十六夜」の月の出を待つ「法楽」の行事で行われた「歌詠みの会」で詠まれた「100首の和歌の連歌」の事で、厳格な歌作りの取り決めが在った。その後、神事や仏事に限らず厳格な取り決めを離れて、洒落や笑い等を加えて作られたものは「俳諧の連歌」と呼ばれ、連歌に準じて当初は100首を詠み繋ぐ行事で在った。それが江戸時代に入り「芭蕉」等により「俳句」として活発に詠まれた。その「芭蕉」は越中に訪れて倶利伽羅の古戦場で「義仲の寝覚めの山か月かなし」と詠んだとされる。













■「東寺百合文書」に拠ると、「室町時代」には「砺波郡五位庄」は二上山の麓から福野町野尻迄広がっていたとされる。「蜷川家文書」には氷見市の「阿努庄」に関する「蜷川新右エ門親元」の文書が遺されており、室町時代には五位庄が氷見市の一部迄広がっていた可能性が在る。(※「東寺百合文書」に拠ると、「射水郡の内」として「五位庄東庄」が記載され、又、1200年代には既に、五位庄が福野町野尻迄広がっていたとされる。⇒※「相良家文書」)



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