赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🏯🐎📃「織田信長」の越中包囲網⇒美濃の根尾一族の越中・加賀・越前での一向衆との戦い!!

2017-11-04 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
越中と飛騨の境の「飛騨口」・越前大野と石山本願寺の間・越中砺波郡には織田信長配下の「根尾氏」が配置され、能登畠山氏の眼前の高岡市「守山城」には「織田信長の妹」が神保氏張の妻として送り込まれた。神保氏張は能登畠山氏から神保氏の養子となった人物だった。
青線は郡上八幡経由の車の時間⇒「根尾谷 薄墨桜」


「越前大野城」・「岐阜高山城」には織田信長配下の「金森氏」が配置された。

(※「越前大野城」大野市歴史博物館)

石山本願寺の浄土真宗顕如は織田信長の勢力が強くなり、当初は軍資金の調達等でも無理難題を聞いていたものの、信長と不仲になった足利義昭の信長追討令も有り、元亀元年(1570年)に本願寺と織田氏が交戦状態に入った「石山合戦」が始まり、信長に対する戦闘指示を全国の門徒に発令した。本願寺顕如は、1557年、近江に勢力を持つ六角定頼の養女の如春尼と婚姻したが、この実姉が武田信玄の正妻の三条の方であった。1571年、顕如は朝倉義景の娘を長男教如の妻とした。1571年には織田信長軍の明智光秀は比叡山を焼き討ちして衆徒3000人を殺し、1573年3月に武田信玄が急逝すると、同年8月には朝倉義景、浅井長政を攻め滅ぼした。元々、織田信長の先祖は越前織田町の「剣神社の神官の養子となった平家の子孫」とも「忌部氏」ともされ、朝倉、織田は両者共に足利幕府斯波氏の家臣であった。やがて、織田氏は尾張で守護代として勢力を拡大して天下を狙う様になる。武田信玄や朝倉義景と縁組した石山本願寺は当然の成行として織田信長の敵となる。加えて、越中では一向衆の勢力拡大に対して守護の畠山氏と越後の上杉謙信が提携。上杉謙信と織田信長は武田信玄に対抗して提携する様になる。元々、越前朝倉氏は越前と加賀の境に在った興福寺庄園河口庄の地頭であり、古い宗教勢力である藤原氏の氏寺の興福寺からの依頼を受けてこの地を治めていたが、税の未納があった為に、かねてよりの興福寺大乗院と真宗の蓮如の師弟関係から、この地の吉崎と言う場所に真宗の布教拠点の「吉崎御坊」の開設を認めたと言う背景があった。従って、越前朝倉氏は古い宗教勢力と新しい宗教勢力の浄土真宗の両方に接点を持つ様になる。だが、当初は穏便にしたい蓮如が信徒の暴発を抑えたものの、やがては一向一揆は各地に拡がりを見せる。古い宗教勢力の比叡山も織田信長の圧迫に激しく抵抗をして、やがては織田信長の焼き討ちと云う悲劇を迎える。しかし、浄土真宗の中では必ずしも全てが「反織田信長」ではなく、一向一揆衆は、浄土真宗でも越前に多くの信徒を持った「高田本山派」や「三門徒派」の寺院も襲撃して焼き討ちにしたと云う。この様な複雑な情勢の中で、織田信長の妹は能登と越中の境に近い「高岡守山城」の神保氏張の妻として送り込まれ、飛騨金森氏の配下の根尾氏は越中と飛騨の境の飛騨口を抑え、又、この根尾氏は越前大野から石山本願寺に向かう越前口を抑えて警戒体勢を取っていた。「岐阜県歴史資料館」発行の「織田信長と岐阜」には、織田信長がこの「根尾氏」に発給した三通の「織田信長文書」が紹介されている。
●一)1通は【元亀二年十二月、根尾右京亮他二名宛、加賀、越前より大坂石山本願寺に通じる道を押さえる様に命じたもの、荷物や身体を絡めとれとする命令書。】
(※森本京子文書⇒ 岐阜県歴史資料館 に寄贈)
●二)1通は【天正二年五月、根尾右京亮他二名宛、越前国大野郡内小山七郷・同公文跡職を任命したもの。】(※根尾友四郎家文書→富山県砺波市文化財)
●三)1通は、【天正二年六月、根尾右京亮他二名宛、織田信長が徳川家康の応援に遠州へ出馬している間に、越前一向一揆が美濃へ侵攻しない様に飛騨口で防ぐ事を命じたもの。】
(※富山県高岡市高尾宗豊氏文書) がある。
■「根尾氏」は「薄墨桜」で有名な岐阜県根尾谷を発祥とする一族で、織田信長に従った国人領主で、織田信長の重臣の金森氏に従って一族の一部は「金森」を名乗り、飛騨高山城、越前大野城に拠点を構えた「金森氏」の重臣として活躍したとされる。「薄墨桜」もこの根尾氏の「墓標」ともされる。富山県では砺波市に子孫が帰農したとされ、チューリップ栽培を振興し、中越銀行の創設にも貢献したと云う。

又、「岐阜県歴史資料館」にある「元亀二年 西尾小六宛知行安堵朱印状」によると、この西尾小六は元々斉藤道三の家臣だったが後に織田信長に仕えた人物で、この頃、織田信長は将軍足利義昭の裏工作で浅井、朝倉、六角氏の残党、三好三人衆、甲斐武田氏、本願寺等の反信長派に包囲され、その包囲網を撃ち破る為に激闘し、九月には一揆の籠る近江金ケ崎城を撃破し、六月には三重県長島の一揆を壊滅させ、継いで「比叡山延暦寺」を攻撃した。この文書は西尾小六に「多芸郡」(現在の養老郡)から軍の資金を徴収する様に指示したものである。

当初、一向一揆は穏やかな一揆であったが、蓮如の忠告も聞かなくなり、各地で蜂起し始めると、本願寺側では坊官の下間氏が武闘派の先頭に立ち各地で戦闘が激化する。越中五位庄の長光寺は一向衆の拠点となり、「赤丸浅井城」には「法橋下間和泉」が入城して、五位庄には一向一揆衆が集結したと云う。「五位庄」の領主は高岡市柴野城の「寺島牛介」であったが、この時はこの主家の「神保氏張」が高岡市守山城の城主であった。「神保氏張」は織田信長の妹を妻としていたが上杉謙信に敗れてからは、上杉家臣となっており、織田信長からは妻と離縁させられたと云う。

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