赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴 『越中吉岡庄地頭沙弥迎蓮(相良頼俊)』の素性⇒『源頼朝』 家臣「相良氏」の記録 🔹🔹【求麻外史】!!

2017-09-01 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸





●肥後(熊本)人吉藩の記録「求麻外史」に記録される「越中吉岡庄地頭沙弥迎蓮」の記録!!
「求麻」とはその昔、「熊曽」が住んだ事から古くは「熊郡」と呼ばれ、後に「求麻郡」と成り、「球磨郡」に成ったと云う。

【熊襲は日本の記紀神話に登場し、九州南部に本拠地を構えてヤマト王権に抵抗したとされる人々の事で、地域名に成っている。古事記には「熊曾」とされ、日本書紀では「熊襲」、筑前国風土記では「球磨囎唹」と表記される。※Wikipedia】



「訳 文」





■「静岡県牧之原市相良郷」を発祥とする「相良氏」の「相良長頼」は源頼朝の旗上げに参画して、頼朝の死亡した時に出家し「蓮仏」と号す。元久二年に北条時政が頼朝家臣の畠山重忠と争い、将軍源実朝軍は武蔵二俣川で重忠と戦った。この時に「蓮仏」は畠山重忠一族の首級を幾つも上げて、その軍功として「肥後人吉庄」の地頭職を与えられた。その他にもこの「沙弥蓮仏」には恩賞として各地に所領を与えられた。その三男の「沙弥迎蓮」(※相良頼俊)はそれ等の所領を相続して、後鳥羽上皇が起こされた「承久の乱(承久3年.1221年)では「北条軍」として参画して更に所領を広げたと云う。更に蒙古襲来(「元寇」:文永の役.1274年、2度目は弘安の役.1281年)の時に「沙弥迎蓮」(※相良頼俊)は高齢ながらも肥後菊池氏に従い、蒙古軍を大量に捕縛して殺害する等の大活躍をして更に所領を広げたと云う。



『求麻外史』



























★「越中吉岡庄」の地頭は、当初、源頼朝が全国に地頭を配置した時には「吉岡成佐」と言う人物だった様だ。「源義経主従」が「越中吉岡庄」の二位の渡しから舟に乗ろうとした時に待ったを掛けた「勧進帳」の有名な場面ー弁慶の義経殴打事件ーに登場する人物は「吾妻鏡」の記載からすると、時期的に「吉岡成佐」と言う人物が該当する。源頼朝から地頭に任命された「吉岡成佐」は頼朝の旗上げに参画して所領を得たとされる京都の「宮道氏」で、「太田」 と称した時に「吉岡庄」の地頭と成り、「吉岡成佐」と称し、頼朝から交替させられた後には富山市周辺の「太田保」に入り、「蜷川郷」に住まいして「蜷川氏」を名乗ったと見られる。「蜷川郷」には「吉岡村」が在り、蜷川氏の一部は「吉岡」と号したと云う。又、「蜷川氏の本家は吉岡氏」とも記載されている。(※「蜷川の郷土史」)


「吾妻鏡」には「後白河上皇からの奉書到来、源頼朝の申し入れの文書」が記載されており、「地頭吉岡成佐」はこの事件で罷免された。「吉岡成佐」の罷免の後、「後白河上皇」が「蓮華王院」に寄進された「越中吉岡庄」には「相良氏」が地頭として配置された事が、前記の「沙弥迎蓮書状」から窺える。




★「越中蜷川氏」はその後、源氏の足利氏やその家臣で政所の伊勢氏と縁組をして、室町時代には室町幕府の政所代として越中の広大な「新川郡』と「砺波郡」の「越中二郡」を統治したと云う。
(※室町時代足利義満の時に「越中五位庄」は高岡市伏木から高岡市般若野[※五位庄の東庄]、南砺市福野の野尻郷迄広がっていたと見られる。⇒※「東寺百合文書 やなた某書状案」、「畠山文書」)




「室町時代の越中統治絵図」(※「畠山家文書」)
『政治』 ã‚¸ãƒ£ãƒ³ãƒ«ã®ãƒ©ãƒ³ã‚­ãƒ³ã‚°
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